第4話   逃避行の始まり

 何も怖い音が聞こえないように、長い耳を小さな両手で一所懸命に塞ぎながら、心の中で十まで数えた。毛布に隠れてうずくまっていたルルーナは、おそるおそる顔を上げて、耳から手も外してみる。


「……お兄さん?」


 十まで数えたら公園に散歩へ行こう、そう言っていた青年の気配は、この住まいから少し離れたところから、血生臭さと共に漂ってきた。


「!?」


 ルルーナは毛布を跳ね除け、寝台を大ジャンプして窓の外へと飛び立った。巨大な蝙蝠のような翼と、怖くて閉ざしていた五感を駆使して、今にも大剣を押し返されそうな青年のもとへ急降下した。


「お兄さんにひどいことしないで!」


 小さな白い手が青年を庇うように伸びてきた。


 鉄のくわを持った町民が、少女の細い腕ごと殴打しようと勢いつけて降り下ろす。その寸前で気づいた少女は、伸ばした腕をとっさに町民へ向けた。


「バーニング・ペイン!」


 ほんのちょっと指先から小さな花火が飛んで行く、その程度の目くらましが、いつもの彼女の魔法の威力……だったのだが、手のひらからたくさんの火球が朝の日差しを絡め取って、たぎるようなオレンジ色の輝きをまといながら、敵対する全ての人間に向かって飛んでいった。


 火傷を負う者、服が焦げて穴が空く者、阿鼻叫喚の光景が広がる。


 少女はびっくりして、己の手のひらを凝視する。いつもの自分の、手のひらだった。


(どうしちゃったんだろ、私。今日はなんだか、何でもできる気がする。でも、手かげんもできない気がする……)


 もっともっと魔法を撃ちたい、この場を火の海にしてやりたいという激しい欲望が、腹部の底から熱となってせり上がってくる。この感覚の正体を、彼女はまだ知らなかった。


 衝動のままに動いてよいのやら、それすらも戸惑う。


 ふと、足元でうずくまっている血まみれの青年を見て、あらゆる疑問が吹き飛んだ。


「お兄さん!?」


 大慌てで真横に着地し、どこを怪我しているのか探すと、利き腕が大きく切り裂かれていた。真っ赤な鮮血が、彼の僧衣を染めていく。


 かなり痛そうだった。青年は泣いているかもしれない……心配した少女が顔を覗き込んでみると、青年はびっくりした顔で地面を凝視していた。


「なんで……体が重くて、うまく動かせない……」


 焦燥と恐怖で、顔中に玉のような汗が浮いている。


 きっと痛くて動けないんだ、と少女は解釈した。


「お兄さん、腕を見せて。今の私なら、たぶん全部治せると思う。簡単な治療の魔法なら、授業で習ったから、まかせて!」


 学校でルルーナが習った魔法は、基礎中の基礎であり、やらないよりマシレベルの小規模な効果しか出ない。だけど、今は、骨折すらも治せる気がした。


「……」


 青年は浅く苦しそうな呼吸を繰り返すだけで、まだ動けない。少女が腕に触れると、痛かったのか少し強張った。


「あ、ごめんね! 気をつけるからね」


 少女が再び青年の傷口に手を伸ばすと、少女の腰に重傷の腕がぐるりと巻きついた。


「え?」


「かっこ悪いとこ見せちゃったな……少し休んだら、動けるようになったよ」


 青年が大きな剣を杖がわりに立ち上がった。その足取りはおぼつかず、よろけながら火の海から距離をとり、脱兎の勢いで走りだした。



 少女を利き腕に抱えたまま、現場から充分過ぎるほど距離を取って、ようやく物陰に座り込んだ。いつまで経っても住み慣れない小さな田舎町が、足元に見える。


「お兄さん、すごい勢いで坂を上ってったね。腕、だいじょうぶなの? 私が治してあげるね」


 座り込んでもなお抱き締めている青年を説得して、ようやく地面に降ろしてもらった。


 鮮血に汚れた袖の色が、少女の着衣にも移ってしまっている。大きな腕が震えているのは、きっと痛いからだと、少女はその腕にそっと両手を重ねた。


「ヒール・オブ・ヒール!」


 ほんの些細な切り傷しか治すことができないはずの小さな手は、裂けた腕の皮の奥の、真皮や筋肉の繊維、折れた手の甲の細かな骨まで、ぬるぬると生暖かい鮮血に滑りながら、再生を促していった。


 とうに過ぎ去った時間のような古傷だけが、青年の腕と手の甲に、わずかに残った。


 少女はどっと疲れて、ぺったりと座り込む。


「ハァ、ハァ……上手くできたか、わかんないけど、血は止まったね。お兄さん、もう痛くない?」


「……うん。ごめん……」


 顔が見えないほど暗くうなだれて、謝られた。「十数えたら公園に行こうね」とか言ってたのに、ぼろぼろになってるから、少女は手の甲の古傷を、励ましをこめてなでなで。これでほんの少しでも元気になってくれたら嬉しかった。


「お兄さん、もうちょっとだけ休もうか、ね」


「……初めて負けたんだ、ケンカに」


「そうなの? いつも勝ってるの?」


「うん……だから、教会の用心棒も兼ねて、あそこに住まわされてた」


 侵入者どころか、誰も会いに来ない、町外れの寂しい立地だった。老朽化が進み、階段が使えず二階に何があるのか青年も把握していない。


 どう管理すれば良いやら、とりあえず住んでいた。


「あんな奴らに押し負けるだなんて……」


 ようやく青年が、顔を上げて少女を見た。


「僕は君が望むなら、いくらでもお腹を満たしてあげたいよ。だけど、それは難しいみたいだ」


「そうなの?」


「キスしなきゃよかったかも」


「……え、じゃあ、なんでしたの? 私、とってもびっくりしたんだよ?」


「元気出るかなって、思って」


 なんの話をしているのか、少女は集中力が尽きてきて、わかんなくなってきた。特に意味もなく青年のたくましい腕をつっつく。


「私のためにやったことなの?」


「うん……でも、これからは、気持ちいい事は控えないとね」


 キスしたらケンカに負けてケガしたなんて、ただの言い訳じゃないのかと少女は思ったが、かわいそうなので追い詰めないであげた。


「僕は自分が殺されるよりも、君が悪い人間に捕まってひどいことされると思ったら、全身から汗が噴き出るほど怖くなったんだ」


「私、捕まるとこだったの?」


 青年が悲痛な面持ちでうなずいた。


「誰かが君の肌に触れるなんて、僕には耐えられない……。ねえルルーナ、どんな時でも僕のそばから離れちゃダメだよ、危ないから」


「お兄さんのがぼろぼろになってるくせに」


 この人間にはその自覚がないのだろうか、まっすぐに見つめる眼差しは、とても心配そうで、悲痛に満ちていた。


 去って欲しくないのは、きっとこの青年のほうなんだと、ルルーナは察した。こういうとき、どのように振る舞えば男性が悦ぶのかを察知できるのが魔性サキュバスという種族である。


 膝立ちして、そっと両手を伸ばして青年を抱きしめた。


「よしよし、がんばったんだね、えらいえらい」


「うん……」


「いっしょにいようね〜」


「……うん」


 ガバリと抱きしめられた。びっくりした少女は目を丸くして青年の耳を凝視していたが、やがて落ち着かせてあげるために、よしよしと撫で続けた。


(このお兄さん、こんなに弱っちくて今までどうやって暮らしてきたんだろ)


 こんなに筋肉ムキムキなのに、農具を持った人間たちに集団でいじめられたりと、とことん変なお兄さんに映ったのだった。


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