第3話 butterfly effect 3
それから二週間が過ぎた。
あれから僕は母さんの顔も見ていない。
母さんの世話は主にハーディが行っている。
僕のそばへきて、たまに母さんの様子を知らせてくれる。
「少し、穏やかになったよ。薬が効いているらしい」
ハーディは母さんのために、高価な安定剤を仕入れてきてくれたらしい。
お陰で食料は少し減ってしまったけど、それも仕方ないと思う。
それから少し遠慮がちにハーディが続けた。
「……会うかい?」
ルルワのテントの中で僕は、波の様にのたうつ支給品の毛布に目を落とした。
隣にはルルワが居て心配そうに僕を見つめている。少し考えて言った。
「……母さんが、歩ける様になったら」
ハーディは微笑んだ。
ハーディの青い瞳はやっぱり綺麗だ。イムワットが作る泉の色によく似てる。
「必ず歩ける様になるさ。私がそうする」
僕の手に添えられたハーディの大きな手が温かった。
僕はルルワの手を握って、ハーディの手を握り返した。
忘れてしまわないよう、僕は繰り返さなきゃいけない。
「アーレーイムワット」
母さんに安らぎが来ますように。戦争が終わりますように。イムワットの愛した世界が続きますように。ハーディが、この使わされたイムワットの使者が、祝福を受けますように。祈る。
母さんが繰り返した祈りを僕も行う。
違いがあるとするなら、僕は行動して母さんは休む事だけだ。
祈りのような生活は続く、重い水桶が手に食い込んでも、お腹が空いて死にそうな時でも祈る。
アーレーイムワット。でも祈りに現実を変える力なんてない。
だからアリヤおばさんは死んでしまった。
本当はお医者さんに診てもらわなければならない重い病気だったらしい。
身体中に水が溜まって、真っ白な肌になったアリヤおばさんの側でシータは泣かなかった。
アリヤおばさんに葬送の花を添えて、近くの小さな泉に沈めた。
イムワットが全てを飲み込んで僕たちの魂をあるべきところに送ってくれる。
その翌日からルディと大人の男性達と少年達が帰ってこなくなった。
僕達は手分けをしてルディと彼らを探したけど、見つからなかった。
ハーディが寂しそうに、きっと逃げたんだ、と呟いたけど、ハーディもそう思いたかったんだろう。
だから僕もそう思う事にした。
人の死に慣れてきた。
日用品を探すため、廃墟になった市街地に出向く事があったけれど、そこでは沢山の人の死体が転がっていた。
女の人も居たし、子供もいた。
黒焦げになった何かもあった。
それが、腐って膨らんだり、黒く変色してたりして、道端に放置されてた。
エタナの死体を見た時、僕はとても悲しかった。
胸の辺りが痛くて苦しくて沢山泣いた。
でも、多分今の僕ならエタナの死体をみても何も思わないと思う。
誰かの肌着と着替えを盗んだ時も、食糧庫を漁った時も、僕のすぐそばに死体があったけれど、特に何も思わなかった。
それは僕の新しい世界の風景の一つに過ぎなかった。
腐りかけた果実を袋に詰めて、僕達はキャンプに戻る。
キャンプへ向かう森の道すがら、散らばった薬莢や見覚えのない死体が転がりはじめていて、そろそろここも引き払うべきかな、とハーディが言った。
キャンプの移転は、それから二日後に決定した。
十数個設置されていた黄色い、赤い蝶の刻印されていたテントは半数が無人になった。
アリヤおばさんが死んでしまった後、シータは誰にも何にも言わずにキャンプを出て行った。
残っているのは、僕とルルワ、母さんとハーディとナディアさん一家だけになった。
当然の事だけど、人手が足りなくなって段々と生活が苦しくなった。
新しいキャンプ地は市街地からかなりの離れた森の中に設置された。
一日中物資を探して帰ってきたハーディが「何もなかった」と苦しそうに言う日が増えた。
ハーディ一人に全てを任せているわけにもいかないから、僕達も手分けをして小動物や食料を探して歩いた。
何かを食べれる日は二日に一度、そんな日が続き出した頃だった。
苦しい生活だったけど、いいこともあった。
ハーディのテントの中から出てこなかった母さんが、テントから出て簡単な労働をし始めた。
それは薪を集めたり、食べられる野草を集めたり、の簡単な仕事だったけど、僕達はそれにとても助けられた。
くたくたに歩き疲れて帰ってきた時、キャンプ地の中央に設置している焚き火からいい香りが漂っていて、僕はびっくりしたものだ。
すまなそうに僕をみた母さんが、「ラウワンの実と野草があったから」とだけ言った。
それは聞き慣れた母さんの声そのものだったので、僕は戸惑って立ち尽くした。
母さんはそんな僕を見て、悲しそうに目を伏せた。
そして黒い鍋をゆっくりかき混ぜた。
僕は何を話すべきか考えた。
考えている間に、僕の手をルルワが引いた。
ルルワは嬉しそうな、楽しそうないたずらっ子の笑みを浮かべて僕の手を握っている。
仕方ないから僕は火のそばにきて、シートの上に座った。
その隣にルルワも座った。
あまり間をあけず、母さんがまた言った。
「食べる?」
僕は頷いた。
ルルワは微笑んで、「いただきます」と言った。
