天に潜む、或は下がる者の事

【壱】

 蒸暑い日が続く。東京も熱気が遅れてきたとはいえ7月後半に入ると夏を感じさせられる。

 最近こちらに引っ越してきたので、帰り道がまだ覚束ないが大学を出てから初めての一人暮らし、実家ではやることのなかった自炊などを頑張ろうと会社帰りにスーパーで食材を買い込んできた。


 おかげでいつもより帰る時間が遅くなり、夜10時を越えようとしている。今から家に帰り飯を作って風呂を沸かすとなると気分が滅入るが、明日は休日、引越しの片付けをしながらゆっくりすごそうと浮き足立つように家路を急いだ。


 新居は3階建てのアパート。1DKで少々壁が薄いのが難点だが、初めて持てた自分の城に大きな不満はない。

 触りなれていない真新しい鍵を取り出し、やっとの思いでたどり着いた我が家のドアに差し込む。とりあえず早くスーツを脱ぎたい。いや、それよりも買ってきた物を冷蔵庫に詰め込むのが先かな?などと考えながらドアを開く。


 すぐさま部屋に入り靴を片方脱ぎつつ、ドアの鍵を閉めようと、足元に落としていた視界を上げたときに気づいた。ドアを開け部屋に入ったときには全く気づかなかった。今ソレを目にしている自分も、実際に見えていなければ気づかないくらい物体としての存在感は希薄だった。

 見てしまえば目を背けることもできなくなった、その視線の先。今朝急いで家を出たときに開け放ったままになっているリビングのドア。その向こうに背を向けた女が天井に立っていて――




「――ってことがあって困っています!夏目隊長どうかしてください!お願いします!』っていうお便りがウチの雑誌に届いたんですよ!」


 7月最終週、8月を目前に控え寝坊した夏が急いでやってきたかのような気温の上昇により、エアコンすらない我が神代探偵事務所は特設サウナ体験会場に早変わりしていた。

 そこへ、インターホンもノックもせずに我が物顔であがりこんでくる女子が二人。しかも各々勝手にお茶の準備を始めたり、持ってきた葉書を暑さにやられてショートしている俺に押し付けてきたりしている。

 いうまでもなく、お茶を準備しているのはこの事務所に長いこと居座っているにもかかわらず、馴染まないエレガントさを(見た目だけならば)かもし出している自称美少女中学生、コレットだ。

 そしてもう一人、そのコレットと友人のように入ってきて、葉書を押し付けてきたと思ったら俺のデスク(物置)の前で瞳を輝かせてこちらの反応を待っているオカルト大好き女子高生、「白百合しらゆり ひびき」その人だ。

 響は都立第七商業高等学校に通っている3年生だ。マイナーオカルト雑誌「フェノメノン」を出版している学習究明社へ就職が決まっている謎の学生で、現在は同社でバイトという名の下積みをしているらしい。


「ねっねっねっ、すごいでしょう?東京のど真ん中で、こんな不思議体験がまだ存在しているなんて!トキメクでしょ!」


 俺はワイシャツすら横に放り投げた、上半身タンクトップ1枚の格好で姿勢を正す。響に押し付けられた葉書に目を通し、そのまま机に投げた。


「どうせ今回も投稿者プレゼント目当ての妄言だろ?わざわざそんなのに構ってられるかよ」


「いえいえ、それがですね、この投稿者のパエリア51さんは今回が初投稿なんですけど、地名から時間まで細かく内容に書いてるんですよ。それでですね、このハガキを見た夏目編集長も『もうこうなったら行って取材するしかないじゃん。ちょうどいいからお前ら行って来い』ってな感じで私と先輩の岡田さんにその大任を託されたんですよ!」


 なんだ?雑誌編集者は勢いで生きてるのか?それとも過激なワークスタイルで前後不覚になっている可能性もある。しかも外取材に入社もしていない高校生バイトを向かわせるのは正気の沙汰ではない。まあ一人ではないしこれも下積みなんだろうか、リスク管理はどうなっているんだ?


