第15話 お世辞がうまいね

 アパートの一室で、不意に天香はるかが言った。


「キミは、過去に戻りたいって思ったことはある?」

「ありません」即答できる。「こうやって天香はるかさんと出会えた事実が消える可能性があるのなら、過去になんて戻りたくないです」

「真っ直ぐな男だね……」なぜか天香はるかさんが照れてから、「私はあるよ。死んで人生やり直したいって、思ったこともある」


 重い言葉だった。簡単に否定してはいけないような、そんな雰囲気だった。


「昔の私は、無敵だったねぇ……」


 その感覚はちょっとだけ分かる。


 要するにそれは、自分の世界が狭かった頃。自分の周りの世界が小さすぎて、自分が無敵だと勘違いしていた頃。


 その時代を無敵と呼ぶ。たしかにそうなのだろう。勘違いによって生まれた、自信満々に生きれる時期。


 天香はるかにも、そんな時代があったらしい。


「今の私は、このザマだけどね」天香はるかは自嘲気味に、「なんにもない。成長するにつれて、自分の足りないところばっかり目につくよ」

「なるほど……」そこまで自己分析ができているのなら、立派な成長だろうけど。「ダニングクルーガー効果ってご存知ですか?」

「知らない。なに?」

「要するに……専門的な知識がない人ほど、自分に自信があるってことです。正確には……その専門分野について、少し学び始めたときが、最も自信を持っています」


 学び始めは、成長も大きい。知らないことを一気に知って、自分は物事のすべてを知ったと勘違いしがちである。


「それから本格的に専門分野を学び始めて、少しずつ自分が知らないことのほうが多いのだと気づきます。それから自信がなくなっていって、最後には本当の専門的知識と実力、経験に基づいた自身がついてきます」

「それがダニングクルーガー効果?」

「はい」つまり、何が言いたいのかというと……「天香はるかさんは……成長してるってことです。自分の至らなさに気づいたってことです」

「なるほどねぇ……問題点に気づけるほどには成長したってことか……」


 そういうことになる。

 最初は視野が狭い。自分が失敗していることにすら、気が付かないのかもしれない。成功した場所しか見えないのかもしれない。


 だけれど、少しずつ気づいていく。自分の行為が失敗だらけだったということに。反省点が見えるようになっていく。


 そして反省点が見えるということは、改善することができる。

 自分が下手だと知ることが、上達への近道なのだ。どっかのバスケ部の監督も、似たようなことを言っていた。


「キミは物知りだねぇ……」

「そんなことないですよ。知らないことのほうが、圧倒的に多いです」少なくとも、まだ自分の知識について自信が持てていない。「とりあえず……天香はるかさんが成長してないってことはないんです。むしろ今も自信満々であるほうが問題なのであって……」


 それはそれで幸せなのかもしれないけれど。死ぬまで自分のミスに気が付かないで、自分は無敵だと思いこんで死んでいく……

 それも1つの幸せなのだろう。ずーっと無敵のままでも、生きていける。気にするようなことじゃない。


「成長か……」天香はるかは窓の外を見て、「亀の歩みでも、成長してるのかな……だったら、良いんだけど」


 ……成長しようとしていることが良いことなのだ。

 大抵の人は、成長なんて諦めてしまう。今すぐ手が届く範囲だけで生活できれば、それで満足してしまう。


 でも天香はるかはそうじゃない。しっかりと、成長しようとしている。


「やっぱり天香はるかさんは……カッコいいお姉さんですよ」

「お世辞がうまいね」

「お世辞じゃないですけど」


 本心からの言葉だ。


 これからも、僕はしっかり成長しないといけない。そう強く思った。

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