第3話 温かくて、懐かしくて

「まるで意味が分かりません」


 私が思ったことをそのまま口にすると、莉奈りなさんは苦笑した。


「まあ、普通はそうだよねー。アタシも最初ここへ来た時には、さっぱり訳が分かんなかったもん」


「何か特別な理由があるのですか?」


「んー、そうだねー……アタシが知る限りだと、理由は二つあるのかな?」


「二つ、ですか」


「そう。一つは単純に、創太そうたの奴がドスケベの女好きだから。でも、奥さんでもない女をとっかえひっかえ相手するってのは、創太の美学に反するんだって」


 一体何なんだ、その妙なこだわりは。


 私が困惑したままでいると、莉奈さんはニヤリと笑って言葉を続けた。


「それに創太ったら五十を過ぎてるっていうのに、あっちの方はもんの凄いんだから、もう」


 いや、そんな話は別に聞きたくもない。あと、あの楠江くすえとかいう人、「おじさん」から「エロおやじ」に格下げだ。


「あとの一つは、ここにいる女の立場をみんな同じにすることで、不平等をなくすためなんだって。創太との付き合いが一番長い帆夏ほのかさんが、前にそう言ってた」


 莉奈さんがそう言ったが、ますますもって意味が分からない。本当にそんなことで、何か特別な効果があったりするのだろうか。


「じゃあ、女の駆け込み寺っていうのは?」


「それはね、創太が行くあてのない女の人や女の子の面倒を、この家で見ているから。アタシもそうだったし、他の女の人達もみんな、路頭に迷っているところを創太に助けられたクチなんだよ。咲希さきっちも同じようなもんなんでしょ?」


「私は」


 その次の言葉をどう言ったものかと思案していると、まだ半分ぐらいは濡れたままの頭をバスタオルで拭きながら、くたくたになったジャージを着込んだおじ――もといエロおやじが、リビングへと戻ってきた。


「いやー、さっぱりしたわい……っておい、他のみんなはどうした?」


「帆夏さんは晩御飯の支度をしてくれてる。美琴みことさんは仕事があるからって部屋に戻った。イェンはそもそも、まだここには来てないよ」


「そうか」


 莉奈さんの言葉に、エロおやじが軽く小さな息を吐いた。そこへ、遅めの晩御飯の皿を乗せた大きめのお盆を持った帆夏さんがやってきた。


「おまちどうさま。おかずはこれで全部だけれども、ご飯とお味噌汁ならおかわりは出来るから」


 そう言いながら、帆夏さんがエロおやじと私の前に膳立てをしてくれる。ご飯と、豆腐とわかめのお味噌汁。おかずは肉じゃがと、ほうれん草のお浸しだった。


「腹が減ってちゃあ元気も出んわい、まずは食え」


 エロおやじは私にそう言って、お箸を手に取り、がつがつと晩御飯を食べ始めた。帆夏さんは静かに、莉奈さんはにこにこと笑いながら、それぞれこちらを見ている。


「えっと、じゃあ……いただきます」


 私はお箸とお味噌汁の入ったお椀を手に取り、お椀の中身を一口飲んでみた。おそらくは魚系のものと思われる出汁の匂いと味が、私の鼻孔と口の中に広がった。美味しい。


 続いて肉じゃがに箸を伸ばした。お肉は少なめだが、じゃがいもや人参、玉ねぎにも、優しくて温かい甘みが良くしみている。


「ちょっとちょっと、咲希っち、一体どうしたってのさ?」


 やや慌てた様子の莉奈さんから、声を掛けられた。気が付くと視界がぼやけていて、私の頬を幾筋かの涙が伝っていた。


「えっ……あれっ?」


 自分でも、自分の反応がとても意外だった。ただ、こんなにも温かくて優しい味の晩御飯を、自分以外の誰かが一緒にいる場所で食べたのは、おそらく母が亡くなって以来のことだと思った。


 帆夏さんが近くにあった古びた棚からティッシュペーパーの箱を手に取り、黙って私の脇に置いてくれる。


「あ……すみません」


 軽く頭を下げて、ティッシュペーパーを一枚抜き取り、涙を拭う。だが、拭っても拭っても、私の両目からは次々と涙が溢れてきた。


「何だかよう分からんが、泣きたいのなら思いっきり泣けばええ。ここにはお前さんを笑うような奴は、誰もおらんから」


 エロお――おじさんは一瞬箸を止め、そう言ってから再び食事を続けた。その言葉を聞いた私は一旦箸を置き、とめどなく溢れ出てくる涙をひたすら拭い続けた。


 そっと私に寄り添い背中をさすってくれた帆夏さんの手の感触が、ひどく懐かしいものに感じられて仕方がなかった。昔、学校でクラスメイトにいじめられて泣いていた私の背中を、今と同じように、お母さんがいつもさすってくれていた。


