第11話 ただいま
おじさんと二人で家に帰ると、
「あら、二人でお帰りだったんですか?」
私は何とも気まずくて、何と答えたものかと思ったのだが、おじさんはそんな私のことなど気にもしていないかのように「おう」とだけ言って、お弁当箱と水筒の入ったショルダーバッグを帆夏さんへ預け、そのまま風呂場へ直行してしまった。
そんなおじさんの背中を見送りながら、帆夏さんが私の方を見て軽いため息をつく。
「
「ええ、まあ……はい」
私が生返事を返しているところへ、二階から降りてきた
「お帰りなさい、咲希さん……ああ、
美琴さんの言葉にも「はい」とだけ答える。やっぱりあのやり取りだと、そう思われていても仕方がなかったか。あの時は正直、これからどうするかなんて何も決めていなかったけれども、今となってはどうにも気まずくて仕方がない。
とは言え、たった一晩しか一緒に過ごしていない莉奈さんが、私のことをそんなにも気にしてくれていたことに少し驚いた。もしも立場が逆だったら、私はそこまで莉奈さんのことを気遣っていないと思う。
「ごめんなさいね、咲希さん……晩ご飯、もう先にいただいちゃったの。
そう言って、帆夏さんはキッチンへと姿を消した。美琴さんは再び二階へと戻り、それと入れ替わるようにしてイェンさんが姿を現す。
「サキ、オカエリ」
「えっと、その……ただいま」
屈託の無い笑みを浮かべるイェンさんに、ぎこちない笑みで返事をする。
お互いに、何となく座卓を囲んで座った。どうにも居心地が悪い。少しして、イェンさんがハンディタイプの自動翻訳機を取り出して言った。
「サキ、キョウ、ドコイッタ?」
ぎこちない日本語に、私は少し考えてから、自動翻訳機に向かって喋った。
「散歩です。駅前を歩いて、自分の家に帰りました」
私の言葉を拾った自動翻訳機が、女性の音声でベトナム語に変換してくれる。一応、嘘は言っていない。
その音声を聞いて、再びイェンさんが口を開いた。今度はベトナム語だった。
『サキさんも、今日からここで一緒に暮らすのですか?』
日本語に変換されたイェンさんの言葉に、私は少しの間を置いて答えた。
「はい、そのつもりです」
自動翻訳機が変換した私の言葉を聞いて、イェンさんが嬉しそうに笑った。
「サキ、
イェンさんのベトナム語が最初は分からなかったが、彼女の言葉を拾った自動翻訳機からは「家族」という日本語が聞こえてくる。
正直なところ、何と答えたものかと戸惑った。私にとって、今まで家族と呼べる相手はお母さんしかいなかった。一方、イェンさんは色々と
「イェンさんは、何人家族ですか? ベトナムの家族です」
『四人です。父と母、弟がいます』
「どうしておじさんと結婚したのですか? お父さんやお母さんは、何て言ってましたか?」
こんなことを尋ねるのは自分の趣味ではなかったが、どうしても好奇心が勝ってしまった。イェンさんのような人が、そうまでしてこの家にいる理由がどうしても分からなかった。
自動翻訳機の音声を聞いたイェンさんは、しばらくの間その意味を理解しかねていたようだったが、私の「おじさん」という言葉の意味を理解した辺りで、少し悲しそうな笑みを浮かべる。
『ソータさんと結婚しなかったら、私は不法滞在者として帰国させられたからです。父と母は、身体に気をつけてと言いました』
一瞬言葉を失った私に、イェンさんが続けた。
『私はたくさんのお金を借りて日本に来ました。そのお金を返せるようになるまで、私はベトナムに帰れません』
「……」
『私は頑張って日本語を覚えて、いっぱい働いてお金を稼ぎます。そして、借りたお金を返せるようになったら、ベトナムに帰ります。それまでの間、私はソータさんの妻でいなければなりません』
「それって、その……
