第10話 Return Home

 色々と疲れたので少しだけ横になっていたつもりだったのが、気がついたらすっかり寝入ってしまっていた。


 部屋の片隅に置いていた小さな置き時計の針は、午後六時をとっくに回っている。もっとも、この時計は昔からうちにある安物で結構ひんぱんに時刻がずれるので、だいたいの目安でしかないのだが。


 もの凄くお腹が空いていた。台所にある小さな冷蔵庫を開けてみるが、中にあったのは、半分以上使ったマーガリンのパックが一つきり。飛び出すようにして仕事を辞めて以降、買い物に行くことも、行く余裕も無かった。財布の中身は、もう一万円も残っていなかったはず。


 不意に「晩ご飯までには戻ってこい」という、帆夏ほのかさんの言葉を思い出した。昨日の晩から食べさせてもらっていた食事は、そのいずれもが美味しい「人間の食べ物」だった。さらに空腹感が強くなる。何とも恥ずかしい話だが、どうやら生きている限り、生理現象には勝てそうに無い。


 いつ何に使っていたのかも思い出せない大きめの手提げの紙袋に、お母さんの遺骨と遺影を入れた。こじゃれたバッグのたぐいなど、私の持ち物には無い。その紙袋を持って、私はアパートの部屋を出た。


 だが、だんだんとおじさんの家が近くなってくるにつれて、急に気持ちが引けてきた。おじさんの家に行ったところで、何と言って良いのかが分からない。私の足取りは、おじさんの家から少し離れた公園で止まった。


 空腹とお母さんを抱えたまま、夜の公園のベンチに腰掛ける。この時期のこの時間帯は、流石に寒さが身に染みた。


 何なんだろう、この気持ち――情けなさ? それとも気恥ずかしさ? おじさん達にどんな顔をして話をして良いのか、全然分からない。おじさん達に会うのが怖い。


 アパートで散々泣いて涙も涸れ果てたと思っていたのに、また公園の街灯の光がにじんで見えてきた。住宅街の中にある小さな公園だったので、人通りがほとんど無いのが救いと言えば救いなのか。堪えきれない涙を何度も拭いながら、うつむいて声を殺すようにして泣く。


「何をしとるんじゃ、こんなところで」


 どれぐらいの時間が過ぎたのか分からない中、突然の声に驚いた。顔を上げて振り向くと、少し離れたところにおじさんが立っていた。朝乗っていった自転車は、かごにショルダーバッグを入れたまま、公園の入り口付近に停められていた。


 袖口で涙を拭いつつも次の言葉を出せないでいた私に、おじさんが尋ねてくる。


「その紙袋の中身は?」


「……お母さん」


「はあっ?」


 とんきょうな声を上げて私に近寄り、紙袋の中身をのぞき込んだおじさんは、小さくため息をつく。


「何だ、その……お前さん、おふくろさんを連れてくるために家へ戻ったのか」


「最初はそんなつもりじゃなかったんだけれども……お母さん、独りにしておけなかったから」


「ま、そりゃそうじゃの」


 軽く肩をすくめたおじさんは、右の握りこぶしに立てた親指で自転車の方を差して言った。


「こんなところでぼーっと座ってると、風邪を引いてしまうわい。ほれ、さっさと帰るぞ」


「帰る? どこへ?」


「そんなもん、うちへ決まっとるじゃろうが」


「どうして?」


「どうして、って……あのなぁ」


 おじさんが、心底呆れたように被りを振った。


「お前さん一人、寒空の下へとほっぽり出して帰るわけにいくか」


「昨日もそうだったけれど、おじさんは何で私を助けようとしてくれるの? おじさんの使って何?」


 私がそう言うと、おじさんは結構長い間、苦虫をかみつぶしたような顔をしてから、夜空をじっとにらむようにして言った。


「ワシは死なせてしまった妻に誓ったんじゃよ。困っている女を見かけたら、その女が救える相手だと思った限りは必ず救っていくと」


 街灯の光を反射して、おじさんの眼鏡がぎらりと光る。そのせいで、おじさんの目を見ることは出来ない。


「妻って誰のこと? おじさんが妻って呼ぶ人は、今までにもいっぱいいたんでしょ?」


「ワシにとって本当の妻は、後にも先にも由紀ゆきしかおらん」


 由紀っていうんだ、その人。初めて聞く名前だ。それに、今までおじさんは数多くのを迎えてきたはずなのに、「本当の妻」って呼ぶ人は一人しかいないってのも意外だった。ところで、死なせてしまったってどういう意味?


 私の表情から察したのか、おじさんは何ともばつが悪そうに背を向けた。


「ワシにも昔、色々とあってな……ほれ、帰るぞ。さっさと付いて来んかい」


 おじさんの背中は、私を背負おうとしているようにも、私を拒絶しようとしているようにも見えた。広いようでいて、案外と小さな男の背中。見ていて少し胸が苦しくなる。


「もう一つ教えて。おじさんが私を救えると思った理由って、一体何?」


 私の問いに、おじさんは肩越しに振り返って唇の端だけでニヤリと笑った。


「お前さんのその態度さ。他人を当てにしない、依存しない。すがりついてくるような女は、ワシには救えんよ。一緒におぼれるのも御免だ」


 色々と意外な理由だった。そして、何だかよく分からないが、ほんの少しだけおじさんのことを格好良いと思ってしまった自分がいた。


 きっとたぶん、この人だったら――。


「あの、えっと……悪いんだけれども私、おじさんの夜の相手ってのは無理。でも、その他のおじさんのルールには従います。それでも私、おじさんの家にいても良い?」


 自然と口をついて出た私の言葉を聞いて、おじさんは私に背を向けたまま、お腹を抱えて笑い出した。


「ハハハ……まあ確かに、ワシはお前さんに妻になれと言うたが、今のご時世じゃ無理強いはセクハラって言われるらしいからな。は、もし気が変わったらでええわい」


 いやだから、それは無理だって。でも、当初想像していたほどの不快感は、その言葉からは感じられなかった。


 ひとしきり笑った後、おじさんはバリバリと長髪の頭を掻きむしりながら言った。


「まあ、お前さんなら他の女達ともうまいことやってくれそうだ。とりあえずはおふくろさん共々、しばらくうちにおったらええわい」

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