「それでですね、今日が取材当日なんですけども、しかもそれがあと3時間後でですね、その先輩の岡田さんがですね、なんとインフルエンザで休むと30分前に連絡が入りました。バイトのわたしを置いて、彼は帰らぬ人となったのです……。ですので享一郎さん、是非ともその慧眼と辣腕らつわんをこのか弱き少女めにお貸し下さい!」


 まくしたてるように響が言葉をつづけながら、勢いよく頭を下げてきた。

 その熱意は買ってやりたいが、そんなクソくらえな案件についての俺の返事は決まっていた。


「こ と わ る」


「な、なんでですかー!せっかくコレちゃんも許可してくれた上に、こんなに一生懸命、懇切丁寧にお願いしている女子高生を振るなんて享一郎さんには血も涙も内臓もないんですか!」


 その態度のどこが懇切丁寧なんだ。それで喜んで受けるやつは馬鹿か変態しかいない。あとなんで内臓がなくなった?ついに売ったか?

 すると、その元凶のコレットがお茶の用意を済ませて優雅に戻ってきた。お前はいつの間に俺のマネージャー面までし始めたんだ。コイツがいったいどこに向かっているのか全くわからない。


「私を差し置いて楽しそうなお話なんて、許せませんね。混ぜてください!」


 そう言いながら、目の前のソファーで抗議を続けている響の前に冷たいグラスを置く。


「あ、ちなみに今回は水出しのジャスミンティーにしてみました。こういう暑い日にはぴったりなんですよー」


 そのまま俺の前にも湯飲みを置いた。湯飲みからは暖かいを通り越して熱い湯気が立ち上っている。


「そうか、今日日の水出しは熱いのか、知らなかった。それに中の液体も無色透明に見える。ふむ、これは勉強になった。……コレット、なんで俺には白湯なんだ?」


 この気温、しかも冷房機器のない部屋で沸騰させたと思しき温度の湯を飲めと?お前は悪魔か?


「涼しそうな格好してるから気を遣ってあげたんです。嫌なら服を着てください、服を」


「いやいや、仕方ないだろう?この部屋には冷房もないんだ。しかも2階だから日差しも暑い、立地的に風の吹き込みも期待できなかったら薄着にならないと熱中症で死んじまう」


「今時冷房もないとか、そんなんだから零細探偵事務所から抜け出せないんですよ!甲斐性なし!」


 買えたら買ってる!そもそも家賃すら時々滞納する奴がそんな高級品買えるか!


「そんな金がないのはお前も知ってるだろ?いいじゃないか、昔の人たちだって3Cがなくても元気に生活してたんだぞ?俺たちもそれに倣おう、クールビズだ」


「昨今の温暖化を無視したような発言にびっくりです。屁理屈言ってないで明日中にも買ってくださいね、体を質に入れれば少しはお金になりますよきっと」


 くそっ、可愛くない中学生め……。そもそも俺の事務所なんだから好きにしてもいいだろうが。


「お金ないんですか?お金ないんですね?ならいいじゃないですか!私についてきてくれるとちゃんと会社から報酬が出ますよ!それでクーラー買っちゃいましょう!」


 ここぞとばかりに詰め寄ってくる響。ええい、暑苦しい離れろ。


「体を売るのと、体で稼ぐの、どっちがいいんですか?ハっ、まさか売る方がいい、とか?私は買いませんよ!」


「うるせえ、何があっても絶対お前には売らねえよ。もうわかった、わかったよ。で、どこまで行けばいいんだ?」


 両手を挙げて降参する。俺が一方的に悪者みたいになったが、これは俺が悪いのか?いや、ないはずだ。と自問自答しながら渋々と着替え始める。


「ありがとうございます!私は最初から享一郎さんがイザナミ神のように慈悲深い人だと信じてました!それでですね、ペンネーム『パエリア51』こと『渡辺ワタナベ 浩太コウタ』さんは神奈川県の相模原市に住んでるみたいです。では張り切っていきましょう!」


 おい、それはほめてるつもりなのか?罵倒じゃないのか?

 コレットの出したお茶を一気に飲み干し、跳ねるように立ち上がりながら響は拳を上げた。




「ってことで着きました!相模原市の閑静な住宅街です!」


「お前はどこに向かってしゃべってるんだ?」


 それにお前がうるさくて閑静な住宅街が閑静じゃなくなってるぞ。


「それで、そのパエリア何とかさんはどこにいるんですか?……名前を呼んでたらお腹が減ってきました」


 いつもどおり当たり前のようについてきたコレットがお腹を押さえている。


「えーとですね、近くのファミレスで落ち合うことになってるんですが……」


 そう言いながら地図とにらめっこしつつ辺りを伺う響。あれ、響さん?その地図北と南を逆に見てませんか?


