7月19日『爆発』

星空図書館の住居区画。

愛衣は渋い表情で、来夢から借りたスマホを耳に当てていた。

『愛衣?』

「……はい」

『今日、名古屋の気温何度だったっけ?』

「………………28度」

『残念、それは朝の気温だ。俺が聞いてるのは最高気温』

「えっと…………さんじゅう……ご?」

『39.7度。四捨五入したら40度だわ!!』

スピーカーにしてないにも関わらず、怒り爆発といった大樹の怒鳴り声が、少し離れた来夢にも聞こえてきた。熱中症で倒れた愛衣を運んできた瑠奈もぴゃっと肩を竦めた。

愛衣がここまで怒られているのを、来夢は初めて見た。というか、大樹の大声を初めて聞いた。

というのも、愛衣が熱中症で倒れ、瑠奈となごみに図書館に運び込まれて、留宇に応急処置されて今に至るのだった。

『災害級の気温っつって熱中症警戒アラート出とるやろが!! 最低限の準備もせんとなにをのこのこ出歩いとんのじゃ!!図書館の前で倒れたのは不幸中の幸いだったとしてもだな!!』

「ん〜……ごめんなさいって、兄さん」

熱中症で倒れた人に、そんなに怒鳴って大丈夫なんだろうか。

しかし大樹のお叱り電話は五分とも続かず、すぐに切れた。

スマホを耳から離した愛衣は、大きなため息をついて、来夢にスマホを返した。

「お、お騒がせしました」

スマホを受け取った途端、来夢を押し退けて瑠奈が愛衣に抱きつき、猫が甘えるみたいにすりすりと頬を腕に擦り寄せてはじめた。

「瑠奈ちゃん……心配かけてごめんなさい」

「こらこら瑠奈さん、愛衣さんはまだ体調が万全ではないのですよ」

穏やかに嗜めながら、和が瑠奈を抱きかかえて「それでは愛衣さん、お大事に」と客間を出て行った。

留宇が買ってきてくれた経口補水液のペットボトルを首に当てて涼を取らせた。その間に、留宇は夏休みの間に増えた来館客の対応をしに行くと言い、こちらも客間を後にする。

「すみません、一緒にいてあげたいのですが、今図書館の方で手が離せなくて……」

まだ火照った頬を撫でると、行ってあてげください、とやんわりと口を開いた。

「ちゃんと横になってるんですよ」

頭を撫でると嬉しそうに微笑む。それだけで行きたくなくなるのをグッと堪えて。来夢も客間を後にしたのだった。


と、ここまでが三時間前の話。

そして今、客間で休んでいたはずの愛衣は、何故か来夢の自室のベッドで布団を被って横になっていた。

「客間に行ったら姿が見えないので、寿命縮むかと思いましたよ」

「……ごめんなさい、客間のベッド、なんだか知らない匂いがして眠れなくて……ここだと来夢くんの匂いがして落ち着くので……つい」

布団を口元まで引き上げて申し訳なさそうに、けれどどこか安心しきって眉を下げる愛衣の表情に、来夢の心はあっさりと撃ち抜かれた。

なんだそれ。可愛すぎないか。

今すぐ抱きしめてあげたいのを堪え、頭を撫でるだけに抑えた。

「夢、見てた気がする……でも覚えてない」

「夢なんてそんなものですよ。悪い夢ならなおさら忘れた方がいいです」

来夢を見上げる様は自然と上目遣いになって、これまたぎゅっと心を掴まれる。

「来夢くんのことも、覚えてなくなるのはやだなぁ」

「え?」

「夢川来夢。夢で始まって、夢で終わる名前だから。夢で終わっちゃうのは、やだ。寂しい」

「大丈夫ですよ。この夢は醒めませんから」

指同士を絡ませて、現実だと確かめさせる。

まだ夢見心地の眼差しをさまよわせて、すっぽりと布団に顔を隠してしまった。

「もう少し横になっててくださいね。冷たいタオルと、なにか胃に入れられるものを持ってきます。それと、まだ外は暑いので、時間を見て雪彦さんに連絡して、迎えに来てもらいましょう」

声なく頷いた彼女の額にキスを落として、図書館に戻る。ちょうど子供たちに読書感想文を教え終わった留宇が、テーブルで背伸びをしていた。

「愛衣ちゃんの様子、どないやった?」

「可愛すぎて心臓が持ちません」

「そらよかったなぁ」



「………………ごまかせた、かな」

ぽふっと枕に顔を埋めると、ほんのりムスクの匂いがする。少し爽やかで雨上がりの匂いに似ていた。来夢が使っているシャンプーの匂いだろうか。とても落ち着く。

来夢にはあんなふうに言ったけれど、さっき見た夢の内容もまだ、はっきりと覚えている。


青く揺らめく水面から、光の柱が差し込んでいる。

ぼんやりと視界が霞みはじめて、手足の動きが鈍くなる。

水面が遠くなって、視界の端からだんだんと暗くなっていく。

眠りに落ちる時みたいに遠くなる意識の中で、大量のあぶくが上へ向かってゆっくりと登っていくのが見えた。

鉛をつけているみたいに重たい腕を伸ばしたけれど、届かなくて、ただ、水を掴んだだけだった。

それを最期に、真っ暗になった。


そして、目を見開いたとき、見覚えのある天井があった。けれどどこか他人行儀な匂いしかしなくて、寂しくなって、怖くなって、そっと客間のベッドを抜け出して来夢の部屋に来たのだ。


まさか、水死体になる誰かの夢を見るとは。

「……こんな夢見たなんて、来夢くんに言えるわけない」

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