第2話   秘密

 初めて人前で、泣きじゃくった。初めて人に抱きついて、すがって、心の底から甘えた。


(かっこ悪いところを見せてしまったな。彼女に幻滅されて、僕のそばから去っていってしまったら、僕は……僕はきっと七日と保たず狂って、柱にぶら下がっていることだろう。自分のことだから、よくわかるんだ。もう彼女無しには、この心臓を動かす意味を見出せない)


 今回でかっこ悪いところを見せるのは最後にしよう、そう心に固く固く決意して、ずっと抱きしめて撫でさすっていた少女の体を、そっと離した。


 ナゾの抱擁から解放された少女は、青年の下半身に座り込んだまま呆然としていた。


(お兄さんが泣きやんだ。笑ってる……)


 シャツの下はムッキムキで強そうなのに、恥ずかしそうに「ごめん」と笑う青年に、少女は無言で首を横に振った。肌のぬくもりが感じられる抱擁は、嫌いではないから。


「お兄さん、どうして泣いてたの?」


 眉毛を寄せて、大きな瞳いっぱいに青年の顔を映す。青年は言い訳を探して視線を泳がせ、ふと、少女の白い四肢に点々と赤く目立つ湿疹に気づいて、眼球が出んばかりに目をかっ開いた。


「あああー! 汗疹あせもー!」


「あせも?」


 はたして人ではない夢魔に、人間と同じ症状が出るのだろうか。長くこの仕事で生きている青年にも、わからないことは多かった。


 少女のひたいにも、汗で前髪がくっついていて、このままでは腫れ物ができてしまうと懸念した青年に、迷いはなかった。


 悪魔を狩るためだけに使いなさいと、周りからキツく言い含められていた力を、彼女のためにも使うべきだと。


「お風呂に入ろ!」


「ええ? いま?」


「昨日、井戸から汲んできた水が、まだ残ってるんだ。綺麗なお水だけど、ただの生活用水だから、聖水ではないよ」


 まるで小動物の子供を逃がさないように両手で抱き上げながら、足早に水場へと向かった。


 なぜ急に泣いたり、自分をお風呂に入れたがるのか、少女はその疑問を解消したかったはずなのに、聖水ではないという最重要案件を示されて、なら良いかと流されていた。思えばここまで小川などで水浴びする程度であった。温かいお湯がもらえるならと、運ばれるままに浴室へ。


(学校いがいのお風呂に行くの、初めてだな)


 教会の古ぼけた浴室には、誰もいなかった。ひび割れたタイルも、狭いバスタブも、寸分の埃なくきっちり掃除されている。


 少女は一人でお風呂に入るつもりだったから、いったいいつ床に下ろしてくれるのかと、辺りを見回していた。


「すぐ沸かすよ」


 水の入った桶を片手で持ち上げて、洗面台の深めのシンクに勢いよく注ぎ、不思議なことにそれはすでに湯気をくゆらせていた。白いシンクの中に下ろされた少女は、腕まくりした青年の腕が、古傷だらけのムキムキでびっくりしている隙に、胸の花びらを剥がされ、両足からスカートを引っ張り下ろされ、


「ええ!?」


 あれよと言う間に、良い匂いのする石鹸の泡に包まれ、丁寧に丁寧に、羽の付け根から尻尾の先まで、指の腹で撫で洗われてゆく。


(な、な、なにっ、なんでっ? なんでお兄さんがこんなことまでしてるの!?)


 パニックで固まっていた。ここまでされる意味が、理解が、追いつかない。


 目の前には、青年の大真面目な顔。その視線は洗い残しを探して彷徨っていた。


 なぜこんなに丁寧に扱われているのか、わからなかったけれど、どこも強く擦られたり掴まれたりせず、始終優しく肌をすべる指先に、少女は眉をひそめつつも、身を任せてみることにした。



 温かいお湯に、ステキな香りの泡、頭髪もぬるぬると洗われて、少女はすっかりとろけていた。


「泡流すよー」


 洗面所の栓が抜かれて、上から綺麗なお湯が滝のようにかかった。こんなに大量のお湯が、いつの間に沸いていたのだろうか、辺りを見たくても濡れた前髪で視界が悪い。片手で髪を掻き上げながら、ふと、腹部にくっきり浮かぶ紫色の紋様に気がついて、目が点になった。


「コレなぁに!?」


 不安になって、見上げた先にいた青年の、割れた腹筋のその下にも青い紋様があって、少女はさらに目を丸くした。


「お兄さんにもあるよ! 私、昨日はこんなのなかったの。お兄さんはずっとあったの?」


「僕も昨日までは無かったよ。不思議だね〜。でもお揃いみたいで、嬉しいよ」


 朗らかに微笑んでいる青年に、共感してもらえない少女は少し不機嫌になる。


「おそろいなの〜? でも形、あんまり似てなく見えるもん」


「確かに、違う形をしてるね」


 お揃いだって言ったり、違うって言ったり。


(へんなお兄さん!)