「うーん、このまま行けばファミレスの看板が見えてくるはずですが……。見えるのは民家の塀ばかり。謎です……。ハッ、これはもしや狸の仕業!?」


「響、お前はもう道案内するな。このままだと1日たっても辿り着かないのが容易に想像できる。とりあえずその地図を貸せ」


 俺は言いながら響から地図を奪う。やはり逆方向へ進んでいた。このままだとファミレスがある幹線道路へ出ずに山登りをさせられるところだった。もうお前が狸だよ。


「ああ、当方の仕事を取らないでください!それを取られると今日一日やることがなくなります!」


 響は何か喚きながら地図を取り戻そうとしてくる。それを防ぐために地図を高く掲げるとそれに合わせて響も跳ねる。面白い。ってお前ナビ以外仕事するつもりないとか正気なの?


「はっ、これが最近話題の事案ですか!通報しないと!」


 なぜだコレット。何でお前は俺が軌道修正しようとしたら警察を呼ぼうとするんだ。俺は頼まれている側だよな?しかもコレットに関しては呼ばれてすらいないのだが。


「わかったから通報はよせ、これ以上葵に冷めた目で事務作業のように手続きされるのは嫌なんだ……。とりあえず響が探してるファミレスはこっちだ」


 このポンコツたちを先導しつつ待ち合わせになっているファミレスに到着する。時間は何とか間に合ったが、これからはナビを響に任せるのは止めよう。

 どうやら渡辺さんはまだ到着していないようだ、なら先に入って待っておくことにするか。


「いらっしゃいませ、何名様でしょうか?」


「あ、三人なんですけど、あとから一人来ます」


 俺が何かをする前にコレットは動いていた。どうなってる、何であいつがこんなにすばやく判断して行動しているんだ……!


「ちょっと、探偵さん。他のお客さんの邪魔ですから早く来てください!早く、早く!」


「いや、流石に早すぎるだろいろいろと。わかったから待て、あと注文ボタンは連打するものじゃないからその指の動きを止めろ」


 コレットは一足先にテーブルに着くと注文ボタン横の机を小刻みに連打していた。何でお前はそんなに腹が減ってるんだ、お前がここまでファミレスに慣れてると帰国子女のお嬢様なのが本気で信じられなくなってきたんだが。


「ぷりーず、ぷりーず!はりー、はりー!」


 何だその適当な英語は、お前はいったい何に駆り立てられているんだ。

 とりあえずちょっと待て、今手持ちの確認するから。……そうだ、財布は薬局とスーパーのポイントカード入れだったんだ。まずい、このままじゃコレットが俺を社会的に殺そうとしてくるのは火を見るよりも明らかだ……!

 俺は優雅に足を組みながら席に着いた。背中は脂汗でひどいことになりつつある。


「あ、当方はパンケーキを所望します!お金は気になさらず、経費で落ちますので!」


 なん……だと……?飯がタダで食えるのか……?なんだそれは、この法治国家である日本で許されることなのか?


「い、いいのか?いいんだな?ほんとに食うぞ?後で嘘だとかは無しだからな?」


 俺は震えながらメニューを開く。コレで響に騙されていたとしたら俺は無銭飲食で捕まることは必至……!そうなればいつもコレットとの微笑ましいやり取りや、俺の仕事ぶりを勘違いされていつもご厄介になっている警察さん達に新たな一ページを刻んでしまう!

 それだけはなんとしてでも回避しなければならない。どうする、俺だって久しぶりに肉を腹いっぱい食いたい!だがあまりにもリスクが高すぎるっ!!


「うわ、いつも金欠だとこんな風になっちゃうんですね。可哀想な探偵さん、哀れです」


 うるさいっ!お前に持たざる者の気持ちがわかられてたまるか。食べるものがなさ過ぎて本屋で「食べられる野草」を熟読するようになってから俺に文句を言え!


「お世話になってる人にそんなことしませんってー。どうぞなんでも好きなもの頼んでください!」


 響が自分の金じゃないからと好きなことを言っている。よし、お前がそこまで言うなら乗ってやろう、「なんでも」といったことを後悔させてやるぜ!


「……あのー、『フェノメノン』に投稿した渡辺ですが、白百合さんと神代さんでしょうか?」


 そしてこの一部始終を依頼者の渡辺さんに見られていたことが何よりの後悔となった。

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