第3話 血

 秀人はその日の授業が終わると帰る準備をしていた。


「秀、今日暇?私今日部活ないんだけどお茶しようよ。」


 里佳が秀人の顔10cmない距離から話しかけた。秀人は特に表情を変えず、顔を遠ざけながら言った。


「うーん、さっき言ってたプレゼントのことで今月はお財布事情がちょっとねえ。玲香の誕生日の後に父の日もあるからできるだけお金使いたくないから。ごめん、来月また誘って。」


 里佳は最初、目を輝かさせながら聞いていたが、途中から断る理由を述べていることに気づきつまらなそうに下を向いていた。


「わかった。私、なかなか放課後に時間割けないから、次誘った時は絶対来てね。」


 里佳はいつもと違い、冷め切った態度で言った。その後里佳は、すぐに教室を後にした。


 放課後、秀人は部活には所属していないので基本的にまっすぐ家に帰っている。趣味のギターに没頭するため、往来する人々の群れを風を切るように通り過ぎた。その最中、頭から切り離しくても切り離せないことがあった。今朝の玲香のことである。自分の部屋で起こったこと、直接目の当たりにしなくても想像がついた。部屋に篭った熱気とスプーン。艶のある声色。ピースを当てはめれば答えを出すのは簡単であった。秀人は、考えぬようにより足を早めた。足を早めた直後に道端の電柱に頭を強くぶつけてしまう。額から血が出て、傷ができてしまった。急いでリュックからハンカチを取り出して、血を拭う。秀人はここで初めて自分が動揺していることを強く自覚する。


「とにかく、何もなかったかのように、振る舞う。ただそれだけに集中しよう。」


 自分に言い聞かせるように言った。リュックからイヤホンを取り出して、秀人の好きなオルタナティブロックを適当にシャッフル再生した。音量は大きかった。


「た、ただいま。」


「おかえり兄さん。」


 家に着くとすでに玲香が帰っていた。そのことに少々戸惑いを隠せながったが、すぐに持ち直してリビングに進んだ。するとすぐに秀人の顔を見て玲香が言った。


「どうしたのその傷、すぐに消毒しないと。」


 玲香は目を見開いてひどく心配そうに言うと、透明なボックスから消毒液と絆創膏を取り出した。秀人は、このくらい平気だと言いたかったが、玲香が手を引くところが想像できなかったので素直に椅子に座った。テーブルを照らすライトが点滅を始めた。


「そのハンカチ、血を拭き取ることに使ったんだよね。私、洗濯するから貸して。」


 玲香は突然息を荒くして言った。秀人は玲香の様子に違和感を感じ、その差し出された手を一度見た後に、もう一度玲香の方見て言った。


「いいや、だめだ。俺の血がついている。これは自分で洗う。これだけはダメだ。」


 いつになく強い口調の秀人を見て、玲香は少し驚いた表情を見せ手を引っ込めたが、すぐに怪しげに笑って繰り返した。


「ううん、大丈夫。血には触れないようにする。私にやらせて、兄さん。」


 玲香ははっきりと、それでいて落ち着いた、澄んだ声で言うと、秀人の手からハンカチを取り上げるとそのまま洗濯機の方へ向かった。秀人は、理由はわからないがそんな玲香に怖気付いて固まったまま動けなかった。

 

 テーブルを照らすライトの点滅が治まると、秀人は我に帰ったように瞳孔が開いた。秀人は玲香の様子が気になって、洗濯機のある方へ向かうと玲香が洗面台の前でまっすぐ立っていた。その様子が鏡に映り、秀人の目にも写った。秀人は咄嗟にドアの影に隠れてのぞいた。玲香は、目を細めてうっとりとし表情で何かを顔に押し付けている。よく見るとそれは血のついたハンカチであった。玲香は、押し付けたハンカチの匂いを息一杯に吸い上げた後、唇の前に持っていき舌を這わせた。秀人は動けずその様子を見ることしかできなかった。彼女は立ったまま体を捩らせて震えていた。ハンカチの血のついた部分に舌を押し当てて、血の鉄っぽい味を感じようと必死であった。


 彼は二つの選択肢で悩みジレンマを抱えた。他人の血のついたハンカチに口をつけるのは本当に危険であった。そのことを伝えたいと言う気持ち。そして、家族として玲香と今まで通りの生活を送りたいと言う気持ち。リビングのライトが、さっきよりも激しく点滅し出した。今朝のことや今起きていることを鑑みれば、玲香の気持ちは一目瞭然であった。しかし、玲香は妹であり、大切な家族である。両親が家にいることの少なかった生活でたったひとつの愛が育まれてきた。兄妹愛、基、家族愛。それらを乗せた宇宙船が頭の中の宇宙を飛んでは、小惑星にぶつかって砕けた。秀人は「愛」を守るために、リビングのテーブルに黙って戻った。


 点滅は止んでいた。外は梅雨、激しい雨が降り始めていた。


 しばらくすると、玲香が戻ってきた。


「今日は、ハンバーグを作ろうと思うの。楽しみにしててね。」

 

 玲香は満足そうに言った。


「うん、楽しみにしているよ。」


 秀人は精一杯の笑顔を作って見せたが、それは不器用でぎこちないものであった。玲香はその表情に気づいてた。


 秀人は部屋に戻って、マーチンのアコースティックギターを取り出す。慣れた手付きでペグを回して、普段はあまり引かないNirvanaの曲を激しく弾いた。しかし雨の音は掻き消えることは無かった。

 

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