第18話 Falling 4

 その日から、眠れなくなった。

 彼の宣言通り、イサクは私の元を訪れなくなったし、あの日から雪も降り止まない。

 薄い毛布を頭から被って、中で体を震わせる。女達の多くは娼館に通い始めた。破れた藁のような毛布を被って寝るよりは、娼館の柔らかいベッドの上で男に抱かれている方が眠りやすいからだ。けれど私にはもう何も関係がない。眠れないし、起き上がれない。体を動かす事自体が億劫なのだ。固まってしまった私を無視してジョカだけが私の肉体を忙しなく動かす。名前も知らない兵士たちの下で派手に喘いで痴態を晒す。段々と私こそがこの肉体に間借りしている寄生虫で、ジョカこそが私の肉体の持ち主であるような、そんな思いに囚われる。かつてジョカを罵倒する時私は、ジョカを彼、と認識していた。けれども最近は、ジョカを思わずこう呼んでしまう。彼女、と。冷たい毛布を抱き込みながら何時間も考える。ジョカこそが私だったんじゃないだろうか。私は随分前から精神的におかしくなっていて、ジョカという架空の人物を脳内で作り出したんじゃないか。私の本質こそがジョカの行動で、私は本当は男性に犯されたがってたんじゃないか。吐き気を催すこの考えを胸の奥の暗くなった部分に押し込めて、私は目を見開く。コヌヒーの厳しい冬の風が、この保護施設の薄い窓を揺らす。ガタガタと闇から揺さぶられる木枠の音に耳を塞ぎながら、朦朧とした意識のまま体を抱く。考えるのは、死ぬことだけ。苦しい。嫌だ。苦しい。死にたい、死にたい、死にたい。毎晩何百回と死を希求し、唱え続け、気絶するように眠る。目が覚めると、目の前には男の顔があって、私はいやらしい声をあげている。助けて。誰か、誰でもいいから、私を殺して。


 時折亡失する私を見ていてくれたのはシータだった。当てにはならないけれど、友人の様子がおかしい、と軍医に相談してくれたらしい。性病の有無は兵士の健康にも関わるから、その日から私は娼館への出入りを禁止された。処方されたのは安眠剤、効くわけがない粗悪品だ。ただ。

 眠れない夜を体を固めて蹲る日々で、わかったことがもう一つあった。ジョカの支配は、万全ではない、という事。これが彼の戦略なのか、策略なのかわからないけれど、体が溶ける様な疲労状態でも眠れないまま夜を過ごしていると、彼の支配が数時間解除されている事がある。体も心も重いから動けないのだけど、涙は流れるし、体は自分の思い通りに動かせた。チャンスだと思った。死ねる。ジョカの支配が解かれる時間はまちまちだったけれど、最大で8時間は自分の自由になる時間がある。手の中の安眠剤を見た。もし、ジョカもまた、一般の人間と同じく睡眠を必要とするのなら?体を休める時間をずらせばいい。彼の支配が及ばない時間、この忌々しいエノクの石と共に死んでやる。

 効かないかもしれない安定剤を、何錠か口に押し込んで眠る。恨みと憎しみだけが、今の私の生きる糧。ウルタニアも、カレン・ボスも、マギー・ボウも、フェニスもジョカもエヴァ・ベルも、全部を呪って死んでやる。


 二日後の深夜に目が覚めた。

 体は冷え切って喉はカラカラだ。体を起こそうと腕を伸ばすと筋に鋭い痛みが走る。奥歯を噛んで痛みに耐える。動く。動かせる。動かせるなら、死ねる。ゆっくり足をベッドから下ろす。ボロボロに汚れた服、筋の浮き始めた足を必死で動かす。死ぬの。死ななきゃ。殺してやるの、フェニスを、ジョカを、ウルタニアを、ランドマリーを。それにたった一度も逆らえなかった弱い自分を殺すために、私は死ななきゃいけない。枕のそばで眠っているグロゴールをビンの中に封じ込めた。マリーもケイシーも、私のポルノ映像を売るために大忙しだ。きっと、疲れ切って寝ているんだろう。それから体を引きずりながら洗面所へと私は歩く。割れた鏡の前で絡まった髪を解いて、イサクに貰った安物のストールを肩にかけた。よくある話だわ、娼館で狂った女が自殺するなんて。誰にも疑われない、誰からも調べられない、お前もそうやって誰にも知られず死ぬのよ、ジョカ!

