第19話 Falling 5
アルゼルの言葉を聞いたブルーが大股で部屋の隅へ歩いていく。
投げ出された茶色のバッグの中に色々な物を詰め込むブルーを眺めながら、のんびりとアルゼルは彼に告げた。
「せっかちだな」
部屋の備品から視線を外さず、言葉だけでアルゼルを制すブルーの体は既に銀製の燭台に伸びている。右の指先だけがアルゼルを指して反論した。
「お前が言ったんだろう、三日も経てばここは廃墟になる、と。俺は逃げる、やってられるか。STORMとやりあうなんて冗談じゃない。奴らのしつこさは狼以上だ、何年経っても追いかけてくる。それに俺は奴らのクラン員を殺した張本人だ、必ず殺される」
はは、と渇いた声でそれを笑ったアルゼルは座ったままだ。
「さあ、どうだろう。不安かい?ナターシャはそう思っていないみたいだが」
ナターシャ。眠り続ける自分の体を部屋の中央で立って眺めながら、私は二人の会話を聞いていた。ナターシャ、アルゼルが先程から繰り返す女性の名前だ、きっと先読みの術師なのだろうけど、こんなに状況に対応した占術が可能なんだろうか。だとしたらとんでもないレベルの術師だ。そのとんでもないレベルの先読みを語りながら、アルゼルは藤蔓のソファに体を預け足を組んでいる。興味も相待って私は彼の全身をつぶさに観察した。ヒグマ?いいえ、多分あの毛皮はランドマリーの南に位置するリーマという地域、そこに生息するブラックベアー種、体長は20メートルを超す怪物、その毛皮だ。素肌の上に毛皮を羽織っているから、開かれた胸筋がよく見える。薄くついた肉、輝くばかりの均整、神に愛された造形。腰に巻かれているのは特徴的な柄の入った腰巻きだ。赤を基調に茶色、そして黄色い幾何学模様が美しい腰巻。そんな優雅なアルゼルの右手には術師の命である杖が握られている。これも特徴のある杖だった。彼の身長を超す長い杖は真っ黒な物質で作られている。植物の様でもあるし、金属の様でもあった。細く長くまっすぐに伸びた杖の先端にはランタンが設置されている。柔らかな炎が絶えることなくガラスの中で揺れ動いており、それがまた彼の呼びかけに答える様に燃え上がり揺れ、舞い踊っている。
「Stormの人間を撃った銃は支給品かね?」
呼びかけられたブルーが手の中の狙撃銃を確かめながら答える。
「マンティス本部からの支給品だ」
やはり笑みを絶やさず、アルゼルは答える。
「残念な事に、その銃はランドマリーの軍用品だ。市場に出回ることのない非常に優れた威力を持った狙撃銃。軍用品は管理が厳しいから銃痕を調べれば製造年月日までわかる。ストーム陣営が、それを調べられないとでも?銃火器の専門家がいたはずだ、確か、バロン・クラウド。さて、ストーム陣営がここで敵対と認識するのは恐らくランドマリー、フェニスだ。巧妙に隠せているね。流石はマンティスの頭脳といったところだ」
アルゼルの未来予知を聞きながら、ブルーは段々と体を起こし、その広い手のひらを額に乗せた。そして歯を強く噛み締めた後、吐きつける様にある男の名前を口にしたのだ。その名前は私にも馴染み深い名前だった。
「マクシム・イグドラシル!俺を担ぎやがったな!」
「ウルタニア陣営は、ストームとフェニスを争わせるつもりだろう。どちらも彼らにとっては邪魔で野蛮な敵勢力だ、潰しあって貰えればストームにオシャカにされたワームウォーターの再開発に尽力できる。だが、フェニス、おお、キングオブキング。金の為に表情すら変えず自分の右腕を切り取った女が、この浅薄な計画に乗るとは思えないね。そしてストーム。自分の王国を壊してまで棄民を受け入れたカイザードだ、彼が仲間と認めた男、国民と認めた人間の命が奪われた事実は、
