第6話 一夜明けて

 冬の早朝の寒さで、目が覚めた。窓の外はうっすらと明るくなっていて、隣の布団では莉奈りなさんがまだ眠っていた。壁掛け時計に目を向けると、時計の針は午前六時半過ぎを指していた。


 莉奈さんを起こさないようにそっと布団を抜け出し、リビングの方へと向かった。リビングにはもう照明の電気がついていて、さらにその奥のキッチンの方からは人の気配がした。


「あら咲希さきさん、おはよう」


 キッチンに立っていたのは、帆夏ほのかさんだった。どうやら朝御飯と、おそらくはおじさん用と思われるお弁当の準備をしてくれていた。


「何か手伝いましょうか?」


 一宿一飯の義理もある手前、自然と言葉が口をついて出た。帆夏さんがにっこりと笑った。


「ありがとう。それじゃあ、そこの食器棚から六人分の食器を出してもらえるかしら」


 帆夏さんが作ってくれているものは、ご飯とお味噌汁、そして焼いた鮭の切り身と卵焼きだった。勝手は分からなかったが、何となくこんなものだろうかといった感じで、食器棚の中から食器を選んでテーブルの上に置く。食器棚の中の食器には、少し縁が欠けたものも見受けられたが、出来るだけ欠けのないものを選んだつもりだ。


 朝御飯の支度をしている帆夏さんの後姿を見ていると、何だかお母さんを思い出してしまった。何とも言いようのない感慨に浸っていると、私の方を振り向いた帆夏さんが柔らかく笑った。


「ごめんなさい、次はお茶の準備をお願い出来るかしら?」


 私は頷き、教えてもらった場所から取り出した大きめの土瓶どびんにほうじ茶の茶葉を入れ、電気ポットで沸かされていたお湯を注いだ。そして、茶葉からお茶が出てくる間に、昨日の晩に出してもらったものと同じ湯呑を六つ、お盆の上に並べた。


「次は何をしましょうか?」


「そうね……朝ご飯の準備はもうほとんど出来ているから、他の子達の様子を見てきてもらえるかしら?」


 帆夏さんにそう言われて、まずは莉奈さんの元へと戻った。


「莉奈さん、起きて下さい。もう朝です」


 私が布団の山をそっと揺すると、そこから首だけを出した莉奈さんが、半分寝ぼけたような顔で笑った。


「んあ……咲希っち、おはよー」


「朝食の準備がそろそろ出来るそうです」


「あーい」


 布団の中に潜り込んだまま、ひらひらと右手を振った莉奈さんを残して、二階へと続く階段を上った。二階の踊り場には三つの扉と、一つの襖があった。


 どの部屋から声をかけようかと思っていたところ、扉の一つが開いて、部屋から美琴みことさんが出てきた。


「ああ、えっと……咲希さん、だったっけ。おはよう」


「おはようございます。帆夏さんから、朝御飯の準備がもうそろそろ出来るから、と」


「そう、ありがとう」


 やや眠そうな目をした美琴さんは、そう言って階段を下りていった。昨日会った時にも思ったが、美琴さんは良く言えばクールビューティー、言い方を変えると少し冷たい感じの人に見える。


 二つ目の扉をノックしてみたが、返事がなかった。しばらく待ってみたが、部屋の中に人の気配が感じられない。ここはおそらく、莉奈さんの部屋なのかも。


 そう思って、三つ目の扉をノックしようとしたところ、それよりも先に扉が開き、驚いた表情でこちらを見つめる若い女性が部屋の入口に立っていた。


 身長は、私よりもほんの少し高いぐらい。痩せ型で色白、腰の辺りまで伸びた長い黒髪と、綺麗で優しげな目が印象的な美人さんだ。この人がきっと、莉奈さんが言っていたイェンさんなのだろう。


 イェンさんとおぼしき女性は、慌てて扉を閉めたあと、少ししてから再びそっと扉を開けて、手の平サイズの小さな機器をこちらへと差し出しながら、私が聞いたことのない言葉――おそらくはベトナム語だろう――で喋った。


『貴方は誰ですか?』


 女性が手にしていた機器から、女性の音声が日本語で聞こえてきた。この機器が莉奈さんの言っていた、ハンディタイプの自動翻訳機なのだろう。私はその機器に向かって言った。


