第22話 母の想い

 封筒はどこにでもあるような無地のものだったが、しっかりと糊付けがされていた。ハサミを借りて封を切り、中身を取り出す。


咲希さきへ。


 元気にしていますか? 貴方は小さな頃からしっかりした子だったから、たぶん大丈夫だろうとは思いますが、それでもやはり親としては気がかりなところです。


 貴方がこの手紙を読んでいるということは、既にお母さんはこの世にいないことでしょう。だから、この手紙を門坂かどさかさんに預かってもらうことにしました。


 まずはお詫びから。貴方には小さな頃から色々と苦労をかけてしまい、本当にごめんなさい。特にお父さんのことでは、大変つらい思いをさせてしまいました。


 ただ、貴方がこの世に生まれてきてくれたことを、お母さんは心の底から嬉しく思っていたし、この手紙を書いている今もそう思っています。


 そして、お母さんはお父さんのことを嫌ったり、恨んだりしたことは、今までに一度もありません。お父さんには色々と大変な事情がありました。そんなお父さんを苦しめたくない。でも、貴方にはこの世に生まれてきて欲しい。だからお母さんは、貴方との二人暮らしを選んだのです。


 今のお母さんが心から願うのは、貴方の幸せです。その上で、もしも何か困ったことがあったら、門坂さんに相談して下さい。門坂さんは貴方が生まれた時から、ずっとお母さんと貴方のことを見守ってきてくれました。きっと力になってくれるはずです。


 貴方にはもっと色々なことを伝えたかったのですが、この辺りで筆を置きます。ごめんなさい。


 最後にもう一度。咲希、生まれてきてくれてありがとう。お母さんは貴方と一緒に過ごせて、本当に幸せでした。貴方を心から愛し、貴方の幸せを願っています。


○○○○年○○月○○日

母より“


 絶対に見間違えようのない、お母さんの字だった。手紙が書かれた日付は、お母さんが亡くなる二ヶ月ほど前。ところどころ字が震えているのは、きっと手紙を書く気力と体力がほとんど残っていなかったからだろう。


 涙が止まらなかった。まるで今、目の前にお母さんがいるようだった。さっき借りたハンカチを、思わず目に当てる。


「その手紙の内容は、私も存じ上げませんでしたし、お聞きするつもりもございません。ただ、貴方のお母様からは、くれぐれも貴方のことをよろしくとうかがっていました」


 門坂さんの微笑に、何も返事が出来なかった。


 かなりの時間がたったと思う。何とか涙を止め、門坂さんに尋ねた。


「この預金通帳と印鑑は?」


「貴方のものです、どうぞお受け取り下さい」


 ビニールケースの中に収められた預金通帳の表には、確かに私の名前が書かれている。最後に記帳がなされたページには銀行のキャッシュカードと、四桁の数字が書かれた小さなメモ――おそらくはこの預金通帳の暗証番号なのだろう――が挟まれていた。


 そのページの記載内容を見て、心底驚いた。


「なっ……何ですか、これ?」


 預金通帳の残高は、おおよそ四千万円ほどの金額になっていた。今までに見たこともない金額だ。


 門坂さんが両手の指を組み、静かな声で言った。


「貴方のお父様が、貴方のお母様にお渡しするはずだった養育費その他のお金です」


「はず、だった?」


「はい。貴方のお母様は、あくまでも自分の力で貴方を育てるとおっしゃっていました。ですので、貴方のお父様からのお金は一切、貴方の将来のために預かっておいて欲しいと、貴方のお母様から頼まれていたのです」


 いかにも責任感の強い、お母さんらしい行動だったと思う。逆に言えば私のことについて、全部一人で抱え込んでしまっていたとも言えるのだろうが。


 そして、そのお母さんからの頼みを今日まで聞き続けてきた門坂さんも、随分と律儀りちぎな人だと思った。この人自身は見た目通り、決して悪い人ではないのだろう。


 ただ、


「……父は、そのことを?」


 これだけのお金があったのなら、お母さんはあんなにも色々と無理をしなくても済んだのではないか。これまでの日々を思い返すと、そう考えずにはいられない。


 私の表情から悟ったのか、門坂さんが何とも言えない沈痛な面持ちで頷く。


「貴方のお父様は、最終的には私に一任して下さいました。きっと貴方のお母様の意志を尊重なされたのでしょう……ただ、私には貴方達のことを、それとなく見守って支えて欲しいとも頼まれました」


 門坂さんの言葉で、これまでに何度も彼が私達のところへやってきていた理由は分かった。だが、いきなりこんな話をされても、こちらの感情の整理が追いつかない。


「あなたやお母さんが言う、父の立場とか事情とかって何ですか? なんでお母さんは、私を一人で育てなければならなかったんですか?」


 私がそう尋ねると、門坂さんの表情が一転してばつの悪いものになった。


「そうですね、その話に触れない訳にはいきませんが……当時の詳しい事情までは存じ上げておりませんが、貴方のお父様は貴方のお母様と関係を持たれたとき、既に既婚者だったのです」


 要はお母さんとの不倫の末に、私が生まれたという訳か。我が父のしでかしたことながら、一体何と言ったものやら。


「奥様はさる政治家の家系の娘さんで、いわゆる政略結婚と言われる間柄でした。と言っても、私から見た限りにおいて、お父様は決して奥様を愛しておられなかった訳ではなかったし、相応に仲もむつまじかったのですが……ただ、奥様は非常に気位きぐらいが高く、一面において気難しいお方でした」


 そんな奥さん相手に不倫がバレたら、それは大変なことになるだろう。しかも、隠し子までついてくるとなると――まあ、文字通り「自分のいた種」ではあるけれども。


「でした、っていうのは?」


「はい。奥様は三年前に、病で亡くなられております。それからは俊孝としたかさま……貴方の異母兄いぼけいに当たるお方ですが、俊孝さまとそのご家族が、貴方のお父様にとっての公的な肉親だったのですが」


「その人達も全員事故で亡くなってしまったから、私と一緒になりたいっていう訳ですか……父に伝えておいて下さい。人を馬鹿にするのも大概たいがいにして欲しい、と」


 自分でも少し驚くぐらいに冷たい声が出た。だが、ここまでの話を聞く限り、登場人物の全員が父の身勝手に振り回されたということではないか。これで腹を立てずにいられようか。


 そんな私を前に、門坂さんが姿勢を正し、深々と私に頭を下げる――ああもう、そういうのはホント、やめて欲しい。


「咲希さんのお怒りはごもっともです……ですが、私も長らくの間、古橋ふるはし家の執事を務めてまいりました身でして。私の口から申し上げるのもおこがましいことですが、公私における貴方のお父様のご苦労を、一番身近に見てきた自負もございます」


「そんなことを言われても」


「そのうえで、咲希さん、貴方は貴方のお父様にとって、唯一残された血の繋がる肉親なのです……せめて一度お会いになっていただくだけでも、なにとぞ」


 ただひたすらに頭を下げる門坂さんを前に、私は途方に暮れた。昔のお母さんのことを知らることができたのは良かったと思う反面、その他に色々と突きつけられた話があまりにも面倒くさすぎる。


 ちらりと視線をよぎらせると、マーシャさんが何やら心配そうにこちらを見ているのが分かったが、その相方は我関せずとばかりに涼しい顔で、スマートフォンなどをいじっていた――やっぱりあの人、好きにはなれそうにないな。

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