第10話 邂逅

 玲香は教室に入り、座席に座るとリュックの中からお気に入りの小説を取り出して栞のページを開く。一度ページを閉じて左耳にワイヤレスイヤホンを装着する。また栞のページを開いて小説を読む。薄茶色のカバーが皺を寄せていた。


 小説のタイトルは『紅の契り』。ある良家の男は、亡き母の言いつけで4歳離れた妹を、母親代わりとして、兄として、隈なく愛して暮らした。男が十八の頃、妹は一四であったが、家に恋人を連れてきた。男は、妹とその恋人の様子を襖越しにのぞいた。二人はキスをして愛を語らった。男は、言いやれぬ怒りを覚えて、台所へ向かい、包丁を取り出して、恋人を刺し殺した。妹は驚いたが、男の殺人を黙ることにして、男と妹は家の庭に元恋人を埋めた。妹は男の愛を汲み取って、生涯添い遂げる契りを結んだ。


 玲香は特に好きなシーンがあるページを開いた。男が、仕事の同僚に妹との関係を暴かれて、それを言い降らされた。男は自らの感情に疑問を抱き、これは母の言いづてによって洗脳された感情で自分のものでは無いのではないかと妹に言った。妹は、優しい笑みを浮かべて言った、「関係ないです、あの日の兄様の行動が私を気づかせてくれました。私は兄様を愛していると。そして今、そうやって真剣に私のことで悩んでくれている兄様を見て愛おしいと思いました。俗世の語りなど飽き足らず、我々のこの恋の行く末は、私たち以外には呪わせません。」。そして妹は、手元にあった和紙の角を使って男の指先を切り裂き、出てきた血を舐めた。自らの指先を切り裂き、出てきた血を男に飲ませた。「これは私たちの、邪魔する甲斐などない、契りです。」と妹と男は更に愛を深めたのであった。


 玲香は初めてこの部分を読んだとき、涙を流した。愛を決めるのは、自分自身で、他人など気にする必要は全くない。もともと玲香の信念は、曲がることを知らなかったが、より硬く強固なものになった。


 文字をなぞって想像した。秀人と、こんな美しい契りを結ぶ姿を。なぞる指先をページの紙の角に当てがって、もしこの小説で切って出た血を兄さんが啜ってくれたらと内心悶えた。


「なになに、彼女にプレゼント?」


 弾んだ声が左耳に響く、心地の良い秀人の声を劈く、穢らわしい声だ。ああ、同じクラスの里佳さんか、と玲香は思い出した。いつも秀人に理由をつけて話しかけるやかましい女。玲香は気分が悪くなって、小説をしまった。しかも、「あんな美人な妹にかまけてばっかじゃ・・・」なんて余計なことを言っている。ここでさっきの小説の妹を思い出して、他人など気にしてはダメだと自分に言い聞かせた。秀人が渡辺という日直のペアと話していた時に言った「自慢の妹」という言葉を頭の中を反芻させた。玲香はにやけそうなのを我慢した。



 秀人が顔を上げると、そこには玲香がいた。秀人はだじろいで尻餅をつく。すぐに立ち上がったが言葉が出ない。なんでここにいるんだ、と言いたかったが自分をコントロールできない。しばらく向かい合っていると玲香が口を開いた。


「私、兄さんが何をしてもいいと言った。確かに言った。でも、恋人って何?しかも兄さんが恋人っていう言葉を口にした。わからない、意味がわからない。別に兄さんが何をしていようが構わないと思った、私が兄さんに愛を注げばいいと思った。だけどその言葉を聞いた瞬間、もう抑えられなくなった。」


 玲香は身体を震わせて、声を震わせて、声の芯を太らせて言った。

 秀人は玲香に視線を合わすことができなかった。目が泳いで、自分の周りの世界がぐにゃりと曲がって見えた。カラオケの廊下はどこまでも長く終わりのないように思えた。


 二人の間に真空が生まれ別の世界の飛ばしたか、そう思うように時が止まっていたところ、華澄が部屋から現れた。


 華澄は「秀人さんどうしたの」と言いながらドアを開けて出てきたが、玲香をみてすぐに口を開けて固まった。玲香は華澄をギッと睨むようにした。


「な、なんだ玲香隣の部屋に来てたんだ。なら言ってよ。」


 華澄は不自然にちょけるように言った。


「私、我慢できないかもしれない。」


 玲香はそういうと廊下を歩いて行き、角を曲がると見えなくなった。


 秀人は開いた目が閉じず、ただその場で心臓を鳴らしていた。まずいかもしれない、なぜだかわからないけどマズいかもしれない。ひたすら目に焼きついた玲香の目の奥の闇を思って震えた。隣にいる華澄もそんな秀人の様子にただならぬ情を覚えて、「今日は帰ろう」と言って、お互い別々に帰った。


 秀人は家に帰ったら何と言い訳しようと考えた。その言い訳を考えれば考えるほど、なぜ誤魔化す必要があるのか疑問を抱いた。あのカラオケの部屋で華澄とキスをした後、確かに湧き上がった感情を思い出して、恋人になろうと言ったことを本心であると確信した。何より、秀人に恋人ができれば、玲香が引き下がってくれるかもしれない。言い訳などせず、素直に玲香を突き放せばいいではないかと合点した。


 強い決心を胸に玄関の扉を開くと、玲香の靴が端に綺麗に並んでいた。これはいつものことだ。靴を脱いで玄関を上がり、ダイニングに行くが人の気配はしない。カラオケで歌ったからか喉が乾く。冷蔵庫を開き、ドアポケットに入っている水のピッチャーを取り出して、コップに注いだ。それを勢いよく飲み干して喉を潤す。もう一杯飲もうとピッチャーに手をかけた瞬間、突然、強い頭痛に襲われた。世界が震動して視界が定まらない。秀人はキッチンの床に倒れた。その時、秀人の耳には、鉄がカラカラと床を擦れる音がこだましていた。

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