アルゼルがその形の良い唇を舐めて喋り終わった直後だ。コツコツ、と何処か遠慮気味なドアノックの音が聞こえた。多分この部屋の唯一の入り口と出口、木造の玄関ドアの方向からだ。ブルー・ワンズには窓からの侵入方法があるけれど、それは一般的じゃない。体を即座にドアの左方向斜めに寄せて彼は問うた。
「誰だ」
扉の向こうから、少し沈んだ男性の声が返ってくる。
「ヴァンだ。ブルー、少しいいか?」
ブルーの緊張は一瞬にして緩んだ。緊張の代わりに彼の表情を支配したのは、贖罪。長いまつ毛を伏目に下げて、何かに許しを乞うている。
「立て込んでてな。すまん、何か重要な話ならこちらから……」
言いかけたブルーの言葉を遮って、何かを含んだヴァンの途切れた言葉がそれに続いた。
「ああ、時間はとらせん、このままでいい。……、その、報告なんだ。ハーディの、………ハーディの死体が見つかった。犯人は、白い髪の男だとみんな噂している。お前何か情報を持ってないか。なんでもいい。教えてくれ。あいつは、あいつは確かに過激なところはあった。だが、あんな死に方をしていいはずがない。発見時は死体の損壊がひどくて見分けるのが大変だったらしい……。右腕は切り落とされて食われていたそうだ………」
ヴァンの言葉を聞きながら、ブルーは頭を下げた。遠いつま先を見つめながら彼は静かな声で答える。
「………いや、……、白い髪の男の事はよくわからん。ただ、ハーディについては、残念だ………」
ああ、と泣き笑いに言ったのは扉向こうのヴァン。人を愛する才能に長けた人。ハーディがなんだったのか私にはわからないけれど、この人を魅了する人ではあったのだろうと思う。
「本当に残念だ。いい奴だった。もう一度、会って話したかった。まだ、決着がついてなかったんだ、あいつと。もっと、もっと………。お前が良ければ、少し付き合ってくれないか。呑みたい気分なんだ」
「いつもの席で待っててくれ、すぐに行く」
扉の向こうのヴァンは何故だがブルーに、すまない、と断って扉の前を離れた。
唇を結んでブルーがアルゼルを見る。アルゼルは何事も発さず、ただその広い手を開き差し出しだだけ。
「早めに戻る。あいつとも、………これで最後だな」
扉を開いて黒い騎士は傭兵には不釣り合いなこの部屋を出て行った。残されたのは、私の眠る体と起きている意識と、優雅に座ったアルゼルだけ。静かな空間を揺らすのはこの男だ、私の体がビクビクと二度三度揺れて、酷く不機嫌な顔をした私がゆっくりと起き上がった。
「酷い匂い」
起き上がった私はそう呟く。酷い匂い?それは多分、部屋の中に満ちるアルゼルの吸う煙管の煙の匂いだ。懐かしい森の気配、藁の寝床に星の香りを燻した柔らかくてとても懐かしいこの香りを、エノクの持ち主は酷い匂いと称した。私は気づく。感覚までもが乖離してる。そして続く言葉を私は聞き逃さない。
「………トートを使ったな………」
まるで悪魔が穴の底から呟いたような低い声で私の肉体が呟いた。即座にその答えに行き着いたジョカに私は震え上がって、アルゼルの背に隠れる。彼らは知っている、彼らは対応している、彼らは行動している。悪意には悪意を持って返し、敵意には敵意を用いてそれを無効化する。これが世界か、と私は怯えた。記憶の中に、ケイシーとマリーの言葉が蘇る。泣けばいい世界、そんなものじゃなかった。世界は泣いたって喚いたって許してなどくれないのだ。なら彼らの様に知るしかない、対応するしかない、そして行動するしか方法がない。きっとそれを知っているアルゼルは矢張り笑みを絶やさず、ジョカの言葉を聞いている。徐に彼の大きな手が熊の毛皮のフードにかけられてそれを外した。彼の両耳の上部から生えた見事なアモン角の羊角が輝きながら室内の灯りに照らされた。
