第9話 人並みの幸せ

「あら、どこかへお出かけ?」


 お昼ご飯をいただいた後、玄関先で靴を履きかけていたところを帆夏ほのかさんに呼び止められた。


「ええ、まあ」


「帰りは何時ぐらいになるのかしら?」


 帆夏さんの問いを、笑ってごまかす。居間から首だけを覗かせていた莉奈りなさんが、右手を挙げた。


「はいはーい。まだ出勤まで時間があるし、買い物だったら付き合おっかー?」


「いえ。少し一人で、外の空気を吸いたいんです」


 私の言葉に、莉奈さんが少し表情を曇らせる。その向こうには、ちらりとこちらに視線を向ける美琴みことさんと、屈託の無い笑みを浮かべているイェンさんの姿が見えた。


「そう……晩ご飯の時間までには帰ってらっしゃいね?」


 腕組みをし、右の頬に右手を当ててそう言った帆夏さんに、軽く会釈をして玄関を出る。一宿三飯の礼がこれだけでは、やはり義理を欠いてしまうだろうか。


 昨日の夜から色々とあったので、一人になって考えを巡らせてみたかった。おじさんの家にもおじさん達にも全く不満などは無かったのだが、このままでは自分が自分で無くなってしまうような気がした。


 出かけてはみたものの、特に行く当てもなかった。肌寒いが、天気が良かったのは助かる。心なしか、いつもより周りが明るく見える気がした。


 昨夜おじさんと出会った踏切まで来た。ぼんやりと、辺りの景色を眺める。昨日の夜の出来事が、随分と昔のことのように思えた。


 しばらくして、踏切の警笛音が鳴り始めた。ゆっくりと目の前に降りてくる遮断機と、しばらくして目の前を通過していく列車。


 この中へ飛び込もうとしていた、昨夜の自分のことを思い出す。何故あの時に死のうとしたのか。あるいは、何故あの時に死んでしまわなかったのか。


 駅前まで来たので、本屋に入ってみた。そこそこ大きな本屋だったので、本を探すための検索用端末が置いてあった。「平重ひらしげ美琴みこと」と入力し、検索を実行してみる。帆夏さんの話では、美琴さんは結構人気のある作家ということだったが、一体どんな本を書いているのだろうか。


 端末のディスプレイに表示された内容に驚いた。普通の小説っぽいタイトルや、ライトノベルのタイトルもいくつか表示されていたが、圧倒的に多かったのは官能小説だったからだ。これは一体どういうことなのだろうか。


 その場にいるのが何とも恥ずかしかったので、慌てて検索結果をクリアして、そそくさとその場を立ち去る。そんな私の様子を、少し離れたところにいたサラリーマン風の男の人が不思議そうに見ていた。こっち見るな馬鹿。


 しばらく本屋の中をうろうろしてみたが、欲しい本などがあった訳でもなく、これといって興味を引くような本もなかったため、再び駅前の広場へと出た。気がつくと、広場の時計の針は午後二時半を回ろうとしていた。


 近くのベンチに腰掛け、しばらくぼんやりと辺りを眺める。何とも忙しそうに行き交う人々のうち、誰一人として私に注意を払うことはない。他人同士の間柄であれば、これが普通だ。


 今までの自分の置かれた環境は、これが当たり前だった。私のことを気にしてくれていたのはお母さんだけ……学校の先生達は気にするふりはしていたようだったが、私の方がそれを望まなかったこともあって、私に対して深入りしてはこなかった。


 高校時代までの友人とは、今ではほとんど連絡を取っていないし、連絡が来ることも無い。多少血のつながりがある人間でさえ、私にとっては赤の他人以下の存在だった。


 それにしても、今日はいつにも増して辺りがまぶしく見える。少し考えを巡らして、自分なりに納得した。今まではこんな時間に外を出歩くことがほとんどなかったからだ。きっとそうに違いない。


 夜は居酒屋の仕事で、深夜に帰宅したらそのまま昼過ぎぐらいまで布団の中。それから買い物など、ちょっとした用事を手短に済ませて、また仕事へ。ここ最近はずっとそんな毎日だった。


