読書ノート

 読書ノートを再び始める。

 昔は記憶の定着を促すためと感動を忘れないために片っ端から読書して自分なりに感想や要点をまとめていた。


 時間は流れ、日常に忙殺される歳になると読書ノートを書かなくなったばかりか、隙間の時間を活かしたいという思いが間違えた方向に進んでしまい、さっさと読める、脳の負荷の少ない娯楽小説ばかりになった。


 その状態が長く続いた。娯楽小説なのだから娯楽だけを享受すればいいと考えればそれまでだが、お金を出して一回読んでもう二度と本を開くことはない、なんてことが重なる。これではお金を出して本を購入したのにスナック菓子感覚で消費しているだけだ。


 最近、もうそろそろ落ち着く年齢に差しかかったのだなと強く思うところがあり、自分を顧みた。


 結果、例え娯楽小説だろうと実用書だろうと、一回読んでポイと捨てるのはなんと勿体無い事かと、心を改めて、再び読書ノートを書き始めた。


 読書ノートを書いていると生来の貧乏性なので、一粒で二度おいしいという感覚が楽しめる。その上、自分でまとめた要点や感想なのだから、タイトルを読んだだけで記憶が掘り返されて瞬間的にその本の内容も連鎖するように思い出す。


 更に最近になって気が付いたのだが、読書ノートの効果なのか、二次的効果なのか、感性が培われているような気がする。雲の流れや傾く太陽、街の喧騒を体感して、直ぐに心の中でそれを留めようと反芻している。「珍しい雲が出ている」「あの雲は……明日は晴天だな」「何百年も前の人間だって同じ雲を見ていたのだろうか」などだ。


 これは恐らく、読書の傾向が年齢で変化して、随筆やレポートを読むことが多くなったからだろう。


 若い頃はハードボイルドしか読まない! ガンアクションしか読まない! と息巻いていたが、そのままでは『成長していない』のではなく『視野が狭いまま』の人間が出来上がるだけだと思秋期独特のアイデンティティの模索に突き当たったのだ。事実上の加齢だが、加齢は絶望ではない。実りある人生の刈り入れ時の入り口に差し掛かったのだと思う。

 生まれたからには病と老いと死からは逃げられない。ならば歳が移ろいゆくままに今この時を楽しむのも良かろうと解釈した。野生の動物は歯が抜けると先が短いが、人間はリタイヤしてからが長い。


 いつまでも若くはないからと歳を重ねるにつれて諦める事や可能性は減っていくが、それに甘んじることも無い。

 手元に残った『数少ないできる事』や『低くなった可能性』を楽しむのも豊かな年の取り方ではないだろうか?


 読書ノートの再発見はそんな人生訓を一つ書き加えてくれる出来事だった。


 人は感情から老いるという。

 ならばその老いを防ぎ遅らせ改善させる方法の一つが読書ノートではないかと思った次第だ。

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