第31話 武士の情け
そして、ゴールデンウィークが始まってすぐぐらいの頃のこと。
イェンさんは無事に私と同じ職場へ就職し、ぼちぼちと仕事を覚え始めていた。元々少し引っ込み思案なところがあったけれども、美人で明るい性格のイェンさんは、特に食堂へやってくる工場の社員さん達に人気があった――とは言っても、露骨なセクハラなどがある訳でもなく、本人は気分良く仕事をしている様子だ。
ただ、同じ仕事場のおば――もとい、お姉様方が「この子とペアを組むと配膳が忙しくてかなわない」とこぼしていたのには笑ってしまった。そのあまりの人気ぶりに、イェンさんがその日ごとに受け持つメニューの配膳には長蛇の列が並ぶのだ。
そんな私を見て浜中さんが「
いや、この話は一旦置いといて。
長期の連休とはいっても、特にこれといって予定もなかったおじさんの家。
そして、いつもだったら部屋着のジャージでごろごろしているか、春先頃から始めた釣りに出かけているはずのおじさんが、今日は珍しくそれなりの格好をして私の部屋へとやってきた。
「咲希よ。今日は昼から客が来る予定だ。お前も一緒に応対をしてくれ」
突然の話に、まずもって思考が追いつかない。頭の中にクエスチョンマークがいっぱい浮かんだまま、読みかけていた公務員試験の参考書を脇へ置く。
「いや、ちょっと待って。急に一体何なの?」
「別にかしこまった格好をしてくれなんていう訳じゃ無い。普段通りにしてくれていれば、それでいい」
「訳が分からないよ、それだけじゃ。それに、一体誰が来るっていうの?」
こんなことを言うのも何だが、私がこの家に来てから今まで、お客さんが来たなんてことは一度もなかった――いや、これはひょっとして、新しい
だが、おじさんはそれ以上何も言わず、そのまま居間へと戻っていった。いやホント、訳が分からない。
そして午後二時頃、家の前に銀色の大きなセダンが停まった。
「いや、いやいやいや、ちょっと待ってよ」
インターホンを押す喪服姿の人物を見て、驚愕せずにはいられなかった。父親と、
すぐに帆夏さんが応対に出て、二人は家の中に入ってきた。思わず玄関まで駆けていくと、そこではおじさんが帆夏さんと一緒に二人を出迎えていた。
「狭くて汚い家ですが、どうぞ上がって下され」
神妙な面持ちでそう言うおじさんに大声を出しかけたが、その前に背後から誰かに口を塞がれた。
「静かにしていなさい」
そっと耳元でささやく、美琴さんの声。混乱する私の両脇を、いつやってきたのか分からなかった莉奈さんとイェンさんが抱え込む。これでは身動きもままならない。
父親と門坂さんは、おじさんや私達にこれまた神妙な面持ちで一礼した後、おじさんの案内で私の部屋へと向かっていった――いや、その格好でその場所へ行くのって、まさか。
頭に血が上る。今更何を、どの面を下げて。ふざけるんじゃない。
思考と感情がぐちゃぐちゃになった私だったが、声を出そうにも暴れようにも、三人がかりで羽交い締めにされていては何も出来ない。
私の部屋の方から、りんを鳴らす音が聞こえた。それと一緒に漂ってくる、線香の匂い。
私とお母さんに対する
だが、程なくして戻ってきたおじさんが、手も足も声も出せない私に向かって静かに言った。
「今日のこのこと、全てワシの独断でやった。お前に黙っていたことは謝る。だが、事前に教えていたらお前さん、この場におらんかっただろう?」
当たり前だ。あの男をお母さんに会わせるつもりはなかった。先に知っていれば、きっと二人で家を飛び出している。
「でもな、咲希よ……男ってのはな、心底愛した女に先立たれるほど辛くて悲しいことはないのだよ」
そう言って、私から視線を逸らすおじさん。そして、私の部屋の方から聞こえてくる、かすかな
「武士の情けってやつだ、今しばらくはそっとしておいてやれ……帆夏、すまんが後のことを頼む」
それだけ言い残して、おじさんは靴を履いてどこかへ出かけていってしまった。ちょっと、どこへ行くのさ!
それから五分後ぐらいに、父親と門坂さんが玄関先へ戻ってきた。その頃には、私は三人から解放され自由の身になっていた。
「咲希」
両目と鼻を真っ赤にした父親が、なんとも言えない表情で口を開いた。
「この間は本当に済まなかった、謝る」
この間とは、先の料亭での話のことだろうか。
無言のままの私に対して、父親は何度も
「その上で私は……いや、違うな。そうじゃない。私は、その……お前と一緒に暮らしたい。今までのことや会社のこととは関係なく、だ」
「……」
「私はお前を……その、何だ。いや、その……愛して、いるから」
――は? 今、何て?
呆然と立ち尽くす私を尻目に、父親はそそくさと逃げるように玄関先から出て行ってしまった。
「いやはや、本日はご多忙な中、色々と誠に申し訳ございませんでした。それでは、我々はこれにて失礼いたします」
門坂さんが苦笑しながら私達に一礼して、父親の後を追う。
いやちょっと、本当に待って――おじさん、帰ってきたら全部きっちりと話を聞かせてもらうから。
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