7月14日『お下がり』

平日の金曜日。この日、来夢は昼間の時間を狙って一之瀬家を訪れていた。

昨晩、急に愛衣の兄に当たる大樹から電話がかかってきたのだ。


『来夢くん、急にで悪いんだけど、明日何時でもいいから、うちに来てくれるかい? ちょっと話したいことがあって』


そう電話口で言われて、何か愛衣との交際に関してやらかしたろうか、と不安になりつつ緊張した心持ちで訪れると、なんてことない、浴衣のサイズ調整で呼ばれただけだった。

今、来夢が袖を通している菫色すみれいろの浴衣には銀の刺繍で七宝柄が入っている。着心地も問題ない。麻でできているため、シャリ感があってさほど暑さを感じない。

そして驚いたのが、大樹からのお下がりだとは到底思えないくらいに手入れが行き届いている。元々、大樹は夏の間は浴衣で過ごすことがほとんどらしく、今日も利休鼠りきゅうねずみの浴衣を着ていた。

「大樹さん、本当に頂いてしまっていいんですか?」

「いいのいいの。嵐志が着るかと思ってとっておいたけど、アイツが着れる背丈になるまであと二、三年はかかりそうだからさ。それなら、今着れる人に渡した方が、浴衣も嬉しいだろうし」

少し丈の長い裾を、来夢の背丈に合わせて、手際よく待針を刺していく。待針を刺し終えると、次の浴衣に袖を通すように言われる。今度は瑠璃紺色るりこんいろの生地に、さりげなく露草と蛍の絵柄が入っていた。

和服とは全く縁のない来夢でもわかるくらい、大樹の選ぶ和装はセンスが良かった。この蛍の浴衣は、中学三年のときに着て以来、背が伸びすぎて着れなくなってしまったと、笑いながら教えてくれた。

簡単に帯のゆわえ方も教えてもらい、何度か練習している時だった。

「愛衣とはどう? うまくやれてる?」

浴衣の裾を足首あたりに伸ばしながら大樹が聞いてきた。

特に問い詰める様子でもなく、明日の天気や今日の夕飯のメニューを聞いてくるようなさりげなさがあり、一瞬跳ね上がった心臓はすぐに落ち着きを取り戻した。

「はい。愛衣ちゃんには、いつも助けていただいてます。なんともお恥ずかしいことですが」

「ははっ、あいつ結構世話焼きだからなぁ。昔っから気に食わないことがあれば突っかかるし、友だち付き合いは苦手なのに、心を開いた人には甘えたがりだし。万華鏡みたいにくるくる表情が変わるのに、傷ついたことはずっと忘れられないでずっと苦い顔をしている」

それは、ずっと見てきた兄だからこその視点なのだろう。小さい頃を思い出して、おかしそうに声を上げて笑っていた。大樹と愛衣、今はいないけれど、弟の嵐志に妹の結衣。この家の兄妹は、本当に仲が良い。

「うまくやれているのなら、良かった」

襟元を整えて、帯を結んで、大樹の手が浴衣から離れた。防虫剤がわりだと言っていたレモングラスの香りが、布地から鮮やかに香る。姿見に写る自分の姿が、別の人のように見えた。

待針で止めたところを縫い繕って終わりだ。針が刺さらないように浴衣を脱いでいたときだった。

「あいつの書く物語、どうか最後まで読んでやってね」

おだやかな眼差しで、そう告げられた。

どうして大樹がそんなことを言うのかわからなかったけれど、もちろんです、と胸を張って答えた。

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