第5話 落涙

 そこに並んでいる本の種類は、千差万別だった。比較的多いのはコミックスだったが、恋愛小説もあれば歴史小説もあり、純文学の文庫本もあった。語学や各種資格取得の勉強用の本もあれば、料理や旅行の本もある。少し変わったところでは、犬や猫の写真集や、仏教やキリスト教にまつわる本などもあった。さながらちょっとした図書館のような様相だ。


 ただ、どの本も多かれ少なかれ傷みがあって、何人もの人達に読み込まれたような形跡があった。また、比較的古い本が多くて、中には三十年近く前に刊行された本も並んでいた。


 それでも本を手に取ったことなど、一体何年ぶりだろうか。お母さんが生きていた頃には、時々本を買ってもらったこともあったが、それらの本は生活費を捻出するため、そのほとんどを古本屋へ売ってしまった。学生時代には学校の図書室や街の図書館で借りてきた本を読むことが多かったが、働きに出るようになってからは本を読むような余裕など一切なかった。


 一冊の本を手に取った。本のタイトルは「聖書百言百話」だった。何人もの人達が手に取ってきたのか、装丁はかなりくたびれていて、天と地は焼けていて、小口はよれよれで真っ黒だった。


 ぱらぱらと、ページをめくってみる。内容を読むのに支障はないが、本文はあちこち薄汚れていて、ところどころには薄い染みのようなものもあった。そこに書かれていたのは、日常生活を送るうえで役に立ちそうな言葉の、聖書からの引用とその解説だった。


 少しの間、いくつかのページを読んでみたが、すぐにその本を本棚へと戻した。他の人達がどう思っているのかは知らないが、私は神が自分を救ってくれるなどとは思っていない。お母さんは時々「咲希さきの頑張っている姿は、きっと神様が見て下さっているから」などと言っていたが、いくら頑張ってみたところで、結果はこの通りだ。人を救うのは、決して神などではない。


 それでも、何冊かの本をぺらぺらと眺めているうちに、寝間着姿の莉奈りなさんが部屋へと戻ってきた。


「咲希っち、お待たせー……って、一体何の本を読んでるの?」


 莉奈さんが、私が手にしていた本を覗き込む。


「ふうん、『世界の絶景百選』かぁ。そういうの、何か良いよね」


「何がですか?」


「だってほら、いつかは自分もそんな景色を、実際に眺めてみたいなーって思わない?」


 そんなこと、考えてもいなかった。本の中にあるのはいずれもどこか遠い世界の風景でしかなくて、自分がそんな場所へ行くことが出来るだなんて思ってもみなかった。


「無理ですよ。どこもかしこも、はるか遠くの世界ばかりです」


「そんなことないよ。生きてさえいれば、可能性はゼロじゃないから」


 莉奈さんが、白い歯を見せて笑った。その笑顔が、何やらひどく妬ましく思えた。


 それから私達は、部屋の電気を消し、それぞれ布団の中へ入った。午後十一時頃を指していた壁掛け時計の微かな音を聞きながら、私は暗闇の中で莉奈さんに尋ねた。


「莉奈さんがこの家に来ることになったきっかけって、何ですか?」


「ええーっ。いきなりそれ、聞いてくるかなー」


 暗闇の中の莉奈さんの声は、案外明るかった。


「まあいっか、別に隠し立てしなきゃ困るようなことじゃないし」


「すみません」


「実はアタシ、五年前に親と大喧嘩して、家を飛び出したの」


「いわゆる反抗期っていうやつですか?」


「うーん、どうなんだろ? 当時付き合っていた男との間に子供が出来ちゃって、駆け落ちして家を飛び出したって感じ?」


 やけにあっけらかんと話してくれるが、随分と重い話のように聞こえる。


「でも、すぐにその男の方がビビッて逃げちゃって、アタシとお腹の子供の二人きりになっちゃって……親にも散々大見得を切った手前、何とか一人ででもその子を育てようと色々頑張ったんだけれども、結局は流産しちゃってね」


「……」


「で、今更親を頼るなんて絶対に嫌だったし、でもこれから先、どうやって生きていけばいいのか分からなかったし。それで何もかもが嫌になって、いっそのこと死んでやろうって思っていた時に、創太そうたに声をかけられて……だからね、アタシは今の咲希っちの気持ち、それなりに分かっているつもりだよ」


