第34話 やっと辿り着いた場所

 それから私は、もう一度父親と会うことにした。


 門坂かどさかさん経由で連絡を取ったが、門坂さんはその話しぶりから、随分とほっとした様子で話を聞き入れてくれて、割と早く手筈はまとまった。


 待ち合わせの場所は、あららぎ中央公園の大噴水の前。この街のシンボル的な場所の一つでもあって、休みの日ともなればそこそこの人で賑わう場所だ。初夏の公園は、新緑の緑と植えられた花々の色が鮮やかで目に眩しかった。


 そんな中、いくつも設置されているベンチの一つに、父親は座って待っていた。スーツでも喪服でもなく、ややカジュアルな感じの格好。グレーのジャケットにワインレッドのVネックシャツ、黒のストレッチチノパン姿は、なかなか様になっている。


 かしこまった形で話し合うのは、やっぱり性に合わない。最初からこれぐらいの感じだった方が良かったのかも。


「やあ、咲希さき……正直、また会ってもらえるとは思ってもいなかったよ」


 私の姿を見るなり、父親は何やら眩しそうな、それでいて少し悲しそうな目で私を見た。


「おじさんが借りていたもの、お返しします」


 父親の隣に座り、紙製の手提げ袋を差し出すと、父親は何も言わずにそれを受け取り、大事そうに脇へと置いた。


楠江くすえ君には感謝だな。色々と叱られることもあったが」


 ぽつりとそう呟いた父親の言葉が、少し意外だった。


「おじさんに、叱られた?」


「ああ。男だったら、愛する者には愛しているとはっきり言え、とね」


 そう言って、気まずそうに頭を掻き、私から視線を外す父親。


 おじさん、そんなこと言ってたんだ――どこからどう見ても胡散臭い、ただのおじさんにしか見えないのだが、なかなかどうして格好良いことを言う。


「私は、その……感情を表に出すのが、あまり得意なほうではないんだ。妻にも時々、小言を言われたよ」


「ええ……そんなので、よくお母さんと」


奈央なおは……お前のお母さんは、とても優しい人だった。そんな私のことも、よく理解してくれていた」


 父親はそう言ってから、大噴水の回りに巡らされた広い花壇へ目を向けた。少し離れたところを、小さな子供連れの夫婦が楽しそうに歩いている。


「ところで咲希、どうしてここを待ち合わせの場所に?」


 私は少しの間を置いてから、答えた。


「この公園、よくお母さんが連れてきてくれたんです。子供の頃、出かける場所って言えばここだったことが多かったから」


 たぶん、お金がない中でもそれなりに楽しめる場所として、お母さんは私をここに連れてきてくれていたのだと思う。あとは図書館だったり、公営の美術館や博物館だったり――いずれも無料か、無料に近い金額で行ける場所だ。


 だが、父親の反応は私の想像とは違った。


「そうか。お前のお母さんは、花が好きだったからな」


 言われてみれば、お母さんは時々切り花を買ってきては、それほど多くはない部屋の調度品だったシンプルな花瓶に生けて飾っていた。この公園は、私を楽しませる場所であっただけでなく、お母さんにとっても癒やしの場所だったのかも知れない。


