第7話 死の闇に慄け
目の前には、血の海が広がっていた。
横たわっているのは父と、母。
姉はいない。
代わりに黒い大きな人影が、父の傍で蠢いている。
それはまるで、父を食らっているようで。
怖いのに声は出ない。逃げ出したいのに動けない。
やがて黒い塊が動きを止めると、やや小ぶりの黒い塊が生まれた。父がいた場所に。
今や2つになった黒い人型の塊は、動かない母にも食らいついた。止めたいのに指先一つ言うことを聞いてくれない。
そうこうしている間に、最終的に3つに増えた塊が、こちらを向いてニタァ、と笑った。
――今逃げないと死ぬ!!
本能が告げる警告に従い、ようやく動き出した体を引きずりながら外へとかけ出す。
通報するとか、助けを求めるとか、そんなことを考える余裕なんてなかった。
ただひたすらにその場から離れたかった。
恐怖で引き攣り、止まらない涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔にも気づかず、ただ走った。
息が切れて立ち止まると、
しばらくして見上げた空は墨汁を流したようで、星なんてひとつもなかった。まるで希望など無い、とでも言いたげに――
◇◇◇◇
ふぅ。
デスクにていじっていたスマホを置いて、香澄は心の中で大きめなため息をついた。
仕事の合間にネットで調べてみたが、有働奈緒についての悪い噂は見つからなかった。不自然な程に全くない。まるでもみ消されたかのように。
(これは、自分の足で稼ぐしかないかな……)
ひとまず、彼女のスタジオ周辺で聞き込みしてみること、数時間。
有力な情報はほとんどない。皆口を揃えて、あの先生は凄い、とか、素晴らしい、と褒め称えるばかりだ。恨まれるようなことがあるとしたらそれは成功者に対する嫉妬ではないか、程度の話しか得られなかった。
(嫉妬かあ……)
成功者への嫉妬なんてありふれすぎて相手の特定に至るのは至難の技だろう。考えようによっては、だからこそ複数の
何かが引っかかる、とカスミの勘が告げている。
とはいえそろそろ時間も遅くなってしまう。切り上げて帰ろうとしたその時。
「あの……っ!!」
少し離れたところから、小さいけれど、意を決して話しかけたのであろう声が聞こえた。
声のした方に振り返ると、年の頃なら15歳くらいだろうか、1人の少女が佇んでいた。勇気を振り絞りきったのか、震えているように見える。
少し明るめのショートボブに、くっきりした二重。伏し目がちな、しかし強い意志を宿した瞳にかかる長いまつ毛。スッと通った鼻筋やぽってりとした唇。少し薄汚れていたため最初は気づかなかったが、見れば見るほど美少女だ。その手には赤く汚れた紙切れのようなものを握りしめている。
「有働さんについて、調べてますよね?」
「ええ、そうだけど、君は?」
心なしか怯えているように見える少女の心を解きほぐすように、できるだけ優しく答えるカスミに、
「ここではちょっと……場所を変えませんか?」
「分かった。じゃあそこのファミレスでいいかな?」
カスミの提案に、少女はコクリ、と頷いた。
「OK、じゃあ移動しよう」
二人はすぐ傍にあるファミレスに入店すると、遠慮している少女に、奢るから、と優しく語りかけて好きな物をお互いに注文し、一息つく。
よっぽどお腹が空いていたのか、運ばれてきたハンバーグステーキとライスのセットをがっついている少女を、微笑ましく眺めながらカスミも自分が頼んだまぐろタタキ丼に口をつけた。
ひとしきり無言で食べた後、お互いに自己紹介する。
「私はカスミ。事情があって有働さんのことを調べているの」
「私の名前は⋯⋯ハルといいます」
そこでしばしの沈黙が落ち。
「お姉さ⋯⋯カスミさん、有働さんについて調べたこと、私にも教えてくれませんか?」
「どうして?」
「私、お姉ちゃんが有働さんの下でダンスを学んでいたんです。すごく期待されてて、期待の新人って言われてて⋯⋯でも、ある日の練習中に、突然怪我で再起不能になって⋯⋯。」
「!!」
「何があったのか、何で怪我したのかとか、全くわからなくて⋯⋯うち、あんまりお金なかったから、お姉ちゃんだけが希望で⋯⋯」
そこで言葉を詰まらせて何も話せなくなるハルを、カスミはゆっくりと待った。
ハルは赤く汚れた紙切れを広げながら、続けた。
「⋯⋯何があったのか、知りたいんです⋯⋯!!」
彼女が広げた紙切れには、
“ウドウをゆるすな”
とだけ書かれていた。
3度目の沈黙。
「私はね、有働さんの命を狙っているモノについて調べているの」
「命を狙っている、モノ?」
「強い負の感情が生み出す異形よ。真っ黒い人の形をしているのだけど⋯⋯有働さんが恨まれたり、負の感情を抱かれることの手がかりを探してるんだけど、見つからなくて⋯⋯ってハルちゃん?」
ハルは全身に冷や汗をかき、ガタガタと目に見えて震えているのがわかる。相当怯えているようだ。
「⋯⋯ごめんなさい。ちょっと気分が⋯⋯」
「今日はもうこんな時間だし、お家まで送るよ?」
時計に目をやるともう22時近い。
「お家、ない、です」
「え?」
「帰れるお家、ない、です」
さて、これは困った。細かい事情を聞ける雰囲気でもない。カスミは少し悩んだが、
「分かった、ひとまず家にいらっしゃい」
「えっ、そんな⋯⋯いいんですか⋯⋯?」
遠慮がちなハルに力強く頷くと、ファミレスのお会計を済ませてハルとともに帰宅の途に着いた。
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