第13話 仮面の下の素顔

「何? 言いたいことがあるのなら、はっきり言いなさい」


 居酒屋前の職場を後にしてから、少し遅めの昼食を摂るために入ったファミレスで、美琴みことさんがじろりとこちらを見てきた。お互いに注文の品を食べ終えた頃のことだった。


「あの、えっと」


 しどろもどろになりながらも、私は美琴さんに頭を下げた。


「今日は色々とありがとうございました。その、役所の手続きとか、前の勤め先でのこととか」


 私から見た美琴さんは、私の知らないことを色々と知っていて、私の出来ないことを平然とやってのける凄い人だった。今日の出来事は、私一人だったらきっとどうして良いか分からなかったと思う。


「別に。そうさんから頼まれたから、ね」


「おじさんに?」


「そ。創さんは仕事。帆夏ほのかさんは身体のこともあるし、あの店長と話をするには根が優しすぎる。莉奈りなはまだ若くて経験不足、イェンにいたっては日本語が上手く喋れない。消去法でいけば、今日の役目は私にしか出来なかったってだけ」


「そうですか」


「私もあまり、外を出歩きたくはないんだけれどもね」


 そう言いながら、食後のコーヒーを口にする美琴さん。私は反射的に尋ねた。


「外を出歩きたくない、って?」


 私の問いに、美琴さんは少し眉根を寄せた。


「別に貴方には関係のないことよ」


「……そうですか」


「ああ、もう」


 何気なく視線を落とした私の方を見て、少ししてから小さく舌打ちする美琴さん。


「どうしても見つかりたくない相手がいる、ただそれだけの事よ」


「見つかりたくない、相手?」


「別れた元ダンナ。とんだろくでなしで、ストーカー気質なのよ」


 そう言いながら、美琴さんはずっと被りっぱなしだったニット帽を少し上げ、前髪の生え際の辺りをちらりと見せた。そこには小さいけれども、はっきりと目立つ傷跡があった。


「独占欲が強くて、嫉妬深くて、DV気質で……結婚するまでは、そんなヤツだったとは思ってなかったんだけれどもね」


「その人は、この街に住んでいるんですか?」


「分からないし、知りたくもない。別れてから結構たつし。でも、探偵を使って何度も私のことを探すぐらいのことは平気でしてくる人」


 うわぁ――いかにも面倒くさそうな相手だな、その人。


 それにしたって、いかにも頭が良さそうな美琴さんがそんな男と一緒になるなんて、ちょっと意外だった。


「あの……ひょっとして、美琴さんがおじさんと一緒にいる理由って」


「まあ、ね。住所を知られているから実家には帰れないし、一人で全国をあちこち逃げ回るのにも疲れちゃったし。そんなとき、創さんに『行く当てがないなら、俺のところへ来い』って言われてね」


 別れた元ダンナから逃げるのに、全国を巡ったって――これはまた、随分とスケールの大きな話だ。それに、一人で元ダンナから逃げ回るのも色々と気苦労があったのだろう。


「あ、ひょっとして……美琴さんの名前って」


「そうよ。作家としてのペンネーム、本名じゃないわ」


 あっけらかんとした口調でそう言って、再びコーヒーに口をつけてから美琴さんがこっちを見た。


「車の運転免許証とか役所の手続きとか、どうしても本名じゃないといけない場合を除いて、日常生活ではだいたいペンネームで通しているわ。それでも案外、不便はないし」


「そんなものですか」


「私の本名を知っているのは、うちじゃ創さんと帆夏さんだけ。莉奈には事情を説明して理解してもらっているし、イェンはそもそも私が偽名を使っているってことを理解していないみたい……まあ正直、この話を貴方にすることになるとは思ってもいなかったけれども」