 身体中が軋む痛みに耐えながら、保護施設を出る。なるべく人に見つからないところを探して歩いた。ヒールの擦り減った黄色のパンプスで雪の中を転び回りながら。


 月明かりの綺麗な夜だったから、あかりはなくても歩いて行けた。

 通りは除雪されているけれども、左右に見える市街はほぼ廃墟も同然だ。その壊れた建物の上に、白い雪が静かに積もって月明かりを受けている。歩いて歩いて西武地区に来た。戦闘が激しい地域だから、流れ弾を期待した。けれど雪が降り始めて戦況も硬直状態に陥っているらしい。銃での死亡が無理なら、と私は一瞬で死ねる方法を考えた。飛び降りと首吊り。イサクに貰ったこのストール、首を吊るには十分な長さがある。高い位置にまだ残っている廃墟を見つけた。物見台みたいに外付きの階段がついていて、一番上には屋根の削れた小さな小部屋がのぞいている。白い息を弾ませながら私は、廃墟へ続く階段を登っていく。恐怖なんかない。胸のうちに去来するのは、恍惚とした興奮だ。自由だ、自由になれる、この何段かの階段を登り切って、そこの窓から首を括って身を投げる。そうすれば全ての自由が手に入る!

 一歩、崩れかけた階段を登る。また一歩。自分の生命を誇るように噛み締めながら、私は自分のこの情けない人生のクライマックスに酔っていた。酔っ払った一歩が崩れかけた階段の端を踏もうとした瞬間、夜を切り裂く銃声が響いた。息を吸って頭を抱えて、その場に蹲る。止まった息をゆっくり吐きながら周囲を伺うと、屋根のない小部屋から片手に銃を持った男が飛び出してきた。たなびく白い髪、白というよりは青だろうか。全身に張り付いているのはブループラチナの鎧、デザインはウルタニア式だ。彼はその整った顔を顰めて痛みに耐えている。肩の肉が鎧ごと抉れて血が彼の腕を流れ落ちている。そして階下では恐らくは少年の絶叫が静かな夜に響き渡る。


「・・・あああ・・・!うああああああ!」


 そちらに気を取られた瞬間、青い髪の男が、私を見つけた気配がした。男は息を飲み、小さく舌を鳴らして、足早に私に近づくと私を抱き抱えて大きな手で口を覆った。物見台に伸びる階段の壁側に私の背を押し付けて、周囲の音を探っている。壁の向こうで少年が何かをしている。金属音がある。銃?そんな事を考えている間に、空間の撓む音がした。空気が膨れたような、ぶぅん、と特徴的な音を立て、辺りは雪の凍っていく音が聞こえるほど、静かになった。私の口を押さえている男はそのまま随分と焦った独り言を言った。


「………転送音?」


 なんだか私も冷静になって、恐らくは、と彼に答えたかったけれどそれより前に彼の強引な腕が私の腰を掴んで飛び上がった。鎧の一部分が変化して、切先は鏃になった。移動用のロープと一体化したそれに捕まって、彼と私の体は宙を舞う。上下移動も、緩急をつけられた高速の移動も、それを楽しむ余裕なんてない私は目を強く閉じて彼の首に捕まってた。目を閉じて数分、彼の足が床を踏む音が聞こえて、それから乱暴な腕が私の体を柔らかい何かの上へ放り投げた。


「………クソッ………!」


 悪態をついた彼の姿をやっと見る。私の体は大きなベッドの上にあった。彼の輝くばかりの美しい白い髪、青味がかった白い髪も、プラチナの鎧も、漆黒のそれに染まっている。

 額に手を添えて、足早に部屋の中を歩き回る彼を見ながら私は確信する。貴方ね。ジョカの探していた男は。フェニスが探していた男は。貴方なんでしょう?!ブルー・ワンズ!


「………トラブルかね?」


 ベッドの足元の方向に暗い小部屋があった。特徴的な柄の描かれた茶色のカーテンが何重にも上からぶら下がってそれが帳の役目をしてた。タッセルから伸びる紐からもオリエンタルな煙が香ってきそうな小部屋の中は薄暗い。ただ、装飾用の小さな豆電球からもたらされる光が、その暗闇に一つの像を結ばせている。小さな蝋燭の明かりが揺れて、影が蠢く。蠢いた闇の中に人影がある。静かな質問は、その黒い人影から発された。


「トラブルなんてもんじゃない。情報がなかったぞ、転送魔法の使える蝶なんぞ今までいなかった」


 黒い人影を責めながら、おそらくはブルー・ワンズであろう人物が、メダルを握りしめてる。紋章はマンティス。ウルタニアで唯一の男性の男性による男性の為の騎士集団。その名前がマンティスだ。メダルに向かって、ブルーは言う。


「あいつは誰だ、民間人じゃない。正確に俺の首を狙ってきた。尚且つ、オルヒニウムの鎧を損傷させるだけの武器を扱える人間だ、蝶でもない!」


 メダルが光る。あの向こうにウルタニアがある。そう思った瞬間に、声が出ていた。


「助けて!!!!」


 絶叫した私を、驚いた顔のブルーが見る。私はベッドを掻くように這い出して彼のメダルに手を出した。彼の手ごと奪うように掴んで、メダルに向かって絶叫する。男性でもいい、なんだっていい、私をここから連れ出して!