「はじめまして、私は高城たかじょう咲希さきです。昨日の夜から、この家に泊めてもらっています」


 今度は私の言葉を、自動翻訳機がベトナム語へ翻訳してくれる。機器から流れる女性の音声を聞いて、イェンさんがようやくぎこちない笑みを浮かべながら言った。


『はじめまして、私はグェン・タン・イェンです』


 なかなかに便利な機械だが、自動翻訳機がどこまできちんと翻訳をしてくれるか分からなかったので、私は出来るだけ簡単な言葉を選びながら話を続ける。


「もうすぐ朝御飯が出来ます、帆夏さんが呼んでいます」


『分かりました。準備をしてから、すぐに行きます』


 私が軽く一礼して、襖の方へ向かおうとすると、イェンさんが小さく笑った。


「アリガト、サキ」


 そう言い残して、再び部屋の扉を閉めたイェンさん。片言でも、どうやら挨拶程度なら日本語が話せるみたいだ。


 これで私が、今朝この家でまだ会っていない人物は一人だけになった。襖の方へと近づくと、部屋の中から微かないびきが聞こえてくる。


「おじさーん。帆夏さんが、もうすぐ朝御飯が出来るから起きてって」


 襖越しにそう声を掛けると、部屋の中からややくぐもった声で「おう」という返事があった。


 状況から鑑みるに、どうやらこの和室が帆夏さんの部屋だったらしい。ということは、少なくとも昨日の晩は、おじさんは帆夏さんと一緒に寝ていたという訳か。内縁の妻と言う言葉を思い出し、思わず軽く身震いする。


 階段を下りようとしたところで、まだ眠そうな顔をした莉奈さんとすれ違う。


「帆夏さんが出しておいてくれた着替え、寝ていた部屋に置いといたよー」


 寝ていた部屋に戻ってみると、確かに莉奈さんの言ったとおり、女物のシャツとパンツ、靴下などが寝ていた布団の枕元に置かれていた。着てみるとやや大きめのサイズだったが、折角出してもらったものに文句を言う訳にも行かない。


 着替えてキッチンに戻ろうとした頃には、朝御飯の準備が既にリビングでなされていた。美琴さんが帆夏さんと一緒に、料理の器や箸などを並べてくれている。そこへ着替えを終えた莉奈さんとイェンさん、そして作業着姿のおじさんがやってきて、それぞれ席に着いた。


 点けっぱなしになっていた小型の――と言っても、私のアパートの部屋にあるものよりは、まだ大きめだが――海外メーカー製と思われる液晶テレビからは、高速道路で起こった多重衝突事故のニュースが流れていた。


「何じゃい、朝っぱらから。ええ話ではないのう」


 おじさんがそう言いながら、テレビの電源を切った。世の中の七割ぐらいの人達が、テレビを見ながら食事をするとどこかで聞いたことがあったが、この家ではそういうことはないらしい。


 それからその場にいた六人が、それぞれ朝御飯を食べ始めた。こんなに大勢の人達と一緒に食事をするのは、生まれて初めてだ。私にとっての朝御飯とは、お母さんと一緒だったか、一人で適当に食パンなどを食べていたぐらいだった。


 また、この家では食事を終えると、各々が食器を台所まで運ぶ決まりになっているようだった。私がキッチンへと向かった時、おじさんは帆夏さんと何事かの話をしていたが、私の姿を見るなり、おじさんはぶっきらぼうに言った。


「一応聞くがお前さん、今日は何か用事なんかはあるのか?」


「ある訳ないよ、そんなもの」


 ついつっけんどんな調子で答えてしまったが、昨夜一度は死のうと思っていた人間にわざわざそんなことを聞くなんて、何だか変な話だなとも思った。


「そうか。じゃあお前さん、今日は一日ここで好きにしていれば良い」


 好きにしていれば良いなどと言われても、正直困る。私が返答に迷っていると、おじさんは帆夏さんから受け取ったお弁当箱と古くて大きな水筒をショルダーバッグに入れながら、言葉を続けた。


「どこか行きたい場所があれば行ってくれば良いし、この家で一日ごろごろしていても良い。どうしてもここが気に入らないっていうのなら、出ていくのも自由だ」


「……」


「だが、自殺なんて馬鹿な真似だけは絶対にするな。ここにいる限り、お前さんが死ななきゃならんような理由なんて何もない。それだけは忘れるなよ」


 そう言い残して、おじさんは玄関で靴を履き、例の自転車に乗って仕事へと向かった。その後ろ姿を見送ると、この家の女性達はそれぞれがバラバラに散っていく。


 これからどうしたものかと悩んだ私は、ひとまず帆夏さんの後を追うことにした。

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