 しばらくの間泣き続けて、私の涙はようやく枯れ果てた。その頃には、おじさんは自分の食事を終えていた。


「ごめんなさいね、咲希さん。晩ご飯、温め直してくるから」


 帆夏さんがそう言って、私のご飯とお味噌汁、肉じゃがを一旦お盆の上に乗せ、キッチンへと向かった。おじさんは湯呑みのお茶を飲み干し、あぐらをかいた状態で両手を後ろの床について、大きく息を吐いた。


「やーれやれ、ようやく人心地がついたわい」


「……」


「何じゃい、ワシの顔になんかついとるか?」


 私の方を見ながら、おじさんがそらとぼけたような声を上げた。キッチンの方からは、おそらく電子レンジのものと思われるチンという音が、場違いなほどに軽く聞こえてくる。


「まあ、何だ、その……お前さんも、色々と抱え込んどるものがありそうだなぁ」


 おじさんが、こちらの様子を伺うようにして見てくる。何と言葉を返したものかと思っていると、おじさんは右手で自分のお腹を撫でながら言った。


「しかしお前さん、何だってまた死のうだなんて思ったんだ?」


 本日二度目の、おじさんからの同じ質問。


 莉奈さんが少し驚いたような表情を浮かべ、それからややたしなめるような表情で、おじさんの方を見た。普通だったらなかなか聞きづらいようなことを、ずけずけと聞いてくる。


「もうこれ以上、生きていても仕方がなかったから」


 私がそう言うと、おじさんは歳の割に毛量が多い自分の頭をバリバリと掻きながら、これみよがしに大きなため息をついた。


「人間誰だって、生きていても仕方がないなんてことがあるもんか。この親不孝者め」


「父親の顔なんて、生まれてこのかた一度も見たことが無いし、お母さんは二年前に亡くなったよ」


「……だからって、それが死んでもいいなんて理由になるか、馬鹿たれ」


 おじさんは吐き捨てるようにそう言ったが、その語尾は意外に優しかった。


 しばらくの間、その場にいた誰もが沈黙していたが、やがて帆夏さんがお盆を手にして、再び姿を見せた。


「何度も待たせちゃってごめんなさいね。はい、どうぞ」


 そう言いながら、再び私の前に晩御飯のお皿を並べてくれる帆夏さん。


 莉奈さんが何やら気まずそうに小さく身もだえする横で、おじさんが言った。


「とりあえず、仕切り直しだ。まずは晩飯を食ってしまえ」


 そう言われて、私は再び箸を手に取り、晩御飯を口へと運んだ。ひとしきり泣いた後だったので、もう涙が出てくるようなことはなかったが、晩御飯の一口一口が、まるで心の奥底へと染み入るように美味しかった。


「ごちそうさまでした」


「はい、おそまつさまでした」


 帆夏さんが私とおじさんの分の空の食器をお盆に乗せて、三度キッチンへと足を運んだ。


 湯呑みに残っていたお茶を飲んでいると、おじさんが再び口を開いた。


「お前さん、親父さんもおふくろさんもおらんって言うておったが、兄弟姉妹はいるのか?」


「いないよ」


「じーさんやばーさんは?」


「いない。ついでに言えば、親戚付き合いなんてのも、これっぽっちもない」


 お母さんの兄も妹も、お母さんや私のことを「身内の恥」と呼んでいた。未婚の母とその子供というものは、叔父や叔母からすれば、世間体的に恥ずかしいことだったらしい。


 お母さんが亡くなった時には、さすがに気まずそうな顔をしながらも葬儀へ参列しに来たが、私は必要最低限のこと以外は一切口を聞かなかった。そんな私を見た叔父と叔母は、最後には舌打ちでもしたげな顔で帰っていった。


「それじゃあお前さん、その若さで誰も身寄りがおらんのか?」


 身寄り、と言われて、私は一瞬ある年配の男性のことを思い出したが、すぐにその人のことを頭の中から追い出した。


 その人とは直接話をしたことはほとんどなくて、時々お母さんの元を訪ねては、何やら色々と相談に乗ってくれていたようだったが、お母さんの葬儀の時にその人から「父親の代理として来た」と言われたところで、私がその人を見る目は百八十度変わった。


 私が黙ったままでいると、おじさんはまた一つ、ため息をついた。


「お前さん、歳はいくつだ? さっきおふくろさんは二年前に亡くなったって言ってたが、それから今までどうやって暮らしてきた?」


「二十歳。一週間前までは、居酒屋の正社員で働いてた」


「働いていた?」


 おじさんが怪訝な顔をした。あれこれと根掘り葉掘り聞かれるのは嫌だったが、今更そんなことはもうどうでも良いや、とも思った。


「仕事、辞めたの」


「どうして?」


「……結構前から少しずつ、お店の売上金が全部で百万円ほどなくなっていたんだって。それで、お店のみんなが、私が盗んだんじゃないかって言い出して」


「はあっ?」


 突然おじさんが、予想外に大きな声を上げたので、私は身体をびくり、と震わせた。


「私、他の人達とはあんまり喋るようなこともなかったし、身寄りもなかったし……でも、いつもはお互いに愛想笑いしかしない程度の付き合いだったとしても、私は私なりにみんなと一緒に、一生懸命働いてきたつもりだった。それなのに、お店のお金が無くなったっていう話が出てきた途端に、みんなが一斉に私の方を見てきたのが、凄く悔しくて、悲しくて」