「わ、私はサエル・ベルです!ティーパーティの要請でランドマリー大使として派遣されました!けれど、ランドマリーで、肉体を奪われて、」


 そこまで言って気がついた。ウルタニアに私の居場所は?娼婦として生活した女をセーフゾーンは受け入れない。言葉が続かなくて、彼の手とメダルに縋ったまま、私の足が萎えていく。沈んでいく私の姿を黙ったまま眺めていた彼は、今度は落ち着いた声でメダルに告げた。


「………あとで連絡する」


 マンティスのメダルの光が消える。希望だった光が消える。私の細い指も彼の手とメダルから振り落とされる。呆然と座り込んだ私に、声が掛かった。「サエル」暗い小部屋から響いていた、優しく深い男性の声だ。頭から被った熊の毛皮を引き摺りながらその人は私のそばへやってきて、亡失する私の顎に指を添え、上げた。光のない私の瞳を覗きみて、何かを探っている。彼の視線を受けながら私は奇妙な恍惚に襲われた。なんて美しい。整った顔。長いまつ毛。高い鼻。滑した皮のような深い光沢を放つ肌。生命力を誇るような漆黒の長い髪。そして彼の耳の上から、羊にある特徴的な巻いた角が這い出ている。浅黒い肌のその男性は、私の目を見て、長い指先で頬を撫でた。そして夏の花の香りを漂わせながら、彼は私の右手、忌々しいエノクの石を発見する。


「エノクだね。ナンバーは0」

「ジョカだ」


 吐きつけるように言ったのはブルー・ワンズ、彼の挙動を見もせずに熊の毛皮を被った男性は懐から不思議な形の筒を取り出した。ゆっくりと私から顔を背け、筒の先を吸う。彼の深い息と共に吐き出された煙が私の顔面に吹きかけられる。瞬間、昏倒した。


「トートの木の葉を燻した煙だ。酷く扱われたね、可哀想に。エノクは万全な様だがそうではない。トートの木から採取したあらゆる物質は、エノク魔法を相殺する。少しお休み、サエル。ジョカが戻ってくるまで、もうそんなに時間はない」


 彼が私の体を抱き抱えてベッドへと連れていく。それを彼の背中から眺めた。不思議な感覚だった。私の意識が私から抜け出て私を見ている。


「ジョカにバレても困るだろう?そのまま体を休めるんだ。心配しないで。今度は君が、ジョカをコントロールするのだよ」


 そう言って彼はまた熊の毛皮を引き摺りながら歩く。190センチ近い体が優雅に動いて、ベッド側の椅子に腰掛けた。彼の麗しい瞳は、ブルーを見ている。


「だから言ったろう?ブルー。この仕事は危険だ、と。ナターシャの占いが外れることはないんだ。今すぐ荷物をまとめるべきだな。私たちがこれからする事は頭を抱えて逃げる事だけ。テンペストだよ、全てが御破算になる」

 何か言いたげにブルーは口を開いたけど、何も言い返せなくて頭を振った。負けず嫌いなブルーの口はそれでも開いて、眠っているのに意識はある私に、その熊の毛皮の人物の名前を教えてくれる。


「アルゼル、お前解ってるな?俺が誰を撃ったか」


 ブルーの言葉にアルゼルは薄く微笑んで頷きながら答えた。


「アデンという国がある。賢王ラウヘルに守られた豊かな小国だったが、クーデターにより、殆どが破壊された。首謀者は第一王子、カイザード。父と母を処刑し、弟ヒロニーを追放し、王権を握った彼は、様々な国から捨てられた棄民を募り自国に住まわせている」


 ブルーがまた額を抱えて悪態をついた。「………最悪だ………!」


 アルゼルの言葉は続く。まるでおとぎ話だ。ベッドの中で聞く類の、少し怖いおとぎ話。寝苦しい嵐の夜を慰めるその物語の主人公は、そういう人々なんだと思う。


「彼らは仲間の死を許さない。仲間の血が流れた土地も流させた人も許さない。たった一滴の血の為に、彼らは何千も殺す。殺すよ、知っているだろう?三日も経てばこの国は灰燼と化す。この国を知るものも全て消し去られる、それだけの力を持っている。地下世界、などというギルド名を知っている人などいやしないのだ、皆彼らをこう呼ぶ。恐れを込めてね」



STORM災禍、と」

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