 少女はお腹をごしごし手でこするが、ちっとも薄くならなかった。


「コレ、このまんまでも大丈夫かな。先生に怒られちゃうかな」


 ふわふわしたタオルケットは無いかと戸棚を開けまくっていた青年が、手を止めた。


「それがあるとね、君はお腹がすかなくなるんだよ」


「え? そうなの?」


「すいてないだろ?」


 聞かれて、少女はびっくりしてお腹を押さえた。真夜中まで彷徨っていた理由を、たった今まで、ド忘れしていた。


「お兄さんもすかないの?」


「僕はー、朝ごはん食べないとかな」


 卵を焼いたような温かい黄色のタオルケットが降ってきた。少女はタオルで顔をごしごし拭きながら「へえ、そうなんだ……」と曖昧な返事。


「そんな拭き方したら怪我するよ!」


 血相変えた青年にタオルを奪われて、けっきょく足の指の間まで丁寧にポンポン拭きされた。


(このお兄さん、私のこと産まれたての赤ちゃんだと思ってるのかな……)


 乾いたタオルにくるまれて、両手で大事に運ばれた先は、再び寝室の寝台の上。まるで他の部屋を見せないかのように、足早に廊下を歩いて行った気がした。じわじわと違和感を抱き始める少女の視界を、青年が右往左往、またガサガサと何かを探している。


「手に塗るクリームでいいかな。肌の手入れの仕方、急いで勉強しないと」


「はだ?」


 聞き返されて、青年が手を止めて振り向いた。彫像のような整った顔に、無造作に髪がかかる。


「そうだよ、君の肌はすごく綺麗だから、大事にしないと。触り心地も本当に最高だし、いっぱいうもれさせてくれね」


「う、うもれ……? どういう意味? 痛いことなの?」


 ドン引きしているタオル団子。床板を軋ませて青年が近づいてきて、お手本とばかりに再び両腕に捕まえた。


「ああ〜、子供体温と柔らかい手触り、癒されるな〜」


「……いま、うもれてるの?」


「うん、埋もれてる」


 幸せそうな声色だった。腹部への頬擦りで当たる髪がくすぐったくて、少女は笑い声を上げて身じろいだ。


「へんなお兄さん!」


 くすぐりを止めたくて、少女も両手で青年の頭部を捕まえた。おへその穴に鼻先が入って、よけいにくすぐったくなった。


 けらけら笑っていると、風邪を引くからとタオルでくるみ直されて、缶に入ったハンドクリームを手の平で温めてから顔と手足に塗られ、少女が自分でやりたいと言って自主的に塗り始め、その横で青年が紙の箱に入った赤ちゃん用のボディパウダーを持ってきた。


 近所の赤ちゃん用のが余ったから、押し付けられた品だった。新品ではないし、使用期限もわからなくて、誰かの肌に塗っても大丈夫なのか、詳しくない青年にはもっと判断できない。それでも、洗いっぱなしでは肌がつっぱったり、クリームを塗るとべたべたするのは、なんとなくわかるから、少女の肌にも何かしてあげねばと焦るのだった。


 パウダーの適当が二人ともわからず、適当に手に取って背中を撫でさする青年に、少女がまたもや、けらけら。座っていられずに、ひっくり返ってしまった。


「キャハハハハハ!」


「じっとしてね、手足ばたばたされると塗りにくいよ」


「だ、だって、アハハハハ!」


 こんなに笑ったのは、少女も初めてだった。そもそも全身をくすぐられるという経験自体が、初めてだった。羽の付け根や尻尾の付け根まで、粉で白くなってゆく、


(ああ、なんか、す~っごくしあわせだなぁ~)


 粉の優しい匂いに包まれながら、少女がとろけていると、青年から仰向けになるように言われた。さらなるくすぐったい気配を感じた少女が躊躇すると、脇を抱えられて仰向けにされた。


 青年も手の平いっぱいにすべすべした肌を堪能しながら塗り広げてゆく。今まで触れてきたどんな肌よりも、気持ちよかった。自分だけが良い思いをするだけでは足りず、少女の貌をじっと観察しながら、反応を見せる箇所を、覚えてゆく。


 少女の下腹部が、じんわりと熱を帯び始めた。


「ひっ!」


 少女の躰が跳ね、青年の手首を掴んだ。小さな指先に生える鋭い爪が、青年の肌に食い込む。


「どうしたの!? どこか痛くしたかい!?」


「ううん、ちがう……でも、なんか、お腹の奥が……」


 二人して、お腹を凝視する。紫色の紋様が、明滅しながら伸縮していた。少女は紋様の感覚が契約者と呼応しているなど、想像もしていない。


 青年は触診するように、指でお腹の模様を下までなぞっていき……隙を突いて横っ腹をくすぐってみた。


 静かだった教会に、少女の笑い声が賑やかに響く。牙を見せて笑う屈託のない様子に、青年も釣られて、初めて笑い声を立てた。


 毒々しい紫色が激しい伸縮を繰り返し、勢いよく青色に染まって、黒い紋様に変わった。青白かった肌にほんのりと赤味が差してきて、健康的で艶のある皮膚になった。心なしか少女の瞳に、くっきりとした光が宿っている。


 主人である少女に、満月のごとく魔力が満ち溢れているのを、紋様で繋がっている青年も感じた。


(……くすぐられると、反応するんだ)


 よしよし、と少女の頭を撫でた。これで少女が食欲を失くしても、誰とも会いたくない気分になっても、くすぐってあげれば飢えさせることなく、生きていてもらえる。


 少女は目を見開いて、震えていた。腹部の紋様の色変わりを、穴が開くほど見つめている。


「お兄さん、お腹の色が」


「うん、色が変わったね。気分は大丈夫?」


「私、私っ……たくさん笑って、なんか幸せ〜ってなったら、ものすっごく元気になったよ! まだお兄さんの、搾取してないのに。今ならいっぱい火の玉が撃てるかも!」


 少女は起き上がって、青年の腹部に手を伸ばした。


「お兄さんもこちょこちょしてあげる~」


「ふふ、ありがとう」


 しかし、青年の紋様にそれ以上の反応はなかった。


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