第16話 Falling 2

 それでも私は、死ぬ理由を探している。


数週間、私の身体を支配するジョカ、という人間と生活を共にしてわかった事がいくつかあった。


日中は負傷兵の世話をし、夜は兵士の性処理を行い、身体中が軋むほどの疲労を抱えながら気絶するように眠った後、起きる直前少しだけジョカの支配が解かれる気配がする。


起床時の倦怠感と抜けきらない疲労に頭を抱えている間に、あいつが戻ってきて何事もなかったかのように毛布を跳ね除け、ベッドから腰を浮かす。夜の始まる暗い廊下を進み、尿の匂いのこびりついたトイレの洗面所に行って、割れた鏡の前に荒れた肌と浮腫んだ顔と、ボサボサの頭を晒す。遠くに聞こえるのは悲しい明るさで持って酒を飲む兵士たちの笑い声。これをチャンスだと思った。




 これは私の身体だ、と私はまだ思っている。幸い、精神と記憶の共有はされないようだ、私が何を画策しているかを彼は知らないらしい。




 これは私の身体だ、と私は決意する。


生き恥を晒すぐらいなら、死んだ方がマシだ。


今もなお、私の痴態は恐らく動画として顔も見たことがない他者に消費されている。


私の乳房も私の陰部も、会ったことのない男女の肉欲を慰めているんだろう。


私のものであった私の体の秘密が他者に開かれ、顔も名前も知らない人間が私の乳房の形を知っている。この考えに思い当たるといつも吐き気が喉を焼く。


ウルタニア本国への連絡方法を模索したけれど、市井の人間が魔法大国のウルタニア、そのセーフゾーンとの連絡網を持っているわけがなかったし、何より通信が途絶えて既に数週間が経過した今でもウルタニア本国からの救援、支援の連絡もなかった。


ウルタニアは女性の国、処女性を神聖視する国だ。


処女性を失った原因がレイプだったとしても、男性の精液を受け止めた私の聖杯を、あの国は許しはしないだろう。


私にはもう何もない。地位もない。処女性もない、肉体もない。


子供の頃眺めた、薄汚い商売女達と同じところに落とされた。


私が彼女らをそう見たように、かつての私の視線が今の私を軽蔑の視線で責め苛む。


もし、救われて国に帰ったとしても私の先は見えている。


セーフゾーンを追い出され、ここにいる娼婦達と同じ生活をするだけだ。




なら。




 口を噤んだ。


絶望という決意で私は目を見開いて、身支度をする私を見る。


勝手に動けばいい。勝手に化粧をすればいい。必ず取り返す。取り返してみせる。




「やけに静かで素直だな」




 髪を櫛で解いて、三つ編みを作った私が割れた鏡の中で微笑んでいる。


対話にはこれ以上ない状況だ。だからこそ余計に頑なになった。




「そろそろ君も気づいているだろうが、この『際限なき自由フリーダムパラドクス』には幾つか欠陥がある。被支配者の精神と記憶の共有ができない事と、長時間の使用に被支配者が耐えられない事だ。自分の体を自由に動かせないというのは思いの外ストレスらしい。殆どが自我崩壊を起こし、運良く記憶と意識を保った状態で私の支配を逃れたとしても重篤な精神疾患を併発する」




私の中で私は唇を噛んだ。死なば諸共、だわ。ただでは死なない。お前も、そのエノクという傍迷惑な石も、全部を抱えて死んでやる。


鏡の中の私は化粧を始める。安い白粉が肌を傷つける。その上で、強い発色の真っ赤な口紅を口に塗りつけるから、まるで道化だ。似合っていなくて痛々しい。ただただ派手で悲しい色をもった娼婦が鏡の中に作られていく。




「まあつまり、君の判断は正しい。私が君を支配している間に君が自死すれば私も死ぬだろう。だが、私は、一度触れたもの全てに侵入する事ができる」




息を飲んだ。今まで触れてきた男達、私を犯した男達の顔が一気に思い出された。




「どれだけ距離があろうと、時間が経とうと関係ない。言ったろう?私は何にでもなれるし、何処へでも行けるのだ。人が自由と希望の象徴のように使うこの言葉の裏には、何者にもなれず何処へも行けない人間の悲哀など含まれていない。全く自由は素晴らしい。他者を踏みつけにし行進する人間を褒め称える事が許されているのだから!」




 鏡の前でピエロのような顔の私が、口を引き悍ましい顔で笑っている。


笑い声を聞きながら、私は私の中で泣いている。どうすればいい?どうしたら、どうしたら私は私の身体を取り戻せる?決心したのに揺らぐ。折れそうな心に自分の笑い声がヒビを入れる。耳を塞ぎたくなるような自分の笑い声の後ろで声がかかった。細い女の子の声。




「サエル?大丈夫?何かあったの?」




心配そうに私を見つめたのは、シータ。私の心の淵に引っかかった釣り針のような鋭い光。今にも暗闇に落ちそうな私の心を、力強い生命力で引き上げてくれた人。




そのシータに、私は酷い笑顔を浮かべて語りかける。




「………ああ、シータ。大丈夫よ、思い出し笑いをしてしまって。びっくりさせたわね」




手が伸びる。やめて。叫んだ。やめて。


その子は関係ないでしょう、私の身体ならいくら使ってもいい、その子はやめて。




恍惚とした表情の私がシータの頬に触れ、彼女の背中に腕を回す。「………さあ、


シータは不思議な顔をして私に抱かれたままだ。その奥で私は絶叫している。




やめて、やめて、殺さないで、もう誰も殺さないで、殺すなら私だけにして、お願い、




私を殺して!!!




