エッセイを書く? 私が?

 エッセイを書くことについて実は悩んでいた。


 今まで創作小説……それも鉄砲活劇だけに注力してきた人間が、病を機に執筆の休筆を言い渡されて突如として永いライフワークを封じられた。



 個人的には天変地異の驚きだった。


 だが、自分の筆力は本当に創作物にしか通用しないのか? と疑問が浮かんだ。TRPGのシナリオならかなり長く書いていた。だが、それも創作物だ。


 エッセイが書けるのか甚だ疑問。未だに疑問。何を以てエッセイとするのか判然としない。何となく分かるのは、日記は自分の内側に封じる物で、エッセイは人に見せるのが前提の物ではないか? ということだ。


 永い間、習作に明け暮れる。で、習作でクリアしたと思った課題を本番の原稿で試す。本番を公開した途端にメタ認知の自分が出てきて、「推敲が甘い」「私ならこの部分はこうしていた」「ここのコレ、コレがお前の弱点だ」と煽る。で、課題が増える。


 正直、クリアした課題の数より、増える課題の数の方が多い。増える速さも異常だ。


 作品を公開したのなら、次はさらに自分的に面白いと思う作品を書きたくなる。書かねばならないという強迫観念すら抱く。


 書いている作品が鉄砲活劇という手前もあるが、ディティールは無視できない。人物の必然性のある動作や台詞も無視できない。具体的に言うと、【M1911A1をフィストグリップで握りアソセレススタンスで構えた】と固有名詞のオンパレードで書かなくとも、描写だけで、読んでいる『素人さん』にも分かるように書きたい。特定の知識しか吸収していない層にしか受けない小説は私の専門外だ。



 そんな頑固な拘りで今まで執筆してきた。



 そんな頑固者が拘りを忘れてエッセイを書こうとしている。



 毎日、エッセイを書くことを考えた。何故エッセイにそんなに執着しているのかは自分でも不明。仮説としては、毎日何かを書いていなければ落ち着かないだけなのだろう。カロリーを大量に消費する創作物よりも日々の思うことを思うまま書き殴って公開すれば曖昧なガス抜きが完了するとでも勘違いしたのだろう。


 根底は、何か書きたいのだ。


 今できることで……消去法的に今の自分ができる事を選んだ結果、エッセイだった。SNSの延長線と変わらない記事。テキストファイルで書いてフォルダに仕舞って終わりにしないのは、恐らく、エッセイとしての『読み物』として仕上がっているか試してみたかった。


 これが自分の様々な病の闘病記なら恐らく、問題は無かった。時系列に書くだけでも闘病記としては成立する。


 だが、そこに混乱を投じたのは、世の中の様々な【エッセイの書き方】のハウツーだ。それは私にとって大変楽しい物だった。全く知らない世界のガイドブックのようで書籍からネット記事から読み漁った。


 結果として自分のエッセイとは? と熟考する間もなくありがたいハウツーが脳味噌に蓄えられた。


 私の頭は実にチョロイ。影響を受けやすい。感化されやすい。



 そして冒頭に戻る。エッセイを書くことについて考えていた、と。


 エッセイとは何ぞや? と哲学回廊に嵌った心の変わりようをレポートしても面白いかな? などと考えるほどだ。


 これも勉強だと思うことにしたい。


 自分のフィールドの、鉄砲活劇小説以外で自分の筆力がどれくらい通用するか試すのも面白いかもしれない。




 まだ暫く、隔靴掻痒の思いに悶えながら模索したい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る