第2話 butterfly effect 2
綺麗な目をしたルルワ、かわいそうなルルワ、僕はルルワにも夢中になった。
この岩山から、遠くに見えるコヌヒーの宮殿は艶やかで穏やかだ。
金色に照らされた丸いドームが青い空に映えて美しい。
小さい頃、街の中から見上げるあのドームは僕の誇りだった。
美しいものがある、美しくて大きなものがある風景が僕はとても好きだった。
今はどうだろう。
変わらない金色のドームはあの頃と同じように聳えてある。
変わらないドームの周りで、僕達の街は破壊されている。
また、市街地の一角からは銃声と何かが爆発する音が聞こえてきた。
その後、白煙が上がった。
白煙は僕から遠ざかりながら流れていく。
その後、乾いた破裂音が連続して聞こえてきた。
背中を押すように後ろから吹いてきた風が僕の髪をさらったので、僕は膝を抱えていた手を解いて立ち上がった。
後ろを振り返るとそこには難民キャンプが広がっている。
黄色い小さなテントが数えで十個ほど設置されていて、それぞれ一人かひと家族が暮らしている。
洗濯物が干してあったり、黒く汚れた鍋を吊るす道具が置かれてあったり。
その黒い不衛生な鍋で温めた食料を僕たちは食べる。
みんなそれぞれ、不自由だけど生活をしている。
夜は暗くて怖い。
いくらハーディがここは中立地帯だと言っても、銃をもった軍人達、或いはレジスタンス軍に襲われたらひとたまりもない。
だからみんな灯りを早々に消した。
黄色いテントにはハーディが所属しているボランティア団体のマークが刻印されている。
真っ赤な蝶だ。
僕らの国の言葉で、エミュレイと呼ばれるその昆虫は、神の使い、イムワットの眷属だった。
イムワットが作った美しい泉の水を求めてエミュレイが舞う。
エミュレイのいるところには必ずイムワットが潜んでいる。
けれど、ハーディは笑ってそれを否定した。
「エミュレイではないね。エミュレイはもっと大きい。羽を広げれば50センチにはなる。これはメタモルフォ、もっと小さな蝶だよ」
ハーディは色んな事を知っていた。
メタモルフォは小さくて赤と黄色である事。
大きな個体のメスと交尾したあと、オスは羽が取れてしまう事。
メスはオスの身体に卵を産みつけ、幼虫はオスの体を食べて成虫になる事。
それから世界がある事。
この抜ける様な青い空の向こうには、僕なんかが見たことのない大きな都市がある事。
身体が機械でできた人がいる事。
獣の特性と人の特性をもった、デミと呼ばれる獣人がいる事。
熱に浮かされたように、僕はハーディの言葉を聞いた。
ハーディの柔らかい声が頭の中に響いて、僕の意識は世界へ飛んだ。
世界。僕の見たことのない世界。
エタナがもう見れなくなった世界。
黄色い大地の上に広がる青い空を見上げると僕はとても悲しくなった。
そんな美しい世界があるのに、僕は何故ここで飢えているんだろう。
何故父さんは死んでしまったんだろう。そして母さん。
母さんはこのキャンプに来て急激に悪くなった。
毎日泣いて毎日イムワットに祈っている。
食事もしない。体も洗わない。
母さんのそばに行くと埃と血に塗れた垢の匂いが漂うから、僕は何かと理由をつけて母さんのそばに寄らなくなった。
僕は今、ルルワのテントで寝泊まりしている。
ルルワの香りは太陽の香り、泉に咲く花の香り。
ルルワの大きな目が僕を見つめるたび、ルルワの小さな手が僕のディスターシャに触れるたび、僕はとても幸福な気持ちになる。
そしてそんな胸の奥で少しだけ母さんを思ってしまう。
僕の心を見透かした様に、母さんは泣く。
僕とルルワが一緒にいるのを見たら、途端にイムワットへ祈りを捧げ始める。
僕は余計に母さんから距離を取る。悪循環だ。