つい口をついて出た言葉を、自動翻訳機がベトナム語へ変換する。イェンさんは、何とも言えない微苦笑を浮かべた。
『辛くないとは言えません。でも、ソータさんは良い人です。ソータさんは、とても困っている私を助けてくれました』
まあ、それについては分からなくもない。かく言う私も、おじさんに助けられたクチだし。
「それにしたって、おじさんと結婚までするっていうのは、ちょっとやりすぎじゃないのかな」
私のその一言で、イェンさんはそれまでの笑みを消し、急に真顔になった。
『私はさっきも言いました。私は借金がたくさんあります。私が助かる道は、他にありませんでした。父や母に、迷惑をかけられません』
うっ――イェンさん、いつもニコニコしていたから分からなかったけれども、どうやら芯は強いタイプみたい。何か圧が凄い。
「じゃあ、さ……イェンさんは、おじさんのこと好き?」
いくら何でも、好きでも無い相手と結婚するっていうのは、私には出来そうも無い。イェンさんの日本に残る覚悟っていうのは、おそらく相当なものなんだろう。
私の質問に、イェンさんは一転してほんのりと頬を染めた後、複雑そうな笑みを浮かべた。
『私は優しい人が好きです。ソータさんは優しい人です。でも、私と同じぐらいの年齢の人、格好良い人も好きです』
まあ、それが本音だよね。若い女の子だったら、それが普通だと思う。でも、イェンさんが少なくともおじさんのことを「人として好き」なんだろうなってことは分かった気がする。
それから少しして、おじさんがお風呂から戻ってきた。昨日と同じ、くたくたのジャージ姿。正直なところ、イェンさんと夫婦って言われても全然釣り合っていない。
「おう、咲希よ。おふくろさんを連れて、ちょっとこっちへ来い」
ぶっきらぼうにそう言うなり、廊下をずかずかと歩いて行くおじさん。その後ろを私と、
その二つを持って、昨日私が寝泊まりさせてもらった部屋に入ったおじさんが、少しの間思案する。
「うん、まあこの辺りが良かろうて」
そう独り言を言って納得したおじさんが、小さなテーブルの脚を広げて部屋の壁際の一角に置き、小脇に抱えた箱の蓋を開けて中身を取り出す。
「ほれ、さっさとおふくろさんを出してやらんか。いつまでも紙袋の中だったら、いくら何でも可哀想だろうが」
おじさんが用意してくれたのは、どうやらお母さんをお
「昔使っていたものですまんが、おふくろさんの仮住まいとして、少しは
そう言ってニヤリと笑うおじさん。胸が詰まった、不意打ちはずるいと思う。
持ってきた遺骨と遺影をテーブルの上に置いた。するとおじさんが、箱の中から取りだしたロウソクと線香を立て、マッチで火を付けてくれる。
それからおじさんはお母さんの前に正座し、りんを二回鳴らしてごつい両の手を合わせ、ぼそりと呟いた。
「別段綺麗な家でも無いし、少々騒がしいところもあるだろうが、こんなところで良ければ娘さん共々、しばらくゆっくりしていって下されや」
思わず少し涙がこぼれた。小さく鼻をすすってからおじさんの後ろに正座して、私もお母さんに手を合わせる。イェンさんも私の横に座り、私の真似をしてくれた。
「さあて、それじゃあ晩飯にしよう。腹が減って仕方が無いわい」
ぶっきらぼうにそう言い残したおじさんは、私の方を振り返るわけでもなく、さっさと居間へと戻っていってしまった。イェンさんが私に尋ねる。
『この写真の女性は、サキのお母さんですか』
「うん、そう」
『そうですか。ソータはサキだけじゃなく、サキのお母さんもこの家に住まわせてくれるんですね』
「……そうですね」
『やはりソータは優しい人ですね。私は優しいソータが好きです』
そう言って笑うイェンさんに、私は何も言い返すことが出来なかった。
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