「どうして親を頼るのが嫌なんですか?」


 莉奈さんには何だかんだいっても、まだ頼れる相手がいるではないか。さすがに表には出せないが、安易に私の気持ちが分かるなどと言われるのは少し心外だ。


 だが、返ってきた莉奈さんの言葉には、私が思っていた以上に負の感情が渦巻いていた。


「だってさ、あいつら二人共アタシのことを『我が家の末代までの恥』だって言い切ったんだよ? そりゃまあ確かに、後になってみればあの時に惚れていた相手の男が、あんな根性無しのクズだったなんて思ってもいなかったけれどもさ。それにしたってあいつら、自分達の価値観だけでモノを見て、当時のアタシの気持ちなんて一切理解しようとしてくれなかった。実の親なのに、だよ?」


 ――前言撤回。私と莉奈さんとは、案外似たような境遇だったようだ。私だってお母さんの兄や妹を頼れだなんて言われたら、きっとブチ切れると思う。


「おじさんは、そのことについて何か言いますか?」


 私の問いに、莉奈さんは一転してさっきまでの明るい口調で答えた。


「ううん、何も。アタシの話を聞いても、『そうか』って言ったきり」


「……」


「それからはずっと、この家に置いてもらっているんだけれども……創太ったらアタシらみたいな女の人を、もうかれこれ五十人以上面倒を見てきているんだよ」


 いや、ちょっと待って。ということは、これまでにもあのおじさんの内縁の妻だった人が、五十人以上いるってこと?


 私の考えを察したのか、莉奈さんの口調がやや苦笑めいたものになった。


「アタシも何でそんなことをしているのか、一度創太に直接聞いてみたことがあったんだけれども、なんやかんやと話をはぐらかされちゃって……でも、ひょっとしたら創太と一番付き合いが長い帆夏ほのかさんだったら、その辺りの話も知っているかも」


「帆夏さんが、おじさんとの付き合いが一番長いのですか?」


「うん、確か今年で十二年目になるはずだよ」


 十二年。言葉にすればたった三文字だけれども、決して短い時間ではない。


 しかし、こう言っては何だが、帆夏さんは年齢としこそ少しいっているものの、おじさんには不釣り合いなくらいに綺麗な人だ。それは莉奈さんや美琴みことさんにしたってそう。


 美琴さんと、イェンさんとか言う人のことはまだ良く分からないけれども、帆夏さんや莉奈さんは、どうしてそんなにも長い間、おじさんと一緒に暮らしているのだろうか?


「五十人以上の女の人達は、それぞれみんなここを出ていかれたのですか?」


「そうだよ。創太のやつ、来るものは拒まず、去る者は追わずって言ってたっけなぁ……人によっては、新しい仕事を見つけて独り立ちしたり、他に良い人を見つけてその人と結婚したり。いつまでもここにいたって良いし、いつここを出ていっても良い。それがこの家で暮らす女のルールの一つなんだよ」


「莉奈さんも、いずれはこの家を出ていかれるのですか?」


 私が尋ねると、莉奈さんは少しの間考えてから、言葉を選ぶようにして言った。


「うーん……そうしなければいけない理由が出来たらそう出来るように、一応準備はしているんだけれどもね」


「準備、ですか」


「そう。美琴さんは在宅でいろんな物書きの仕事をしているんだけれども、アタシも家を飛び出した時からお世話になっているキャバクラで、ずっと働かせてもらっていてね。この家に生活費を入れつつ、少しずつだけれども貯金をさせてもらってるんだ」


 この話を聞いた限り、美琴さんと莉奈さんは、それぞれ仕事を持っているようだ。そして、この家にいる間に働いて得たお金を自分のものにすることを、おじさんは特に禁止していないらしい。


「ここにいるためには、いくらかの生活費をおじさんに渡さないといけないのですか?」


「ううん、そんなことはないよ。例えば帆夏さんなんかは、身体があまり丈夫じゃないから、外に出て働くってのは無理だし、イェンはそもそも日本語があんまり分からないから、働き口を探すのにも一苦労しているところだし。まあ、創太はいつも『ワシが何とかするから』って言ってくれるけれども、一人で出来ることには限りがあるからさ」


