第一章

第1話   初搾取

 目が覚めると、胸の上で小さな女の子が寝息を立てていた。あれは夢ではなかったのかと、青年は裸の背中を手のひらいっぱい広げて撫で撫でした。


 白い背中の半ばから、蝙蝠の翼を何十倍も大きくしたような、少々不気味な翼が生えている。翼の表面は水を弾くためだろうか、柔らかな黒い毛がびっしりと生えていて、触り心地が良かった。


 しばらく触っていると、眠っている少女が気持ちよさそうに微笑んだ。柔らかい前髪のふわふわした感触が、まるで昔世話していた仔犬みたいで。


「……ふふ」


 久方ぶりに、心の底から癒された。時間きっかりに動いていた日常から、初めて自分を切り離したいと思った。生まれて初めて、二度寝というものがしてみたいと、神に祈った。


 しかし、それは許されぬ身。この瞬間から、青年の苦悩が始まった。


 このまま今の聖職に就き続け、生涯清らかな身を保ち、その純潔をも神に捧げる生き方を、貫き通してよいのだろうかと……。


「……はーい、僕は起きるよ。君も起きようか」


 ふにゃりと柔らかい両脇に手を差し入れて、ゆっくりと胸の上から抱え上げた。露わになった真っ白なお腹の、小さなおへその穴の周りに、ピンクの曲線で不思議な紋様が左右対称に描かれていた。


 まるで少女の白い腹を、手紙代わりにして万年筆が踊るような、そんな曲線であった。


 紋様は少女の脈拍と連動して明滅を繰り返し、その存在を主張していた。小さな腹の奥に秘められた子宮と卵巣の形を、なぞるように表現している。


 昨夜に少女を抱え上げた際には、腹にこのような模様は見受けられなかった。一緒に眠っている間に、ひっそりと性を自覚して主張する、小さくておしゃまな夢魔に、青年は思わず胸がくすぐったくなった。


「そっか……。僕を、好きになっちゃったんだね。こんなに小さな体なのに、僕から搾取しに来たんだ」


 返事の代わりに、むにゅむにゅと寝言。昔飼っていた仔猫が、こっそりお腹に乗って一晩中お腹を温めてくれた朝を思い出す。


「おーい起きてー、朝だよ」


 両脇を支えている指を、軽く動かしてくすぐると、


「んっ、やぁ!」


 少女の体がビクンッと跳ね、腹部のピンクが真っ赤に染まった。明滅の間隔が早まり、子宮の模様が激しく伸縮し始める。


 すっかり油断していた青年に、突如己だけがよく知るあの感覚が走り、仰天した青年はとっさに身を縮めた。少女だけは落とすまいと、一人で耐える。


 ……どこも汚すことなく、快楽の波だけが過ぎていった。


 こんなことは、初めてだった。必ずどこかしら汚してきたから。


 混乱しながらも、何が起きたのかと頭を巡らす。


「ちょっとごめんね」


 少女の体を、ベッドの脇にそっと横たわらせて、青年は無造作に着込んでいたシャツを下から大きくめくり上げた。


 青い曲線で、精巣と生殖器をゆるやかなタッチで模した紋様が、青年の下腹部に刻まれていた。生殖器部が不安定に伸縮し、たった今起きた感覚を、視覚化していた。


 傍らで熟睡している少女が、頬を上気させながら身じろぐ。シーツを掴みながら、つま先まで痙攣させ、寝台が小さく鳴った。


 真っ赤に染まっていた紋様が、下方からじんわりと上がってきた青に染められて、子宮周りが毒々しい紫の紋様に変化した。


 それが意味している事に、青年は気づいてしまった。


 ――紋様同士で、いつでも交われる。


「 」


 青年は目を見開いて、声にならない声で歓喜した。


「な、撫で撫でして癒してもらえるだけじゃなくて、ちゃんと、夢魔の君にもお返しができるだなんて……」


 少女の都合で一方的に搾取される、悪魔の呪い。夢魔に魅入られた者は、抗いの意思を見せなければ一方的に主従契約を結ばされ、主人の空腹を満たす糧として飼われ続ける。糧に選ばれた人間は、夢魔の気まぐれで体を弄ばれたりと散々な目に遭い、あげく、性の全てを搾取される影響で子供が作れない。


 未来ある若者にとって、自死を選んでもおかしくないほどの絶望的な呪いであった。


 青年は以前までは皆無だった信仰心を胸に熱く灯らせ、枕の下に長らく忘れていた金属片を手に取った。司祭の証である、剣を模した特別な形状の銀細工のペンダントだった。


 それを両手に胸の前に掲げ、閉じたまぶたを震わせて朝の空を見上げた。


「ああ神よ、感謝します。どうか、この僕に末永く彼女と添い遂げるための、安寧の日々をお与えください」


 物心つく頃から、孤独と苦悩にまみれていた。親友、恋人、そして永遠に続いてゆく夫婦関係、どれも自分には手に入らないものだと、あきらめていた。そんな青年の前に、理想の肌の女の子が現れて、彼女から求められて、そして素晴らしい感覚を共有しあって結ばれた。


 暗かった人生に、四方八方から希望の光が差し込んできて、もはやどこにも陰りを感じない。


 癒しを与えてくれる少女に、奉仕ができる自分。新しい人生の幕開けを祝うように、窓からの日差しが優しかった。


「こんなに素敵な贈り物、初めてだ。僕の全部を、必要としてくれる」


 ダメ元で寝台そばにミルク瓶を置いていて、本当によかったと、過去の自分すら抱きしめたくなった。生まれて初めて、自分のことが好きになれた。


 たくさんの幸せを小さな体いっぱいに抱えて運んできてくれた、この愛らしい少女を、たまらず両腕に抱えていた。


「……ほへ?」


 目が覚めると、ぎゅうっと抱きしめられていた。奇妙な状況に、ピンクみの強い赤い目を、ぱちくり。


「僕のもとに来てくれて、ありがとう。一生大事にする!」


 プロポーズされた。


「へ……? え? な、なに? なんで?」


 寝ている間に、いったい何が青年に起きたのか。肩を振るわせ、鼻を啜り、落とした涙が少女の肩を生ぬるく濡らしてゆく。青年の髪にうなじをくすぐられ、なんだか泣き虫の小さい子を相手してるみたいで、少女はおそるおそる青年の顔に手を伸ばすと、その後頭部に指をうずめた。


「お兄さん、どうしたの? 泣かないで、ね?」


 なんとかなだめようと、撫でてあげた。


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