第30話 究極の選択

 それからしばらくの間、父親のことは忘れていた。忘れるようにしていた。


 幸いなことに、他の誰かから父親のことについて、それ以上何かを聞かれるというようなことはなかった。最初の頃こそ気を遣われているのかと思ったりしたが、数日もすれば私もすぐに気にならなくなった。


 気になる、というか、今までと少しずつ変わってきていることと言えば、おじさんが休日ちょくちょく釣りに行くようになったことと、イェンさんの日本語が随分と上達してきたことだった。


 それまでのおじさんだったら、休日は基本的に家でゴロゴロしているだけだったのだが、何を思ったのか物置の奥から古い釣り道具を引っ張り出してきて、少し離れたあららぎ港の波止場まで自転車で通うようになっていた。本人曰く「海でぼーっとしているとリラックス出来るから」とのことだったが、魚を釣って帰ってくることはほとんどなかった。


 一方、イェンさんはと言えば――


「サキ、チョットオシエテ」


 ある休日の昼間、自分が寝起きしている部屋で公務員試験対策の本を読んでいたところ、イェンさんから声をかけられた。


「何ですか」


「サキガハタライテイルトコロ、イイトコロ?」


 ニコニコ笑いながら尋ねてくるイェンさん。まだまだぎこちないながらも、自動翻訳機無しでも随分と会話が出来るようになっていた。


 とは言え、難しい言い回しや微妙なニュアンスなどは理解できないため、こちらも出来るだけ簡潔な話し方をする必要がある。


「どうしてそれを知りたいのですか」


「ワタシ、サキトイッショニハタラキタイデス。ハヤクオカネガホシイ」


 なるほど、とても分かりやすい理由だ。


 今のイェンさんが働くとなると、仕事探しは結構難しいのかも知れない。以前の仕事では外国人技能実習生の受け入れ先を紹介されて、ベトナムから一緒に来た仲間の人達と働いていたとのことだったが、いくら日本語が上達してきたとはいえ、誰も知り合いがいない場所で一から働くとなると、ハードルが高いと思う。それに、随分と改善されてきたとはいえ、イェンさんはまだ少し引っ込み思案なところが抜けきれていない。


 その点、イェンさんのことを知っている私が一緒だったら、確かにイェンさんとしても働きやすいだろうし、勤め先の人達もイェンさんのことを理解しやすいだろう。


「そうですね」


 読みかけの本を脇に置いて、少し考えてみる。確かに現状、職場のリーダーである浜中はまなかさんは「新しい人手が欲しい」と言っていた。というのも、一緒に働いていたおば――お姉様のうちの一人が先日仕事を辞めてしまい、その穴埋めが必要だったからだ。


 ちなみに、私の目から見て浜中さんの仕事は、結構大変なんじゃないかと思っている。もちろん調理の仕事も大変だろうが、それ以上に職場の人間関係のバランス取りが難しい。何せ女ばかりの職場だ、目に見えない部分でのちょっとしたいざこざは絶えない。


 初めて私が仕事場に立たせてもらった時にも、最初の頃は周囲のお姉様方からの視線が気になった。今でこそそんなことはないが、当初はあまり自分を表に出さず、出来るだけ率先して仕事をすることで、みんなからある程度は認めて貰えるようになったと思っている。


 で、イェンさんが私の職場に来た場合のことを想像する。職場で男性は浜中さん一人だし、浜中さんの性格を考えても、以前の仕事のようにセクハラに遭うことはないだろう。


 そして、基本的に明るくて人に優しいイェンさんであれば、意思疎通の面で私がうまくフォローすれば、おそらくはお姉様方ともそれなりにやっていけるはずだ。仕事の内容については、物覚えが早いイェンさんのことだから、すぐに理解してくれると思う。


「いいところ、だと思いますよ。たぶん」


「ジャアワタシ、サキトイッショニハタラケル?」


「そうですね、リーダーに聞いてみます」


「ヨロシクオネガイシマス」


 ニコニコ笑いつつ、律儀に頭を下げるイェンさん。こういうところも、職場での人間関係の構築においてはプラスに働くと思う。礼儀は大切だ。


「ところでイェンさん」


「ナンデスカ」


「イェンさんが欲しいお金、どれぐらい?」


 その目的は何となく想像出来るのだが、私と一緒に働いた場合、どれぐらいでその目標額を達成出来るのだろうかと思った。


 イェンさんは少しの間考え込んでから、答えてくれた。


「ハチジューマンエン、デス」


 その言葉から、頭の中でざっと計算してみる。


「それだったら、たぶん一年頑張って働けば大丈夫ですよ」


「ホントウ? ダッタラウレシイデス」


「早くたくさんお金を貰って、ベトナムに帰れるといいですね」


 何気なく口にした私の言葉に、イェンさんの表情がやや複雑な笑みに変わる。


「ハイ。デモワタシ、ココノセイカツモスキデス」


 そう言って、イェンさんはやや伏し目がちに続けた。


「オトウサン、オカアサン、オトウト、トテモダイジ。カワリイナイ」


「……」


「デモ、ソータ、ホノカ、ミコト、リナ、サキ、トテモダイジオナジ。ニホンノカゾク、ハナレルツライ」


 その言葉を聞いて、少し胸が詰まった。私とは置かれた立場や環境が違うけれども、イェンさんはきっと、私と同じような悩みを抱えているんだと思う。


「本当の家族とこの家の家族、どうしても選ばなければならないなら、どっち?」


 我ながら意地悪な質問だとは思ったが、聞かずにはいられなかった。それは私自身が求めていた答えでもあったから。


 だが、返事もなかなかに意地が悪かった。


「ゴメンサキ、イッテルコトワカラナイ。モウイチド」


 そう言って自動翻訳機を差し出したイェンさんに、同じ質問を繰り返す勇気はなかった。

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