第19話 交渉者(ネゴシエーター)

「まずは今回の話について、どうか最後まで落ち着いて聞いて頂きたい」


 目の前のブレンドコーヒーに手を付けるでもなく、鳴沢なるさわさんが言った。鳴沢さんの隣ではマーシャさんが、ニコニコと笑いながらホットココアを飲んでいる。


 帰宅早々、今夜の晩ご飯を帆夏ほのかさんに預けた私は、鳴沢さん達と一緒に近所の喫茶店へと入った。


 鳴沢さんからは「別に話をする場所はどこでも良いが、この件は貴方のプライベートに関わる事なので」と言われ、少し悩んだ後でこの決断を下した。


 本当はおじさんの家で誰かと一緒に話を聞きたいところだったが、相手は探偵。しかも、そもそも話の素性が分からない中でみんなを、特に美琴みことさんを危険な目に遭わせる可能性は避けたかったからだ。


 ただ、帆夏さんだけには玄関先で鳴沢さん達を紹介し、少し話を聞いてくると言い残してきた。帆夏さんは鳴沢さん達を見て少し困ったような顔をしたが、最終的には「あまり遅くならないようにね」と言ってくれた。


「その口ぶりからすると、私にとってあまりいい話ではないのですか?」


 私がそう尋ねると、鳴沢さんは何とも微妙そうな表情を浮かべる。


「決して悪い話ではない。が、おそらく貴方にとって気分が良い話でもない。そんなところでしょうか……ところで」


 まるで間合いを計るかのように、鳴沢さんがコーヒーに口を付けつつ言う。


「先程の女性は、一体どなたですか?」


「と、言いますと?」


「いや、確か貴方はお母様とアパートで暮らされていたが、お母様を亡くされてからは、ずっと一人暮らしをされていたはず……それがあのような一軒家で、一体どのような暮らしをなされておられるので?」


 ふうん――こっちの事情はある程度お見通し、って訳だ。となると、私を捜している人っていうのはおそらく。


「私はあの家で、楠江くすえって人の妻をしています。で、さっきの帆夏さんはその楠江って人の第一夫人で、私は……えっと、第五婦人です」


 次の瞬間、鳴沢さんは飲みかけのコーヒーを軽く吹き出した。


「ちょ、コースケ、汚いですよ」


「ぐはっ、げほっ……いやいやいや、藪から棒にも程があるぞ。一体何なんだその話は」


 露骨に眉をひそめるマーシャさんを横目に、テーブル据え置きの紙ナプキンへ手を伸ばし、口元とテーブルの上を拭きながらむせる鳴沢さん。一見ハードボイルドっぽいのに、一気にコミカルになったなぁ。


「一応、嘘は言っていませんよ。あと、別に敬語とかはいいですから」


 私がそう言うと、襟元に少しこぼれたコーヒーを拭きながら鳴沢さんが何度か頷く。黒づくめの服装っていうのは、こういう時に便利なのだろうか。


「すまない、そう言ってもらえると助かる……じゃあ早速だが、その第五婦人ってのは一体何なんだ?」


 その疑問は、至極しごくごもっとも。こちらも口にした手前、説明する必要があるだろう。


 そこでここ最近の経緯について、出来るだけ簡潔に分かりやすく説明をしたところ、マーシャさんは軽く感心したような声を出し、鳴沢さんはかぶりを振って深いため息をついた。


「何とも頭の痛い話なんだが……アラブの王族とかじゃあるまいし、その楠江って男、よくそんなにも大勢の女性をはべらせていられるもんだな」


 まあ、そう言いたくなる気持ちはよく分かる。私だって最初は同じ事を思ったし。


「で、君はどうしてその人達と一緒に暮らしているんだ?」


「うーん。生きるため、ですかね。おじさん……あ、楠江って人のことですけど、おじさんと出会っていなかったら私、今こうして話をしていられなかったかもしれません」


 実際、おじさんと出会っていなかったら今の私は、いろんな意味で存在しえなかったと思う。それにおじさんと出会って以降、最近は少しずつ心の余裕が出来てきた気もするし。


 私の言葉に、鳴沢さんは少しの間を置いてから言った。


「生きるため、ね……じゃあ、今までとは全く違う暮らしが出来るとなったら、君はどうする?」


「……えっと、それは一体どういう意味ですか?」


「当初の話に戻そう。俺の今回の依頼人、君を捜していた人についての話だ」


 ――私の予想通りであれば、正直聞きたくもない話だろうし、思い出したくもないことだろう。そう思うと、自然と身が固くなる。


 きっと険しい顔で睨んでしまっているであろう私を前に、鳴沢さんは平然と言葉を続けた。


「どうやらその様子だと、ある程度は察してくれているようだが……君を捜していた人は、門坂かどさか和樹かずきという人物だ」


 次の瞬間、頭にかっと血が上った。


「すみませんが私、ここで失礼させてもらいます」


 素早く席を立ちかけた私を、マーシャさんがすがるような目で見てくる。


「待ってクダさい。お願いだから、最後まで話をきいてクダさい」


 悪意のかけらもなさそうな彼女からそう言われ、つい立ち尽くしてしまった。だんだんと周囲の目が気になってきて、私は大きなため息と共に再び席に着く。


「で、門坂さんが今更私に、一体何の用があるっていうんですか?」


 門坂ってのは、私が小さい頃から時々お母さんのところへ来ていた人だ。私が直接話をしたことはほとんどなくて、この人が来た時には、お母さんは大抵「少し大事な話をするから」と、私に離れた場所で遊んでいるように言っていた。


