第33話 許し

 結局、おじさんが家に帰ってきたのはそれから三日後のことだった。


 亜矢あやさんという名前の女の人のところに入り浸っていたらしい。現在独り身の亜矢さんもこの家の妻の出身で、今は隣町である千葉市内でスナックを営んでいるという。おじさんからしてみれば、比較的家から近い場所でタダ酒が飲めるとでも思っていたのだろうか。


 三日ぶりに帰ってきたおじさんは、玄関をくぐっても「おう」と言ったきりだったし、美琴みことさんや莉奈りなさんは格別それを気にしていた様子でもなかった。イェンさんは相変わらずニコニコと笑っていただけだったし、唯一帆夏ほのかさんだけが少し困ったような顔で「お帰りなさい」と言っていた。


 私は、といえば、正直おじさんにどう声をかけてよいのか分からなかった。おじさんが私の知らないところで色々と動いてくれて、私が自分の両親について知ることが出来るようにしてくれたことは理解している。そのことについて、大いに驚き、多少の怒りは感じつつも、きっとお礼を言わなければいけないことも。


 ただ、真実を知って数日がたち、ある程度は気持ちの落ち着きを取り戻したとはいえ、これまで自分が信じてきたものと真実との落差をどうすれば良いのかまでは、全く分からなかった。


 そして、そのことはおじさんにもバレバレだったようで――


「知らん方が良かったか」


 その日の晩、私が「妻」の当番だった。いつものように別々の布団に潜り込み、眠りにつく前のことだった。


 おじさんが何を言っているのかは、だいたい分かっている。


「どう、かな……凄く戸惑ったことは、間違いないと思う」


 暗闇の中で私が答えると、私に背中を向けたままおじさんが言う。


「親父さんのこと、もうそろそろ許してやれ」


「……」


「親父さん、お前さんのことを話すとき、凄く嬉しそうだったぞ。おふくろさんにも、凄く感謝しとった。よくぞお前さんを立派に育ててくれた、ってな」


「……そう、なんだ」


 この話しぶりからするとおじさん、私の父親とは何度か会っていたんだろうな。どんな話をしていたのかまでは分からないが。


 おじさんがごろりと寝返りをうち、シミだらけの天井を見上げて言った。


「憎しみや怒りを感じることは、人間だったら誰にだってあるもんさ……じゃが、その感情にとらわれ続ければ、その炎はどんどん己の身を焼くことになる」


「……だから?」


「お前さん自身のためにも、親父さんを許してやれ。真実を知った今のお前さんなら、それが出来るはずだ」


 今度は私が、おじさんに背を向けた。素直に「はいそうですね」と、返事を出来る気がしない。


 そんな私に、おじさんが言葉を続ける。


「ワシにも似たような覚えがあるよ……会社の部下達に裏切られたと知ったときだ。信じていた奴らが陰で粉飾決算をしていて、そのせいで会社は潰れ、懲役三年の実刑判決を受けた。刑期を終えて刑務所から出所した時には、由紀ゆきは……妻は心労が重なって、自ら命を絶っていた」


 それを聞いて、思わずおじさんの方を振り返ってしまった。インターネットで検索して知っていたこととは言え、本人の口から聞くとやはりインパクトが違う。


 おじさんはこちらをちらりと見て、気まずそうな微苦笑を浮かべて頭をボリボリと掻いた。


「会社を潰されたことも許せなんだが、そのせいで由紀を死なせてしまったことが何よりも許せなかった……由紀とは、施設にいた頃からずっと一緒だった。ワシが幸せにすると誓った。じゃが、それを果たせなかったどころか、不幸のどん底に突き落としてしまった」


「……それで?」


「元部下達のことを、殺してやりたいと思うぐらいに憎んだ……じゃが、ある時にふと気がついた。過去にとらわれ続けても、過去は変えられない。だったら、過去のことは全て水に流して、今のワシに出来ることを始めてみよう、と」


「それで、この家でのことを始めたの?」


 私の問いに対する答えはなく、返ってきたのはおじさんが小さく鼻で笑う音だった。


「この家は大きさだけが取り柄の、古くてほとんど価値のないものだった。だから、借金取りの手からも奇跡的に免れて、ワシの手元に残った。由紀はこの家で、最後までワシのことを待ってくれていたらしい」


「だったら……正直、その、辛いことを思い出したりしない?」


 きっとこの家のあちこちから、由紀さんのことを思い出してしまうのではないだろうか。私があのアパートから、お母さんとの思い出を色々と思い出していたように。


「同じ場所に長く住んでいると、その場所が自分自身になる。この家も、この家の在り方も、もはやワシ自身なのさ」


 そしておじさんは、再びごろりと私に背を向けて言った。


「だからな……咲希、お前は今までのことなんかにとらわれず、お前の居るべき場所へ行け。自分を変えて、幸せになれ。そして……ワシより先に死ぬなよ」


 その言葉を聞いた私は、頭から布団を被っておじさんに背を向けた。他の台詞もそうだったが、何よりも最後の一言がひどく気恥ずかしかった。


 それにしても、我ながら「妻」の役割にもすっかり慣れてしまったと思う。最初は抵抗感しかなかったが、いつの間にかこうやっておじさんと布団を並べて眠るのが当たり前のようになっている。


 そして、大事な話をする時っていうのは、だいたいこうして一緒に眠る直前だったりするのだが……世の中の夫婦っていうものは、そういうものなのだろうか。

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