第21話 父の名は

「お久しぶりですね。お元気そうで、正直ほっとしました」


 数年ぶりに会ったその男性は、以前に比べて随分と老け込んだように見えた。最後に会った時の、背が高くて品の良い老紳士というイメージは変わっていなかったが。


 東京都内にある高級ホテルのラウンジが、この男性――門坂かどさかさんとの待ち合わせの場所だった。散々悩んだ末、私は門坂さんとの面会に応じることにしたのだ。


 いかにも上等そうな仕立てのスーツに身を包んだ門坂さんに比べて、服の持ち合わせが少なくてほぼ普段着のままの私からしてみれば、場違いもはなはだしい場所だったのだが、ここまで車で私を送ってくれた鳴沢なるさわさんは待ち合わせの時間を教えてくれただけで、場所のことは一切教えてくれなかった。全く、気が利かない人だ。


 その鳴沢さんはマーシャさんと一緒に、別の離れた席でコーヒーだか紅茶だかを飲んでいる。文句の一つも言いたくて、そちらの方向を睨むように見たのだが、返ってきたのはオレンジジュースのグラスを前に小さく手を振るマーシャさんの明るい笑顔だけだった。


 ラウンジには他にもぼちぼちと客が入っていたのだが、席の間隔が広いせいか、お互いの席の会話はほとんど何も聞こえない。


「今更私に、一体何の用ですか」


 極力感情を抑えてそう言うと、門坂さんは少しの間微苦笑を浮かべて困惑し、ややあってからようやく口を開いた。


「そうですね……一体何から話をして良いのやら」


「出来るだけ手短にお願いします」


「まあ、そうおっしゃらずに。まずは何かお飲みになって下さい」


 そう言った門坂さんは、少し離れた場所で控えていた男性スタッフへ視線を向けた。すぐにそのスタッフが、私達の席へとやってくる。


「お呼びでございますか」


「彼女の分の注文をお願いします。咲希さん、何でもお好きなものを頼んで下さい」


 門坂さんから手渡されたメニューを見て驚いた。コーヒー一杯が二千円もする。ちょっと贅沢な食事が出来る価格だ。


 他のメニューも似たり寄ったりの値段設定で、とてもじゃないが選べない。


「あの、お水だけで」


「お客様。大変申し訳ございませんが、当店はワンドリンク制となっておりまして」


「じゃ……じゃあ、ブレンドコーヒーで」


「かしこまりました」


 一礼してその場を去ったスタッフの背中を呆然と見送る私に、門坂さんが声をかけてくる。


「咲希さん。さっき貴方は話を手短にとおっしゃられましたが、おそらくそれは難しいことです。それに、これから私がお話しすることは、少なからず貴方を驚かせたり、あるいは怒らせたりしてしまうことでしょう。ですが、どうか出来るだけ落ち着いて話を聞いていただきたい」


 そんなことを言われても、この人が父親の関係者というだけで虫唾むしずが走るような状態なのに、無茶は言わないで欲しい。


「……話を先に進めて下さい」


「分かりました。では、まず結論から……貴方のお父様は、貴方を家族として迎え、一緒に暮らすことを望まれております」


「はあっ!?」


 思わず席から立ち上がり、大声を出してしまった。他の席の客達の視線が一斉にこちらへと向き、気まずくなった私は何とか感情を殺して、再び席につく。


「おっしゃられたことの意味を理解しかねます」


 押し殺した怒気をはらんだ私の言葉に、門坂さんが苦笑を浮かべる。


「咲希さんのお気持ちは至極ごもっともですが……ところで、咲希さんは昨年の末に起こった、高速道路での多重衝突事故のことをご存じですか」


 門坂さんの問いに、私は無言で頷いた。門坂さんが続けた。


「あの事故では、古橋重工業の社長一家が犠牲になり、会社は大混乱に陥りまして……現在は現役を退かれていた会長が、社長職を兼務なされている状況なのですが」


「それが一体何だって言うんです?」


 まだ注文したコーヒーが届いていないため、水のグラスに手を伸ばして口をつけた私に、門坂さんが声をひそめて言った。


「その会長……古橋ふるはし孝太郎こうたろうが、貴方のお父様なのですよ」


 思わず口に含んだ水を拭きだした。それはもう、盛大に。


 再び他の席の客からの視線が向けられる。門坂さんに水がかからなかったのが奇跡だった。


 何度も咳き込む私に、門坂さんがハンカチを差し出してきた。きっちりとアイロンがかけられた、上等で綺麗な白いハンカチだ。


 間の悪いことに、そこへさっきの男性スタッフが注文した品を持ってきた。彼はほんの少しだけ眉をひそめたが、何も言わずにお盆にのせていたダスターでテーブルの上を拭き、コーヒーの入ったカップを置いてその場を立ち去った。


「話を続けても大丈夫ですか?」


 門坂さんの問いかけに何とか頷いて、口元を拭いたハンカチを返そうとした。普通ならせめて「洗ってお返しします」とでも言うところなのだろうが、この人と何度も会うつもりはない。


 だが、門坂さんは小さく笑って被りを振った。まあ、他人が使用済みのハンカチをそのまま渡されても困るだけだろう。仕方なく、テーブルの脇に置く。


「まあ、驚かれるのも無理はないでしょう。ですがこれは、本当のことなのです」


 そこで門坂さんは一旦言葉を句切り、自分の分のコーヒーに口をつけた。そして、おそらくはすっかり冷めてしまっていたのであろうコーヒーの味に、ほんの少しだけ眉をしかめる。


「とても信じられません。事実、お母さんが亡くなった時に見た戸籍では、私の父の欄にはそんな名前は記載されていませんでした」


 そもそも、戸籍上の父の欄は空欄になっていた。だから私は、今まで自分の父親の名前を知らなかった。


「お父様はその立場上、当時貴方を認知することが出来ませんでした。そのことについては、奈央なおさん……貴方のお母様もご納得の上でのことでした」


「突然そんなことを言われても」


「そして今日は、貴方のお母様からお預かりしていたものをお渡ししたいと思います。どうぞお受け取り下さい」


 そう言って門坂さんは脇に置いていたアタッシュケースの中から、一通の封筒とハサミ、そして銀行の預金通帳と印鑑を取りだしてテーブルの上に置いた。

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