 たまの休みの日は、出かける当てもお金もなかったから、ただひたすらに寝て時間を過ごす。よくよく考えてみると、それは世間一般で言うところの「人間らしい生活」とは程遠いものだった。


 ふと気がつくと、広場の時計の針は午後三時半を指していた。ただ呆然としている時間が、あまりにも長すぎる。大丈夫か、自分。


 少し離れたところにある交番から、若い警察官がじっとこちらを見ていた。後ろめたいことは何一つ無いはずだったが、逃げるようにその場を立ち去った。そんな自分が、随分とみじめに感じられた。


 道すがら、おそらくは女子高生と思われる女の子達のグループとすれ違った。何やら楽しそうに笑い合いながら、どこかの店で買ってきたのであろう種類の違うクレープを、お互いに分け合いながら食べている。


 何の悩みもなさそうで幸せそうな彼女達の姿を見て、神経が苛立った。その理由は自分でも分かっている、ただの無い物ねだりだ。


 そして結局、自分のアパートへと戻ってきてしまった。築四十八年、八畳一間と小さなキッチンスペースがあるだけの部屋。家賃は月二万二千円。日当たりが悪く室内も狭いとはいえ、小さなお風呂とトイレが付いているだけ有り難い、外観も中身もボロボロのアパートだ。十部屋あるうちのほとんどが空き部屋で、私以外に住んでいるのは一人暮らしのおばあちゃんだけだったはずだ。


 部屋の鍵を開けて、中に入る。経年劣化で変色した古いドアは、開け閉めをする度にギイギイと音が鳴った。


 自分で言うのも何だが、あまりにも殺風景な部屋だった。お母さんと二人で暮らしていた時にはもう少し物があったのだが、私一人だけになってからは必要最低限のものしか置いていない。お母さんとの思い出を失うようで凄く嫌だったが、生活のために売れる物はほとんど全て売ってしまったからだ。


 部屋の片隅にある、小さなテーブルの前に座る。そのテーブルにはお母さんの遺骨を収めた骨壺と、小さな遺影を置いていた。


 お母さんの遺骨については葬儀の際に、叔父がしぶしぶといった体で本家の墓に入れるかと聞いてきたが、私はそれを断った。お母さんのことを「身内の恥」などと言ってのけた奴らの墓に、お母さんの遺骨を納骨するなんて冗談じゃない。


 お母さんのお墓は、いずれ絶対に私が何とかする。少し前まではそう思っていた。でも、お金を盗んだ疑いをかけられて職を失った今の私には、もう到底叶いそうもない願いだった。


 昨日の私は、もはや生きる張り合いを失っていた。どうやって生きていくのか、そもそもまだ生きていたいのか、よく分からない状態だった。でも、おじさんと出会ってしまったことで、何かの歯車が微妙にずれてしまったような気がする。


「お母さん」


 私以外に誰もいない部屋で、言葉に出して言ってみた。


「私、これからどうしたらいいんだろう」


 もちろん、返事などは無い。遺影のお母さんは、ちょっと困ったような笑顔を浮かべていた。


 仕事を失い、頼るあてもなく、ただ一人で生きる目的も見失ってひたすら息をしていた。それが昨日までの自分。でも、昨日の夜におじさんと出会ってから、ほんの少しの間に色々なことがあった。


「私、まだ生きていてもいいのかな」


 視界がにじみ、涙がポロポロとこぼれ落ちてきた。他に誰もいない部屋の中で、私はひっそりと泣いた。


 人並みの幸せというものが、許されるのであれば欲しかった。お母さん以外に、頼りに出来る存在なんて今までいなかった。友人という人間関係は、時には同情を寄せてくれることもあったけれども、本当の意味で自分を救ってくれる力を持ち得なかったことは理解していたから、頼ろうという気にはならなかった。


 でも、おじさんとあの家の人達だったら、ひょっとすると――ついそんな期待を抱いてしまう。本当に何も無い、ありのままの自分をありのままに受け入れてくれた人達に、小さな希望の光を見てしまう。


 十二月の隙間風が吹き込む一人きりの部屋の中は、本当に寒かった。

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