母さんと一緒にいるのが嫌だった。
だって他の人はみんな、何かしらこの生活を守るために行動している。
赤ちゃんを背負ったナディアさんは両手に桶をもってこの岩山から麓の泉まで毎日二往復してくれる。
ハーディは言うまでもなく、食料を調達してくれるし、ルディもイレもこの辺で遊ぶ小動物を捕まえたり、食べられるものをして歩いてくれている。
僕とルルワ以外にも、何人か同じ年ぐらいの仲間が増えた。
ハーディが連れてきた。
彼らもまた両親を亡くしたり、片親だったり、兄や姉を亡くしたりしていた。
僕らは慰め合う様に輪になり色々な話をした。
ランプがテントの外にあるメタモルフォを写して舞う、その中で少しだけ僕はこう思える様になってきた。こんな生活も、悪くないもんだ、って。
その日も僕達はほぼ全員が出払っていた。
ハーディは食料と日用品の調達を、子供達は薪拾い、ルルワもそれについていった。
僕は見張りだ。目に見えて痩せてきた母さんの世話をしなくちゃならない。
座ったままぶつぶつと、イムワット、アーレーイムワット(イムワット、大いなる神イムワット)と繰り返す母さんの陰気な声を聞くとこっちまで気が滅入ってくる。
だから、とうとう言ってしまった。
「いい加減にしろよ、母さん。祈ってたって何にもならない。少しはみんなの為に働きなよ!」
く、と母さんのヒジャブが揺れて、ぎょろぎょろの目が僕を見た。
動かなかった身体が揺れて、母さんの身体が盛り上がった様な気配がした。
「………お前は、なんて子なの………」
茶色くなり始めたアバヤを引きずって母さんが立ち上がった。
いつの間にか母さんの背中は曲がっていて、まるでお婆さんみたいな風貌になっている。
アバヤから細い、皺皺の指を伸ばして母さんが僕に迫ってくる。
「………エタナが死んだのに、お前は生きてる。あの人が死んだのに、お前は」
僕が驚いている間に、母さんの細い足は意図しない速さで僕に迫った。
息を吸った直後の喉が母さんの細い皮だらけの指に締められる。
僕は逃げれなかった。
母さんが喋ったんだ。母さんが動いたんだ。だから逃げれなかった。
「お前まで!お前まで私を殺す気なの!」
下から見上げた母さんは砂漠に出るモンスターそのものだった。
ぎょろぎょろとした目を見開いて、ボサボサの髪を振り乱して、奇声を上げて砂漠を走るモンスター、アザリーだ。
僕の手は母さんの手首に添えられている。
抵抗できなかった。息が苦しくなる。顔が熱く膨らんでくる。か、と喉がなった。
母さんって呼びかけたかった。
「やめなさい!」
雷鳴のような声が響いて、母さんの腕が引き剥がされた。
やっと訪れた恐怖に僕は腰を抜かして、母さんを見た。
母さんの細い体を抱きしめているのはハーディだ。
「大丈夫か!」
後ろからルディがやってきて僕を抱えた。
そして僕を母さんが見えなくなるところまで連れてきた。
手と足の震えが止まらない。
震える僕を見て、辛そうな顔をしたルディが、僕を抱きしめて何度も呟いた。
大丈夫、もう大丈夫だよ。大丈夫。
ルディの胸に顔を押し当てられながら僕は、何処からともなく聞こえてきた母さんの声を聞いた。
私は、私はなんて事を!
びくりと揺れた身体が悔しくて僕は、その声から逃げる様、ルディの胸に耳を押し当てた。
泣き声が聞こえてくる。
母さんの声だ。僕は目を閉じてその声から逃げた。
優しかった母さん。母さんの笑顔。母さんの子守唄。母さんの料理。母さんの柔らかな手、僕を撫でる母さんの、エタナを抱いた母さんの。
でも、もうあれは、母さんじゃない。
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