※ ※ ※




 朦朧とした意識のまま、娼館2階の個室ベッドに横たわった。


既に一人の兵士の相手をして、体を洗った。


最初の男は体の大きさの割に小心者で、ずっと私に謝りながら腰を動かしていた。


なんて情けないつまらない男。


その情けない男に体を許している、獣以下の私。


息はしてる。意識もある。でも私は死んだも同然だ。


ジョカが言うように、私はこのまま消えたほうがいいんじゃないか。


何も考えず、何も思わず、眠る。ジョカが私の体を使い倒す間、ずっと眠る。


そうすれば、男の唾液も体温も口に中の生臭い匂いも味合わなくて済む。




目を開けたまま目を閉じる。刹那、音が聞こえて目を開ける。


扉を開けたのは若い男だった。


ゆったり体を起こすと、彼は扉を開けたまま、恐らく上官と言い争いをしている。


無理ですよ、俺こういうのダメなんですよ、と抵抗する若い男の声の後ろから、だいぶ酔っているらしい上官の声が聞こえてきた。


そろそろ覚悟を決めて男になりやがれ、なぁに心配ないさ寝ている間に全て終わる。


そう言った声が彼の背中を押して、扉を閉めた。


部屋の中に、死ねない女と、デキない男が取り残される。


仕事をしなきゃ。私の体の中で、私は膝を抱えて座り込む。


黙ってる、邪魔はしないから終わらせて。


ジョカが腰をくねらせて、微笑みながら彼に手を伸ばす。




「来て」




囁くように私の体が言った。




「………来て」




膝の間に顔を埋めて嫌悪に耐える準備をする。




彼は来なかった。扉の前で私の体から目を逸らしながら、落ち着きなく体を動かしている。




「大丈夫よ、酷いことはしないから。こっちに来て。お話ししましょう」




ジョカがそう言った。


その言葉に決心した表情で、彼の震える足が前に出る。


迷える足が辿々しくベッドサイドに近づき、このコヌヒーでは貴重な羽毛のベッドの端に彼の尻が沈み込んだ。


ジョカが私の腕を彼の首に回す。彼の小刻みに震える背中に、自分の乳房を押し付けながら彼を抱いた。




「どうしたの?初めて?優しくしてあげる」




言いながら彼の首筋に唇を寄せた。瞬間、彼は私の腕を振り払い、立ち上がって私から後ずさった。


失敗した、と言わんばかりの表情が彼の顔面を覆う。そして俯いてその失敗を隠し始める。俯いてものも言わず立ち尽くしていた彼は、やがて唇を噛んで、また左右に目を走らせて、それから頭を抱えた。


顔を伏せていたはずの私は、彼を見る。


まるで闇世の中に見つけた明かりみたいな彼の行動を、私の体は白けた声でバカにした。




「あらあら、私じゃ役不足?別の子でもいいのよ、隣の部屋には」


「そうじゃない」




彼の激しい静止が弾けた。




「そうじゃない、あの、貴女は綺麗だ。お、俺なんかじゃ手も出せないぐらい綺麗な人だ。でも俺、」




 詰まりながら彼は早口にそう告げた。


私の体は相変わらず詰まらなそうな不機嫌な顔をしていて、彼の顔も見ていない。


でも私の意識は彼に向いている。


男は皆、碌でもない獣だと聞かされて育った。


女とみれば、人格から存在までを否定し、軽視する動物以下の知能の他種族だと。


でも彼にそれはない。彼は明らかに私を、私の存在を、尊ぼうとしている。




「お、俺は、そんなに顔も良くないし、俺なんかが貴女のそばにいていいのかって。いやだろ、俺みたいなやつに触られるのなんか。あんたは娼婦だから、俺に優しくしてくれる。そんな事しなくていいんだ、俺は自分で、できるから」




 そう告げた後彼は恥ずかしそうに顔を真っ赤にして俯いた。行き場のない体が右に左に軸を寄せるけど、どちらにも行けない様子だ。ベッドの上で彼を見上げる。見上げながら自分の体に意識を寄せる。今の私が綺麗だなんてとんだ思い違いなのだけど、彼の言葉は私の中で意味を持った。恐らく、家族、そして見知った人間以外から受けた初めての承認に、私は確かに感動し、心震えている。




「………名前は?」




私の声だ。支配が切れている事に気がついたけど、私は彼から目を離せなかった。


彼はやっぱり、後ろ頭を掻きながらソワソワと体を動かして、答えた。




「………イサク」




ベッドから降りた私は私だろうか。ジョカではなかったか。


私は私の体、サエル・ベルの体を動かして彼に近づく。そして、自ら彼の首に腕を回し、彼を抱きしめた。




「………サエル」




何度も迷って、進退を繰り返した彼の震える腕がこわごわと私の背中に回された。なんて温かい。


言葉も交わさず私たちは抱きしめ合う。彼の匂いを吸い込む。寒気がしてたはずの男性の汗の香りが、なんだかとても芳しいものに変わっている。彼の腕が、強弱をつけて私の背中を締め付ける。彼の大きな腕の中で、私は想像した。これのない明日、彼の腕と優しさのない明日を想像した。そしたら途端に、耐えられないほど寂しくなった。彼も同じなんだろうか。息を吸い、吐き、まるで泣いているかのような誠実さで彼は私の体を抱きしめる。埋められなかった何かを互いに埋め合い、お互いに傷を癒やし合う。感情は幸福に満ちて、頭の奥を痺れさせる。


ずっと出なかった涙が溢れてきた。私の泣き声を聞きながらもイサクはずっと私の体を労るように抱いてくれた。やめて。弱い私が泣く。死のうとしていた精神が、希望を求めて渇望する。


やめてイサク、私を抱きしめないで、優しくしないで、私を愛さないで。




私は、死ななきゃならないの!


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