 この門坂って人が私の父親に関係がある人だって知ったのは、お母さんの葬儀の時だった。それまでは「誰だか知らないけれども、時々お菓子を持ってきてくれる、スーツ姿の優しいおじさん」ぐらいのイメージだったのだが、その時を境に私の中では「お母さんを見捨てた男の手先」となった。


 また少しの間を置いてから、再び鳴沢さんが口を開いた。


「門坂氏は、君との話し合いの場を望んでおられる」


「私には、あの人と話をする理由がありません」


「君は自分の父親について、真相を知りたいとは思わないのか」


 ――真相? 今更になって、一体何を言っているんだか。


 だが、そんな私の様子を平然と見据える鳴沢さん。隣のマーシャさんはそわそわおろおろしているっていうのに、どういう神経をしているのだろう。


「どうしてそう、いちいち話の間を置くんですか」


 何をもったいぶっているのかと思った私の問いに、鳴沢さんが苦笑する。


「なに、アンガーマネジメントってやつだよ。人の怒りの感情ってのは、せいぜい六秒ぐらいしか持続しないものらしいから……君には出来るだけ、落ち着いた状態で話を聞いてもらいたい」


 面と向かってそう言われると、こちらも振り上げた心のこぶしの落としどころがなくなってしまう。いくら格好良くても、こういう人は恋人にも結婚相手にもしたくない。


「君が門坂氏と最後に会ったのは、君のお母さんの葬儀の時。それで間違いないね」


「……はい、そうです」


「門坂氏はそれ以降も君のことを心配して、君の目に映らないようにしながら、ずっと君のことを見守っていたそうだ」


 私を、見守っていた? 一体何様のつもりなのか、反吐へどが出る。


「だが、ある日突然、君はこれまで住んでいたアパートから姿を消し、行方が分からなくなってしまった……そこで門坂氏は、俺に君の捜索を依頼されたってわけだ」


 その話を聞いて、私の背中に冷たい汗が流れた。おじさんの家の住所は、役所と勤め先以外には全く教えていない。この人は一体どうやって私の居場所を突き止めたというのだろう?


「で、その門坂さんが一体どんな話をしたいと」


「それは、俺の口からは言えない。守秘義務があるし、俺が勝手に喋っていい内容だとも思えない」


 この口ぶりからすると、鳴沢さんは既に話の内容を知っているってことか。何か嫌な感じ。


「門坂さんと話をすることについて、私に何かメリットがあるんですか?」


 自分でも嫌味な物言いをしているとは思う。思うけれども、やっぱり気が進まないのは確かだ。


 鳴沢さんはまた少しの間黙っていたが、やがて小さなため息をついた。


「君にとってのメリット、か……さっきも言った通り、俺の口からあれこれと言うことは出来ないんだが」


「だが?」


「第三者として客観的に見れば、今回の話はおそらく君にとって、決して悪い話にはならないだろう。もちろん君の気持ちへの影響は、別に考える必要があるだろうが」


「何とも煮え切らない物言いですね」


「すまない。こちらにも、言いたくても言えないことが多くてね」


「あの、少しいイですか」


 それまでずっと黙っていたマーシャさんが、おずおずと小さく右手を挙げた。


「サキさん、お母さんからお父さんのこと、聞いたことありますか?」


 私にしてみれば、今更そんなことを尋ねられるとは思ってもいなかった。


「……詳しい話は知りません。お母さん、あんまり父親の話をしたがらなかったから」


「お母さん、お父さんのこと悪く言うありましたか?」


 たどたどしいマーシャさんの日本語に、思わず黙り込んでしまう。


「……いいえ」


 確かにお母さんは父親の話をしたがらなかったが、悪くいうようなことは一度もなかった。強いて言えば、口にするのが辛いようにも見えていたような――。


 マーシャさんが、じっと私を見つめてくる。


「サキさんのお母さんがサキさんに言えなかったこと、きっとカドサカさんが教えてくれますよ。私だったら自分のотецアチェーツматьマーチのこと、よく知りたい思います。サキさんは違うですか?」


 ロシア語は全然分からないけれども、何となく言葉の意味は分かる。分かるけれども、父親のせいでこれまでに色々あったことを思い返すと、素直に頷けない。


 何も言い返せなくなった私に、鳴沢さんが落ち着いた声で言った。


「今すぐに返事が出来ないようであれば、別にそれでも構わない。まずは二、三日ほど良く考えて、それから返事を聞かせて欲しい。連絡先は、さっき渡した名刺の通りだ」


「……」


「ただ、門坂氏はその気になれば、直接君の元へ訪れることも出来た……依頼者の代理人としては、それをしなかったことの意味も考慮に入れてもらえると有り難い」


 それだけ言い残すと鳴沢さんはマーシャさんをうながし、会計伝票を持ってその場を立ち去った。一人残された私は、じっと目の前のテーブルを見つめることしか出来なかった。

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