「……」


「だから私、もうそのお店には二度と行かないことにしたの。お店の店長が何度かアパートにも来たけれど、全部居留守を使った。たぶん盗んだお金を返せって話だったんだと思うし、もう仕事もクビになってると思う」


 その時のことを思い出すと、再び視界が滲んできた。おじさんはただ黙って腕組みをしていて、莉奈さんと、いつの間にかキッチンから戻ってきていた帆夏さんが、何とも気まずそうに視線を落としている。


 莉奈さんが、ややひきつった笑いを浮かべながら言った。


「あの、さ……その店長さん、ひょっとしたら咲希っちのこと、心配して家まで訪ねてきてくれたのかも知れないよ?」


「だったら何で、お店のお金が無くなった話が出た時に、店長は何も言わなかったんですか?」


「それは」


「……すみません。別に莉奈さんを責めたりするつもりはないんです」


 私は莉奈さんから目を背け、じっと目の前の机の上を見つめた。つい語気が荒くなりかけた自分が、心底嫌になった。


 しばらくの間、ずっと沈黙が続いていたが、やがておじさんが腕組みを解き、右手で自分の右膝の辺りをバシッと叩きながら言った。


「つまりはお前さん、身寄りもなければ仕事もなくなって、もうこれ以上生きていても仕方がないって思ったわけか」


「……」


「まあ、お前さんの気持ちも分からんではないが、そんな理由で自殺なんかしたら、あの世とやらでおふくろさんが悲しむぞ」


「じゃあ、一体どうしろって言うのさ?」


 おじさんだって何も悪くなかったのだけれども、ついおじさんの方を睨んでしまった。お母さん以外の大人なんて、みんな結局のところは好き勝手なことばかり言うだけではないか。


 おじさんは右手の小指で右の耳の穴をほじり、その小指の指先をふっ、と吹いた。


「だから言うただろうが。死ぬぐらいならいっそのこと、ワシの妻になれって」


 莉奈さんがおじさんの仕草を見て汚らわしげに眉をひそめ、帆夏さんが苦笑し、私は思わず唖然となった。


「……は?」


「は、じゃないわい。死んでもええだなんて思えるぐらいだったら、これから先どんなことをしてでも生きていけるはずだろうが」


「いや、それとこれとは」


「本当に死んでもええ人間なんて、この世の中にはおらんわい。住む場所がないなら、この家で寝泊まりすればええ。次の仕事だってお前さんの若さだったら、まだまだいくらでも探せるだろう。だがな、たった一つきりの命は、捨ててしまったらそれまでなんだぞ?」


 そう言っておじさんがじろり、とこちらを見た。その隣で、莉奈さんがこちらの様子を伺うようにしながら笑みを浮かべた。


「咲希っちも色々あって大変だっただろうけれども、創太の言うとおり、ここで一緒にみんなと暮らしてみなよ?」


「……」


「そりゃあ、いきなり創太の内縁の妻になれって言われても、色々と抵抗感はあるかも知れないけれどさ。創太ってば、見かけはこんなだし、いびきはうるさいし、足だって臭いけれども、これでもなかなか良い奴なんだよ?」


「こらぁ、何だぁ、その言いぐさは」


 おじさんの抗議の声に、莉奈さんはそっぽを向き、帆夏さんはただただ苦笑いしていた。見かけのことについては私もノーコメントだが、いびきと足の匂いについては、どうやら本当のことらしい。


 やがて帆夏さんが、私の方を見ながら優しく笑った。


「咲希さん。創太さんの言う通り、命を粗末にしては駄目よ。あなた、これまでに色々なことがあり過ぎて、今は少し自暴自棄になっているだけだと思うの」


「……」


「だから、あなたの気持ちが落ち着くまでの間だけでも良いから、私達と一緒にここで暮らしてみない? どうしてもここでの暮らしが合わないっていうんだったら、またその時に考えれば良いことなんだから」


 見た目も年齢も全く違うけれども、まるでお母さんのような帆夏さんにそう言われてしまっては、私もなかなか次の言葉を口にすることが出来なかった。


「少し、考えさせて下さい」


 ようやくそれだけを口にするのが精一杯だったが、おじさんはニヤリと笑って両手を叩いた。


「よし。それじゃあとりあえず、今夜はもう風呂に入って寝ちまえ。帆夏、莉奈、すまんが後の面倒を見てやってくれ。今日は少し疲れたから、ワシはもう寝る」

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