 しばらくの間、私達は無言で花壇の花々を眺めていた。その沈黙を破ったのは、父親だった。


「咲希……自分でこんなことを言うのも何だが、私はもう歳だ」


「……」


「だからせめて、私が生きている間に、お前に何か報いてやりたいと思う。それがわがまま、自己満足と罵られても、だ。だが、今の私の手元にあるのは金だけだ」


 それから父親は大きなため息をつき、うなだれた。


「お前のお母さんには、何もしてやれなかったが……だから、お前のお母さんが残してくれたお前に、せめて何かをしてやりたいと思う」


「そうですか」


 私は軽く目を閉じ、深呼吸した。自分の中で、様々な感情が渦巻いていた。


 だが、おじさんから言われた言葉を思い出し、目の前にいる寂しげな一人の男性を見ていると、だんだんと気持ちが一つの方向へと向かっていく。


「奥さんや息子さんのこと、愛していましたか?」


 私の問いかけに、父親はうなだれたまま、両手で顔を覆って頷く。


「ああ、愛していた。かけがいのない家族だった」


「私のお母さんのことは?」


「……愛していたよ。和子と比べることは出来ないぐらいに。それがいけないことだとは分かっていたが」


「だったら、その……私のことは?」


 少し言いにくかったが、その問いに父親は鼻水をすすりながら答えた。


「ああ、愛している。奈央がこの世に残してくれた、最後の宝だ」


 近くを通る人々の視線が、こちらへ集中している――ああもう、恥ずかしいったらないなぁ。


「分かりました……もう良いです」


 私はもう一度、大きく深呼吸してから言った。


「これ以上昔のことを言い続けても、誰も幸せにはなれないから……だから、もういいよ。


 この一言を言うまでに、随分と長い時間がかかってしまった。ここに辿り着くまでに、私の中でもいろんな思いが複雑に絡み合っていたが、ようやく口にしてみると、重くのしかかっていた肩の荷が下りたように感じられた。


 お父さんは涙を流したまま、呆然と私を見ていたが、やがて再び顔をうつむけ、小さな嗚咽おえつを漏らしながら言った。


「すまん……いや、違うな。咲希、ありがとう」


「もういいったら……恥ずかしいから、早く泣き止んでよ。いい大人がみっともない」


「ふふ……手厳しいな。お前のお母さんも、たまに似たようなことを言っていた」


 被りを振って苦笑する私を尻目に、お父さんはようやくポケットからハンカチを取り出して、ゴシゴシとタオルで顔を拭くように涙を拭った。


「でもね、お父さん……私にも色々とあるから、今すぐ一緒に暮らすっていうのは、ちょっと難しいと思う」


「……ああ、分かるよ」


「だから、色々なことを整理するのに協力して欲しい」


「もちろんだ」


「あと、お母さんのこと……私にはほとんど何も出来ていなかったけれども、お願い出来るかな?」


 私の言葉に、最初は少し戸惑っていたお父さんだったが、やがて私の言いたいことを理解してくれたようだった。


「ああ。すぐにでも墓の手配をして、きちんととむらってあげよう」


「うん、お願い」


 これでまた一つ、肩の荷が下りた。お母さんのことも、ずっと気になっていたことだったから。私一人ではどうしていいか分からなかったようなことも、お父さんに頼めば大丈夫だろう。


 それにしても――人を許すと、こんなにも楽になれるものなんだな。本当のことを知らなかったからとはいえ、今までの自分がホントに馬鹿みたいだ。


「ところで咲希……あともう一つ、私の望みを聞いてもらえないだろうか」


「えっ?」


 この期に及んで改まって、一体何だろう?


 私が怪訝けげんな顔をしていると、お父さんはどうにも気恥ずかしそうに笑った。


「これはその、私のずっと昔からの夢だったんだが……お前のことを、抱きしめてもいいか」


 ――えええええええええっ!


 いやまあ、その、一応は私達、血の繋がった親子なんだから、人によってはそれぐらいのことは普通なのかも知れないけれどもさ。


 でも、小さな子供の頃だったらともかく、今のこの歳でそんなことを言われても、なぁ――。


 私がためらっていると、お父さんはどうにも気まずそうに頭を掻いた。


「いや、そうだな……すまん、やっぱりこの話は忘れてくれ」


 ――ったく。ああもう、しょうがないなぁ。


「人目があるから、少しだけだよ」


 自分でも顔が真っ赤になっているだろうことは分かる。でもさ、お父さん――たぶんおじさんだったらこんな時「男が軽々しく前言をひるがえすな」って言うと思うよ。


 軽く両手を差し出した私を、お父さんは何かとんでもないものを目の前にしているかのような顔で見つめていたが、やがて周囲の視線を気にしつつ――


「……ありがとう、咲希」


 お父さんの両手が、私の背中に回された。歳の割にはがっしりとした太い腕で、力強く抱きしめられた私の目からも、つい涙がこぼれてくる。


 ――ああ。


 私はまだ、一人じゃなかったんだなぁ。今まで生きていて、本当に良かった。

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