「なるほど。ところで」


 私は少し前から気になっていたことを口に出してみた。


「時々莉奈さんのお話に出てくる、イェンさんという方は?」


「ああ、そう言えば咲希っち、まだイェンとは顔を合わせていなかったっけ」


 暗闇にも随分と目が慣れてきたせいだろう。うっすらとではあったが、こちらへ寝返りを打って笑う莉奈さんの顔が見えた。


「この家で一緒に住むようになって、もうそろそろ二か月ぐらいたつのかなー。ベトナムから日本にやってきた、若くて綺麗な女の子だよ」


「ベトナムから?」


「そう。確か、なんとかかんとか実習生っていう国の制度で、日本へ仕事の勉強をしに来たとか言ってたっけ」


 そう言って眉根を寄せた莉奈さんの様子が、何だか凄く可愛らしく見えた。


「国の制度で勉強をしに来た人が、何故この家に?」


「ああ、アタシらもその辺りのことは、だいたいしか分からないんだけれどもね。本人の話だと、働いていた仕事場が、むちゃくちゃブラックなところだったらしいよ。あと、本人はセクハラが嫌になって、その仕事場を逃げ出してきたんだって」


 まあ、若い女の子が仕事場でセクハラに合うという話は、別段珍しい話でもないように思う。かく言う私も、居酒屋の仕事では酔っぱらった客や、他の男性店員から身体を触られるようなことは度々あった。


「ちょっと引っ込み思案なところはあるけれども、とっても素直で良い子だよ。ただ、まだ日本語があんまり喋れないから、あの子と話をするのにはちょっと手間がかかるけど」


「そうなんですか?」


「うん。今は少し込み入った話をする時には、ハンディタイプの自動翻訳機が手放せないって感じ? まあ、明日の朝になったら、たぶん会えると思うよ」


「そうですか」


 莉奈さんのおかげで、この家のことが少しずつ分かってきたような気がした。


 緊張のせいで疲れていたのだろうか、だんだんと睡魔が襲ってきた。このまま見知らぬ家で寝入ってしまっても良いのかとも思ったが、つい数時間前には死のうと思っていた身からすれば、今更気にするようなことではないだろう。


「莉奈さん。最後にあともう一つだけ、教えて下さい」


「何?」


「今までのお話だと、おじさんは女の人だけを対象に人助けをしているように見えるのですが、男の人は助けないのでしょうか?」


 私のその言葉に、莉奈さんは布団の中で軽く首をすくめた。


「創太の話だと、男は住み込みの仕事でもなんでも、自力で生きていけるだろうって考えみたいだよ。それに、赤の他人同士の男と女を、同じ家の中で複数人同士住まわせたら、きっともめ事が絶えないだろうからって」


「そういうものなのでしょうか」


 これまでの雰囲気から察するに、おそらく当事者間での同意は得られているのだろうが、一人の男性が複数人の女性を囲っているというのも、それはそれで色々と問題があるようにも思うのだが。


「アタシもね、一緒にいる男が創太だから何も問題はないけれど、創太以外の男と一緒の家で暮らすっていうのは、ねぇ」


「莉奈さんは、おじさんのことを随分と信用されているんですね」


 私がそう言うと、莉奈さんは布団の中でくくっ、と喉を鳴らした。


「いやホント、創太ってば見かけはあんなだけれども、あれで案外良い男なんだから。さすがに無理強いはしないけれど、咲希っちがこれから先どうしていけばいいのか分からないっていうんだったら、しばらくアタシらと一緒に暮らしてみるってのは全然アリだと思うよ?」


 そう言い残すと、莉奈さんはそのまま静かに目を閉じた。私も莉奈さんにならって、暗闇の中で目を閉じてみる。


 母さんが亡くなってからというもの、誰かと一緒に寝るのは初めての事だった。この二年間、ずっとボロアパートの一室で一人で眠ってきた。それを思うと、急に両目からじんわりと涙が溢れ始めた。


 そのことを莉奈さんに知られたくなくて、私は莉奈さんに背を向けつつ、パジャマの袖でそっと両目を拭った。でも、つい無意識に鼻水をすすってしまったので、莉奈さんにはばれてしまったかも知れない。


 私の背中に、そっと何かが触れた。莉奈さんの右手だった。その右手の温かさに耐え切れなくなって、私は漏れ出そうになる嗚咽をこらえるために、ぐっと唇をかみしめた。

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