私のダンナはハーレムキング

和辻義一

第1話 ガールミーツおっさん

「やめとけ、お嬢ちゃん」


 不意に声を掛けられて、私はつい反射的に振り返ってしまった。その私のすぐ目の前を、東京方面行きの急行列車がごうごうと音を立てて通り過ぎていく。十二月の寒風が吹きすさぶ真っ暗な闇の中、明滅する赤い光とけたたましく鳴り響く踏切の警笛音と、列車が通過する際に巻き起こした強風になびく髪の毛が、私の横顔を叩き続けていた。


 私の背後には、ふちが丸くてやや大きめの眼鏡をかけていて、黒色の古い自転車――昔、高校の男の子達がママチャリと呼んでいたタイプのものだ――にまたがった、長髪で小柄で胴長短足な見知らぬおじさんの姿があった。


「おじさん、誰?」


 随分と間抜けな質問だと、自分でも思った。たった今、踏切の遮断機をくぐって列車の前に飛び出そうとしていた人間が、そんなことを気にしてどうしようというのか。


 おじさんは、ハンサムやダンディなどという言葉からは程遠い外見だった。やや脂ぎった、体格の割に大きくて丸い顔。ところどころに油汚れが付いた作業服の上下を着ていて、襟元にはおそらくクリーム色っぽいマフラーを巻いている。自転車のペダルにかけた足の足首辺りには、ちらりと毛糸のタイツのようなものが見えた。そして、自転車の前かごの中には、使い込まれてくたびれた白い帆布製のショルダーバッグが一つ。


 急行列車は通り過ぎてゆき、踏切の警笛も鳴り止んだ。ゆっくりと上がっていく遮断機の方を一度ちらりと見てから、おじさんが首を左右に振りながら、太い息を吐いた。


「飛び込み自殺なんざぁ、やめておけ。大勢の人間が迷惑をこうむるし、何よりも死に方が悲惨すぎる。それに、折角の美人がもったいない」


 私は反応に困り、黙り込む。おじさんが言葉を続けた。


「どうして、って顔をしとるな? ワシだってこんな歳まで生きてりゃ、それなりにいろんな奴の、いろんな顔を見てきたもんさ……お嬢ちゃんの今の顔は、の顔だよ」


 そう言って丸い鼻を鳴らしたおじさんを見ていると、何だか無性に腹が立ってきた。


「ちょっと……おじさん、一体どう責任を取ってくれるのさ?」


「あン?」


「おじさんが声を掛けてこなければ、私は」


 私は――きっと今頃、楽になれていたはずなのに。


 これから先のことなんて、私にとってはもうどうでも良いことだった。ただ、おじさんに対して腹を立てるだけの元気がまだ自分に残っていたことに、ほんの少しだけ驚いた。


 おじさんが、怪訝な顔でこっちを見た。


「責任? 何だおい、ワシが一体何をしたってんだ?」


「……そうだよね、おじさんには分からないよね」


「ああ、さっぱり分からんよ。お前さんが、折角の大事な命を無駄にしようとしていたってこと以外はな」


 そうこうしているうちに、おじさんの後ろから一台のクルマがやってきて、私達のすぐ横を通り過ぎていった。私もおじさんも、その邪魔にならないように道の脇へと移動する。さっきまで列車の前に飛び出して死のうとしていた人間が、今はクルマにひかれないようにと思ってしまっていることが、我ながら滑稽だった。


 通り過ぎる時に少し長めのクラクションを鳴らしていったクルマに小さく舌打ちしたおじさんが、再び私の方を見て言った。


「お前さん、何だって死のうだなんて思ったんだ?」


「そんなことを知って、どうするのさ?」


「どうする、か……それは、お前さんの話を聞いてから決める」


 私の話を聞いてから決めるって、訳が分からない。一体何様のつもりなのか。


 再び私が黙り込むと、おじさんは軽く肩をすくめてみせた。


「しっかしまあ、こんなところで立ち話って訳にもいかねぇわな」


 再び踏切の警笛が鳴り始め、明滅する赤い光の中、遮断機が下り始めた。今度は反対側の線路を、列車が通過するらしい。


 おじさんは道路の脇に自転車を停めると、ガニ股の短い足で、のしのしとこちらへと近寄ってきた。眼鏡のレンズに赤い光が反射して、その奥にあるはずの目は、こちらからは良く見えない。


「ちょっ……一体何する気?」


 軽く身構えて後ずさった私の左手首を、おじさんのごつい左手がぐいと掴んだ。その力は、思っていた以上に強かった。


「お前さん、さっきワシにどう責任を取るのかって聞いてきたよな?」


「それが、何?」


 私の背後を、さっきとは反対方向へと列車が通り過ぎていく。その光に照らし出されたおじさんが、しばらくの間私の顔をじっと見つめた後、お世辞にも綺麗とは言えない歯並びを見せて笑った。


「その責任ってのを、取ってやってもいいぞ……お前さん、死ぬぐらいならいっそのこと、ワシの妻になれ」

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