第8話 柔らかいほっぺた
向こうが透けて見えるほど薄い、黒いレースのカーテン越しに、とても小柄な少女が座っている。
(また、この夢だ……)
もう二度と見たくないのに、数えていられないほど、何度も何度も。
少年は黒いカーテンを引っ張って破き、少女が驚いて目を見開くのを、黙って見下ろしていた。
薄暗くて、狭い部屋だった。天井から吊るされたランプの灯りで、少女の怯えた顔がよく見える。ランプの赤いシェードのせいか、それとも、この少女の髪の色なのか、鮮やかなオレンジ色に見えた。ボロボロの汚い袋みたいなものを着せられていて、土で汚れた裸足が、みすぼらしさに拍車をかけていた。
(俺は……俺は……!)
少年の片手には、鮮血にぬめるナイフが握られていた。怯える少女に、一歩、また一歩と近づいていく。
(やめろ! やめてくれ! 俺は薬を打たれておかしくなってたんだ! 殺そうと思って殺したんじゃない!!)
握り締めたナイフの柄、そして、振り上げた利き腕。
少女がギュッと目を閉じて縮こまる。頭を両手で覆ってうずくまる。
鈍く光るナイフの切っ先が、色白で柔らかそうなほっぺたに――
絶叫を上げながら飛び起きた。
一瞬ここがどこだかわからなくて、ギルドの二階の宿の部屋だと思い出すまで、狂ったように辺りを見回していた。
(あぁ、なんだ、あの部屋か……びっくりした)
またどこか知らない場所に、連れ込まれたかと思った。胸に手を当ててほっとする。びっくりするほど、心臓がバクバクと脈打っていた。
念のため、体に何もされていないかチェックする。あの冒険者のおじさんは本当に親切な人だった。少年は蒸したタオルで、背中を拭いてもらったのを思い出した。申し訳ないから、その後は自分で体を拭いた。吐瀉物で汚れた衣類を、水を張った桶で洗ってくれて、その間おじさんは着替えも貸してくれた。
なんで、そこまで親切にしてくれるのか、少年がおっかなびっくり尋ねると、五歳になる息子がいるんだと、その冒険者は笑って言った。
「親になるとなぁ、嫌でもわかっちまうんだよ。子供の吐瀉物と糞尿の処理は、待ってても誰もやってくれないってな」
五歳児と重ねられたのかと思うと複雑だったが、人の温かさとは無縁の地獄を見てきた少年の目に、涙を浮かばせるには充分だった。
「ありがとう、おっちゃん……お礼になるかわかんないけど、お金少し渡すよ」
「あー、んなのいらねーよ。俺が勝手にやってんだから」
大きな片手をぶんぶん振って、気さくに白い歯を見せて笑うおじさん。いまだ本調子ではない少年を気遣って、用事は済んだからと早々に部屋を出て行った。
部屋で一人になった少年は、いろんなことがありすぎて、気づいたら寝台に横になって天井を見上げていた。
(……俺は、こんなに親切にしてもらえるような人間じゃないんだ……)
なんの恨みも無い、初対面の、小さな女の子を殺した。その時の記憶が、すっぽりと抜け落ちていて、本当に自分が手に掛けたのか思い出したくても、思い出せない。発見された当時の自分は、返り血まみれだったらしいから、たぶん、あの少女のことを……。
拉致され、薬を致死量ぎりぎりまで盛られて、軟禁されていた。あんな目に遭う以前の自分は、いつも自信と誇りに満ちていて、どんな無茶でも頑張ったらできるんだと、強く自負していた。あの頃の自分には、もう、戻れないのだろうか……強い不安が、少年の小さな胸を押しつぶしていた。
「メンタルザコザコお兄さ〜ん♡ おはよ〜ん! 昨夜はお楽しみだった?」
この声は。部屋の扉の向こうに、昨夜の少女がいる。少年はズボンに挟んでいたナイフを素早く手に取り、構えながら部屋の扉を開いた。
「お前! 次そんな冗談言ったらぶっとばすからな! あのおじさんはいい人だったよ、残念だったな!」
「挨拶されたら、挨拶を返すのが礼儀なんだよ? 知らないの〜? おはよー、お兄さん♡」
ウインク付きの投げキッス。
女性的な色気の無い、寸胴な幼児体型にそんな事されても、ぜんぜん嬉しくない少年は、改めて少女の容姿をまじまじと観察した。昨日とはまた違うしっぽの巻き方をしており、それだけで見慣れない服に見えるのだから、不思議に思った。
「なあ、モンスター」
「は……? もしかして、アタシのこと? は〜い、今のデリカシー皆無な発言で、お兄さんが一生童貞の非モテ男子であることが判明しましたー」
「なんだよ、それ。しょうがないだろ、お前が何のモンスターなのか、わかんないんだから」
「モンスターじゃなくて、ジャネット! お兄さんのだ〜いじなご主人様の名前だよ♡ 忘れちゃヤなんだからね!」
「え? ……ああ!! そうだった!! お前っ俺の体に何かしただろ!?」
少年はだぶだぶのシャツをまくって、腹部を見せた。青い色の変な模様の刺青が入っている。
「コレ、なんだよ! タオルでこすっても取れないし、昨日のおっちゃんに見せても何もないって言うし、もしかしてコレ俺にしか見えないのか!? なんの呪いだよ!」
「あちゃ〜、それが何なのかお兄さんの頭じゃピンとこなかったかー」
少女ジャネットは片手で口を覆ってキシシと笑った。やたら長い犬歯が、ぴんくの唇の端から覗く。
「アタシは夢魔なの♡ サキュバスとか、他にもいろんな名前で呼ばれてる悪魔よ。夢の中で大無双して、人間を屈服させちゃう、怖ーい悪魔なんだから♡」
「夢……?」
少年はさっき見た夢の内容を思い出した。
「お前、俺の夢の中でも何かできるのか?」
「もっちろん♡ いろんなことできちゃうんだよ♡」
「お前があの子に似てるのは、俺の夢の中を覗いたからか?」
「へえ? あの子って?」
「とぼけるなよ! 俺を苦しめるために、わざとあの子そっくりに化けてるんだろ!? 自分で言うだけあって、ほんっと最悪な悪魔だな!」
唐突にキレられて、夢魔ジャネットはきょとーんとしていた。そのオレンジ色の瞳が、何かを思案するように宙をさまよう。
「……まあ、プロのアタシにかかれば、誰かさんそっくりに化けることも余裕だよ。でも今は現実世界でいーっぱいお兄さんと繋がれちゃうから♡ しばらく夢には興味ないかも~」
少年は何を言われたのか、さっぱりだった。
「俺と、繋がれる……?」
「そうだよ~♡ もう忘れちゃったの〜? 愉快な脳みそ~。それじゃ、思い出させてあげよっかな~」
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