第32話 知らなかった真実

 ところが、その日は結局、おじさんは出かけたまま家に帰ってこなかった。


 夕食を終えて居間でテレビを見ていた頃、隣にいた帆夏ほのかさん宛てに電話があって「外で泊まってくる」ということだったらしい。こんなことは初めてだ。


「外で泊まってくる、って?」


 私が尋ねると、帆夏さんが微苦笑する。


「昔この家にいた人のところに、ね」


 ってことは、この家で言うところの「昔の妻」のところ?


「この家にいた人達の大半は、それぞれ色々な理由でこの家を去って行ったの。創太そうたさんとは違う他の男の人と結婚したり、何かの道を見つけて一人で生きていけるようになったり……去年の年末にみんなで食べていたみかん、あれもそんな人達の一人が毎年送ってくれるものだったのよ」


 へえ、そうなんだ。ある日突然、玄関のすみっこにみかんの箱があって「ご自由に」と書かれていたから、小腹が空いたときにちょくちょく食べていたんだけれども。


「おじさんには色々と、聞かなきゃいけないことがあったんだけれどもな」


 ぼんやりそう呟いた私に、お茶を淹れた湯飲みを差し出しながら帆夏さんが言う。


「それってやっぱり、あなたのお父さんのこと?」


 湯飲みを受け取った私が無言のままでいると、帆夏さんは小さくため息をついた。


「こういうことを話すのは、あんまり得意じゃないんだけれども……咲希さきさん。お父さんがこの家に来たこと、怒ってる?」


 いつになく真剣な眼差しの帆夏さんに、少したじろぐ。


「そう、ですね……気分の良いものではなかったことは確かです」


「そう……創太さんね、あなたのことを凄く心配していたのよ」


 そんなことを言われると、こちらも次の言葉を選ばざるを得ない。


「それってどういう意味ですか?」


「あなたがお父さんと会って帰ってきた日の次の日、創太さん、鳴沢なるさわさんに電話したのよ。門坂かどさかさんと、一度会って話がしたいって」


「どうやっておじさんが、鳴沢さんと?」


「それはほら、私が初めてお会いした時に名刺をいただいていたから」


 あ――そう言えばそうだった、すっかり忘れていた。


 でも、そうなると今回の件、帆夏さんも一枚噛んでいたってこと?


「それで、鳴沢さんを通じて門坂さんと連絡を取り合って、外で何度か会っていたそうよ……あなたのお父さんとも、ね」


「はあっ?」


「待ち合わせの場所は、だいたいが海だったみたいよ」


 その言葉を聞いて、思わず小さなうめき声を出してしまった――おじさん、だからちょくちょく釣りに行っていたのか。おじさんが突然釣りに行き始めたのには、少し驚いたぐらいの感覚だったんだけれども。


「どうして帆夏さんが、そんなことを知っているんですか?」


 私の問いに、一転して気まずそうな笑みを浮かべる帆夏さん。


「それは……創太さんだって、一人では背負いきれないものがあるから。ああ見えてあの人、結構繊細なところがあるのよ。だから、自分のしていることがあなたにとって本当に良いことなのか、随分と悩んでいたみたい」


 帆夏さんのその言葉に、私はかすかな苛立ちを感じた。


「あの、こんな言い方をするのも何ですが……今回の件、私は放っておいて欲しかったです。私個人の問題に、どうしておじさんがそこまで首を突っ込んでくるんですか」


 すると帆夏さんは、珍しく少し険しい目をして私を見た。


「あのね、咲希さん……創太さんがあなたのことを心配するのは、創太さんがあなたを愛しているからよ」


 えっ――ええっ?


 いや、ちょっと待って。いきなりそんなことを言われても、こっちも反応に困るんだけれども。


「私が創太さんを凄い人だって思うのは、あの人なりに自分の『妻』を真剣に愛するところ……だから私は、安心してあの人の側にいられるの。たぶん他の人達だって同じだと思うわ」


「えっと、その」


「自分が愛する人には幸せになって欲しい。そう思うことって、そんなに悪いことなのかしら」


 そう言うと帆夏さんは一度席を立ち、居間から姿を消した。そして、程なくして何かが入った紙製の手提げ袋を持って戻ってきた。


「本当は創太さんの手からあなたに渡してもらうはずだったんだけれども……中を見てごらんなさい」


 手渡された手提げ袋の中身は、三冊のアルバムだった。それぞれが結構上等そうなものだったが、そこそこに古びた感じだ。


「……ええっ?」


 アルバムの中身を見て驚いた。すぐには分からなかったが、パラパラとページをめくっていくうちに、その中身が全て私の写真だったことに気付く。


 でも、こんなアルバム、私は今まで一度も見たことがない。


「あの……何なんですか、これ?」


「そのアルバムは、創太さんがあなたのお父さんから借りてきたものよ」


 帆夏さんの言葉に絶句し、再びページをめくる。アルバムの中身は、私が赤ちゃんだった頃の写真から始まっていて、保育園の頃、小学生の頃、中学生の頃と続き、高校生だった頃の写真になると、時々お母さんから小さなデジタルカメラを向けられていた時のことを思い出す。


「その写真はみんな、あなたのお母さんがあなたのお父さんに渡していたものだったそうよ」


「えっ……ってことは」


「そう。あなたのお父さんは、あなたやあなたのお母さんと、ずっと繋がっていたってこと」


 そんな――そんなこと、お母さんは一言も教えてくれなかった。一体どうして?


 私の表情から何かを察したのか、帆夏さんは少し寂しそうな笑みを浮かべて言った。


「あなたのお母さんも、きっと本当はあなたをお父さんと会わせてあげたかったんでしょうね……でも、それをしてしまうとあなたのお父さんにとって、色々と不都合なことが生じてしまう。だからあなたのお母さんは、ずっと色々と我慢していたんじゃないかしら」


「……」


「そして、我慢していたのはきっと、あなたのお父さんも同じ。ほら」


 そう言って帆夏さんがアルバムの一冊をめくり、とあるページを指した。そこには、何だかいびつな形の、花を折った折り紙が丁寧に糊付のりづけされていた。


「これも私の想像の域を出ないことだけれども……あなたのお母さん、きっとあなたのお父さんに、あなたからのプレゼントを渡してあげたかったんじゃないかしら。そしてあなたのお父さんは、それをずっと大切にしてきたんだと思う」


 言われてみればその折り紙は、お母さんから理由を告げられずに「折り紙を折って」と頼まれて折ったものだったように思う。まだ私が小学生ぐらいの頃の話だから、うろ覚えでしかないが。


「だから、ね……あなたのお父さんは、直接あなたと会うことが出来ずにいたけれども、ずっとあなたのことを愛していたんだと思うわ。そして、あなたのお母さんも」


「ちょ、ちょっと待って下さい!」


 思わず帆夏さんの言葉を遮ってしまった。視界がどんどんにじんでくる。


 ひどいよ、お母さん……もっと、いや少しぐらい、お父さんのことを教えてくれたって良かったじゃない。帆夏さんの話が全部本当のことだとしたら、今までの私って一体何だったの?


 何も言えなくなった私の背中を、側に来てくれた帆夏さんが優しく笑いながらさすってくれる。


「大丈夫よ、咲希さん……今日はいろいろなことがあったから、今は少し驚いているだけ。何かをやり直すための時間は、まだまだ十分にあるわ。だから、今までに分かったことをじっくりと考えてから結論を出せばいいの」


 私は人目をはばからず、帆夏さんの胸にしがみついて泣いた。帆夏さんが私に回してくれた両腕は、とても温かかった。

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