第2話 奇妙なルール

 そして今、私は目の前の光景に驚きを隠せないでいる。私を古びた一軒家へと連れてきたおじさん――楠江くすえ創太そうたは、一体何を考えているのだろうか?


 ここへ来るまでの間にちらりと聞いた話では、おじさんには現在四人もの「妻」がいるという。ここは日本だ。一夫多妻制などというものは、通常は存在し得ない。


 だが、信じられないことにまるでハーレムそのものの光景が、現実として私の目の前に広がっていた。しかも、彼女達の顔には、ごく当たり前のように笑顔が浮かんでいる。これは一体どういうことなのか?


「えー、なになにー? 創太ったら、女の子拾ってきたのー?」


 そこそこ広い居間へと通された私を見るなり、まず一人目の妻とおぼしき女の子――見た感じは二十代前半ぐらい、私よりも少し年上だと思う――が、ニヤニヤと笑いながら言った。いや、人のことをその辺に捨てられていた犬か猫みたいに言うのは、正直止めて欲しい。


「おう。とりあえず今夜一晩、うちで面倒を見る。よろしく頼むわ」


 軽く左手を上げてそう言うなり、おじさんはそのままいずこかへと姿を消してしまった。いや、人のことを半ば拉致同然にここまで連れてきておいて、自分は一体どこへ行こうというのか。


「ああ、別に心配しなくても大丈夫だよ……創太の奴、風呂に行っただけだから。仕事から帰ったら、まずは風呂なんだ。じきに戻って来るよ」


「はぁ」


 からからと笑う女の子に、つい生返事をしてしまう。随分と年季が入ったリビングの壁掛け時計は、午後九時過ぎを指していた。


「まあ、立ちっぱってのも何だし、とりあえずその辺に座りなよ」


 女の子に勧められて、肩から掛けていた小さなショルダーバッグを脇へ置き、リビングの真ん中に置かれた古ぼけて傷だらけで大きな長方形の座卓の一角に座る。窓際の壁に据え付けられたエアコンがどうにも怪しい音を立てながら動いていたが、そのおかげで寒さはそれほど感じない。


「はいこれ。薄べったいけれども、無いよりはマシでしょ」


 そう言って女の子が部屋の片隅から持ってきてくれたのは、使い込まれた紺色の四角い座布団だった。軽く頭を下げて座布団を受け取り、正座した足の下へ敷いた。微妙に湿気を含んでいたせいか、ひんやりとした冷たさが少し身に染みたが、それでも冷たいフローリングの床の上へじかに座るよりは、はるかにましだった。


 やがて二人目の妻と三人目の妻が次々と姿を現し、私は都合三人の女性達に囲まれることとなった。


「はじめまして、笹原ささはら帆夏ほのかです……まずは貴方のお名前、伺ってもいいかしら?」


 おじさんの三人の妻達のうち、一番年長だと思しき女性が私の前にお茶の入った湯呑みを置きながら、柔らかい笑みを浮かべた。おじさんとは明らかに苗字が違う。


 帆夏さんは小柄な人で、私よりも少し背が低いように見える。長い黒髪をアップにまとめていて、化粧っ気はなく少しやつれてはいるが、控えめな感じのなかなか綺麗な人だった。


 他の二人の妻達――三十代前半ぐらいの女性と、先程の女の子が、それぞれこちらをじっと見つめていた。前者からは警戒の色が、後者からは好奇の色が、それぞれ感じられた。


「……高城たかじょう咲希さきです」


 場の雰囲気からして、名乗らざるを得なかった。一瞬偽名を使うことも考えたが、今更私が失うようなものなんて何も残ってはいない。


 私が名乗ったのを見て、他の二人の妻達もそれぞれ口を開いた。


平重ひらしげ美琴みことです」


「アタシは矢波やなみ莉奈りな、よろしくー」


 美琴さんと莉奈さん、か――全員おじさんとは苗字が違うんだな。これって一体どういうことなんだろう?


 美琴さんはバリバリのキャリアウーマンって感じで、肩の辺りまである黒髪がとても綺麗な人だった。目鼻立ちもすっきり整っていて、スタイルだって良い。ただ、こちらを見つめる目は何だか冷たい感じで、少しとっつきにくそうな感じがする。


 一方の莉奈さんは何だかとても軽いノリで、明るい茶色に染めたであろうショートボブの髪を軽く揺らしながら、今も明るく笑っている。莉奈さんも他の二人とはまた違ったタイプの美人で、スタイルも抜群と言って良い。美琴さんや莉奈さんを見ていると、自分の貧相な身体つきが、だんだん情けなく思えてきた。


 帆夏さんが、自分の右頬に軽く右手を当てながら言った。


「じゃあ、咲希さんって呼ばせてもらうわね……ところで咲希さん、お腹は空いてない?」


「えっと、それは」


 私が最後まで返事をする前に、私のお腹がぐう、と鳴った。


「あはは。帆夏さーん、咲希っちお腹空いてるってー」


「あらあら、だったら少し待っていてね。大したものは無いけれども、創太さんの分と合わせて晩ご飯の支度をするから」


 莉奈さんの言葉に、帆夏さんが明るく笑って立ち上がり、キッチンの方へと向かう。


 正直なところ、ここ三日ほどまともにご飯を食べていなかったので、何かを食べさせてもらえるというのであれば非常に有り難い。でも莉奈さん、咲希っちって何?


 その時、それまでじっと私の方を見つめ続けていた美琴さんが、小さなため息をついて席を立った。


「それじゃあ莉奈、悪いけれども後のこと、よろしく頼むわね」


「ちょっ、美琴さーん! いきなり咲希っちをほっぽって、一体どこ行くのさー?」


 若干抗議の色が入り混じったような声を上げた莉奈さんに向かって、軽く振り返った美琴さんは形の良い唇の端で、ほんの少しだけ笑った。


「部屋に戻って仕事の続き。今月、ちょっと締め切りが押していてね」


「ええーっ」


「ひとまず挨拶は済んだことだし、その子のこれからのことは、最終的にはそうさんとその子が話し合って決めることでしょ? だったら私がいてもいなくても一緒だわ」


 そう言い残した美琴さんは、さっさとリビングを出ていってしまった。これで私は、莉奈さんと二人でリビングに取り残されることとなった。


「あの」


「ん? 咲希っち、どったの?」


「……その、皆さんとおじ、じゃなかった、楠江さんとは、一体どういうご関係なんですか?」


 私の問いに、莉奈さんは一瞬目を丸くしたが、すぐに相好を崩して答えてくれた。


「まあ、アタシらにとっちゃ毎度のことなんだけれどもさ……ここは女の駆け込み寺みたいなところで、アタシらはみんな、創太の内縁の妻ってわけ」


「はあっ?」


「あ、でもイェンに限って言えば、この間正式に婚姻届を出していたっけなぁ。創太の奴、珍しくうんうん唸って悩んでいたけれど」


 あっけらかんとした調子で笑う莉奈さんの言葉に、私は頭が痛くなった。そして、イェンってのは一体誰なの?


「内縁の妻、って?」


「ああ……女がこの家に置いてもらうためのルールみたいなもんだよ。この家にいる間だけは、女はみんな、創太の妻になるの」

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