「ってことは、私も美琴さんの本名は知らない方が良いってことですね」


「そうね。私、理解が早い子は好きよ」


 そう言って、何とも言えない笑みを浮かべる美琴さん。この件は多分、お互いに不干渉の方が良いパターンだと思う。話題を変えよう。


「ペンネームって言えば、美琴さんの本を本屋さんで探してみたんですけれども……その、一番多く出版されているジャンルが」


「そうよ、ポルノ小説。あと、たまにエッセイとかの執筆依頼を受けたりもするかな」


「なんで、その……そういう小説ばかり書いているんですか?」


 私の問いに、これまたあっけらかんと美琴さんが答える。


「簡単な話よ。手っ取り早くお金になるから」


「お金になるから、って……そんなに儲かるんですか?」


 下品かも知れなかったが、つい聞いてしまった。自分にそういう小説が書けるとは思っていないが、お金儲けの手段としては興味がある。


「そうね……大儲けが出来るジャンルじゃないけれども、一定の需要はあるから食いっぱぐれるってこともない。死とセックスは、人間の二大関心要素って言われるぐらいだし」


「はあ」


「私達はいわば創さんにかくまわれている立場だけれども、創さんの好意に甘えてばかりはいられない。だから、自分に出来る形で創さんへの借りを返す。ただそれだけのことよ」


 借りを返す、か――美琴さんは、そういう表現をするんだ。


 となると、やはりどうしても気になるのは――。


「美琴さんはおじさんのこと、どう思っているんですか?」


「どう、って」


「あの家にいる限り、私達はおじさんの妻であることがルールだっていうじゃないですか。美琴さんはおじさんのこと、好きですか?」


 私の言葉に、呆れたように被りを振る美琴さん。


「……貴方って、思っていたよりも大胆なところがあるのね。何でそんなことを聞くの?」


「そうですね……これからの私の参考にしたいから、でしょうか。駄目でしたか?」


 私がそう言うと、何とも気まずそうな表情を浮かべた美琴さんは、コーヒーカップの中身を一息に飲み干した。


「まあ、い人だとは思うわ……でも、だから。創さんには悪いと思っているけれども、私は帆夏さんや莉奈のようにはなれないかな」


「それって、どういう意味ですか?」


「あの二人みたいに、男女の関係にはなれないってこと」


 そう言って、小さなため息をつく美琴さん。元ダンナのことがあってか、美琴さんはどうやら相当な男性不信のようらしい。


 それにしても、この言葉からすると、あの二人はになっていて、美琴さんはそうじゃないってこと?


 私が考えていたことが表情に出ていたのか、美琴さんはほんの少し顔を赤らめながら言った。


「なに意外そうな顔してるのよ」


「いえ、別に」


 他人同士の情事をいちいち想像するような趣味はないのだが、優しげな帆夏さんや奔放そうな莉奈さんならまだしも、冷徹そうな美琴さんがおじさんとそういう関係になるって図は、全く想像が出来ない。


「ポルノ作家だからって、そういうことが格別好きって訳じゃないんだから」


 呟くようにそう言ってから、美琴さんは自嘲気味に小さく笑った。


「……でも、そういう私を許してくれる創さんの器の大きさは、嫌いじゃないわね」


 そう言われると、美琴さんの気持ちも分からなくはない。おじさんは確かにスケベっぽいけれども、かといって若い男の子みたいにガツガツした感じでもないから。


 それに、見かけは冴えないけれども、おじさんの在り方は……ちょっと、格好いいって思っちゃうかも。


「ところで咲希さん」


 美琴さんが、少し不機嫌そうな表情で私を見た。


「さっきからずっと、私のことばかり聞かれている気がするんだけれども……私の話ばかりするのって、不公平だとは思わない?」


「はい?」


「貴方のことも聞かせて貰わないと、バランスが取れないわ」


 これはちょっと予想外の展開だった。だが、美琴さんの言い分には相応の理がある――のかも知れない。これは己の好奇心が自分の首を絞めるパターンなのか。


「特にこれといって面白い話はないと思いますが……そんなことを聞いてどうされるんですか?」


「もちろん、これからの執筆のネタにさせて貰うのよ。創さんの側にいると、女の身の上話には事欠かないからね」


 そう言って美琴さんはにんまりと笑ったが、一体どんな話のネタにされてしまうのだろうか――これまでとは一転して、私の気分は陰鬱なものになった。

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