「珍しいだろう?ディアボロは実に数の少ない種族だからね。君のお眼鏡に適うといいが」
ドブの底にあるような目をして、私が彼を見つめている。忌々しそうに結ばれた口元が、即座に片方持ち上げられて、しなを作った。何処までも人を、女性を虚仮にするつもりなんだろう。
「あら嫌だ、なんの事?寝ている人をこんなところに連れ込んで酷い人。気持ちよくしてくれなきゃ大声で叫ぶわよ」
片足を立ててベッドに寝そべり、ゆっくりと足を開き始めたジョカ、私の肉体からアルゼルは目を離さず、ゆったりと立ち上がった。
「我々、ディアボロは非常に繁殖能力が低い。愛した相手の存在を全て味わいたくて、殺害衝動に駆られるのだ、だから妊娠、出産までを行える個体が少ないのだよ。その癖男女問わず好色だ、そして多種族とも問題なく交われる。我々が婚姻契約なく多種族と交わり、ごく稀に子を成した場合、その子は亜人種として生まれてくる。ディアボロは全ての亜人種の祖なのだよ」
ヒグマの毛皮が重さを伴って床に落ちた。隠された彼の美しい上半身が現れる。見事という他ない、均整のとれた黄金比をもつ肉体だ。
「ディアボロの性交を収めた映像は珍しいから、きっと君も満足できると思うがね、ジョカ。だが、私はディアボロ。相手の魂も肉体も全てを味わうという本能を持っている」
腕を何かに引っ張られたと思った。前のめりになった体を守ろうと手を伸ばしたけれど、次の瞬間私の前に美しいアルゼルの顔が視界いっぱいに広がった。体の奥の方でむず痒い何かが蠢いている、これは?
「ジョカだよ」
と微笑んで、彼の大きな手が私の頬を包む。
「トートの木は私達、ディアボロの成れの果てだ。エノクの石の能力は相殺される。
甘い香りが口の中に入ってきた。瞬間から目に涙が滲んだ。全身が火照って指先までもが痺れ出した。私の全身を彼の熱い肌が包んで抱きしめている。優しく撫でて確かめている。涙を流しながら、喘いだ。こんな、こんなの、知らない。
「強く直向きな女性は私の大好物だよ、サエル。君は美しい。やっと君をこの腕に抱けるのだ、さあ、比類なしと謳われたディアボロの性技を思う存分味わっておくれ。君が希望を忘れる事のないように」
それからは答えられなかった。あられもない声をあげて、彼の思い通りに絶頂した。苦痛もない、嫌悪もない、罪悪感も吹き飛ぶ本能の絶頂。彼の背中から見る天井の隅に、大きなコブを拵えたグロゴールを見つけたけど、どうでもよかった。彼が触れた場所から電流が走って、それが背筋を駆け上がる。跳ねる体を押さえつけようと、彼の体を必死に掴む。それを彼が優しく抱き止めてくれる。温度も香りも感触も、何もかもが蕩けるような悦楽を呼び寄せて、今まで感じていた不安や苦痛、憎しみなんかがどんどんと涙と汗になって溶け出ていく様だった。
グロゴールから聞こえてきた『すっご………』と『やっばぁ〜〜……』に不思議な優越感を抱きながら、アルゼルの肩に引っ掻き傷を作る。
それは月の酷く明るい夜、コヌヒーの国にはおそらく残り少ない平穏な夜、私はあれほど嫌悪した男性を多分生まれて初めて受け入れた。彼らの中にある何かを好ましいと思った。それを好ましいと思う自分をすんなりと受け入れて誇らしいとすら思った。
昔の私なら考えられなかった思考だけど、確信としてある。この感覚は恐らく正だ。つまり、世界は混沌なのだ。何もかもが曖昧で整然と序列をつけて並べられるものじゃない。悪意と敵意の中で生きるなら、私の中に混沌と悪意、そして敵意を飼わなきゃいけない。幸いにも最上の敵意と悪意は今、私の中にあり、そして目の前には美しい混沌の中の秩序が私に愛を持って微笑みかけている。
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