木のスープ皿の中に、ラウワンの実がゴロリと転がる。
ほくほくしてて少し甘い。
塩を吸うシャシャの葉っぱが入っているから、美味しかった。
奥に少し苦味がある。
スープを吸ったルルワが、母さんを見て言う。
「美味しい!」
母さんが答えた。
「よかった」
スープを飲んで僕は思い出した。
父さんの顔や、小さなエタナが口の周りをべちょべちょにしてこのスープを飲んでた事。母さんの優しい声。
スープを啜った。
胸の奥と鼻の奥が痛くなった。
美味しい。ずっと飲んでたスープだ。
あの頃よりは水っぽくて、あの頃より美味しくはない。
でも、今は何よりも美味しいスープだ。
鼻を啜って、浮かんできた涙を手で拭った。
僕を見たルルワがそっと僕の背に手を添えた。
「美味しい」
と僕は言った。
もう戻ってこないエタナを思い出したから。
もう戻ってこない父さんを思い出したから。
そして、戻ってきた母さんがそこにいるから。
エタナの前で、泣き顔なんか見せたくなかったけど、涙はどんどんと流れてきて、木のスプーンを持った手もぶるぶると震えた。
情けない僕の姿を母さんと、隣のエタナが黙って支えてくれていた。
その日はみんなでラウワンの実のスープを食べた。
ナディアさんもイレさんも、ハーディもなんだかいつもよりは柔らかい笑顔で、火の元に集まった。
ナディアさんの胸に抱かれているホープが、ほぐしたラウワンの実をエタナみたいに食べているのを見て、僕は小さい声で笑った。それを見て母さんも笑った。
その日は思った。僕達はまだ生きられる。生きていける。炎は暖かくて夜は静かだ。アーレーイムワット。日々の糧に感謝を。水と恵みに感謝を。隣人に感謝と赦しを。全ての罪と困難を打ち砕けますように。
母さんが働き始めて数日経った。
僕は久々に母さんと話がしたかったのだけど、母さんは相変わらずハーディのテントで寝泊まりしている。
ハーディのテントから抜け出て、今日はウサギのスープを作るって笑った母さんの後ろから声がかかった。ハーディだった。
「二人とも、少し助けてくれないか。大きな物資を調達したんだけどね、一人では待ちきれない」
イレやナディアさんは二人で水を汲みに行っていたし、ルルワは薪を集めに行っていた。
キャンプに居たのは僕と母さんだけだったし、大きな物資、と聞いて僕達はいろめきだった。
二日間、あたためた水しか飲めていなかった僕と母さんは一も二もなくハーディの背中について行った。ハーディが岩山を歩く。
ここはコヌヒーという僕の国の中でもかなり高い位置にある、ダイヴァレーという崖だった。
すぐ下にコヌヒーの街が一望に見渡せる。
崖を背に作られたコヌヒーの王宮を中心に、半円に広がった砂漠色の街が広がっているけど、高い建物は殆どが破壊されていた。
左を見れば永遠に続くような砂漠の景色、黄色い砂の山が幾重にも連なって青い空を切っている。
また風が出てきた。砂漠を見て立ち止まっていた僕にハーディが声を掛けた。
「この辺はイムワットの観測地域でね。あの向こうに砂丘が見えるかい?あの辺りによくイムワットが出没して外殻を温めている」
イムワット!僕は目を見開いた。
隣にいた母さんも同じように目を開いて、ダイヴァレーの切り立った崖の端まで二人で身を寄せた。
ハーディが指を指した方向を二人で見る。
イムワットは真っ黒い大きなミミズみたいな外見をしていると聞いていた。
「どこ?」
と母さんの声が聞こえた。
僕は指と手を限界まで伸ばして、「あっちだって」と答えた。
その時、砂丘の向こうに黒い影が見えた。
黄色い砂が舞って、真っ黒いエナメル質の外殻が輝きながら砂の中から現れた。
反射した光が目に届く、キラキラとプラチナの発光をしてイムワットの体が砂の中に潜っていく。
僕は母さんの背中に手を添えて叫んだ。
「母さん!すごい!すごい、イムワットだ!」
母さんの感極まった声が耳元で聞こえた。
その瞬間、母さんの背中に添えられていた僕の手に大きな温かいものが覆い被さってきて、母さんの体を押した。
え、と母さんを振り返った。
けど、もうそこに母さんは居なかった。
僕のそばにはハーディの横顔があって、ハーディの目が崖の下を眺めていた。
僕も同じ場所を見た。
そこには僕に手を伸ばしたまま落ちていく母さんの姿があった。
手を伸ばした。届かない。母さんのヒジャブが風に煽られて右に流れている。
僕の腰紐が何かに掴まれてて、母さんのそばに行けなかった。
息を吸っている間に、見えなくなった母さんの体が崖の下で乾いた大きな音を立てた。
崖に反響したその音を聞きながら、僕はゆっくりとハーディをに振り返った。
心臓が痛くて耳の奥がキンキンしている。
立てない僕の体を引いたハーディが僕を抱きしめて、それから僕の顔を両手でおおった。
ハーディは美しい男だ。深い彫りを持って高い鼻を持って、美しい青い目をしている。綺麗なハーディは微笑みながら僕に言った。
「君は悪くない」
呆然としてハーディを見上げる僕の唇にハーディは深いキスをした。
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