彼女は独りで旅立った
桃瀬もも
彼女は独りで旅立った
生きづらいと感じ始めたのはいつからだろう。みんなが当たり前のようにできることが、私にはどうも難しくて、情けなかった。
空気が読めなくて、周りの空気に馴染めなくて、友達がいなかった。周りの楽しそうな様子に、どうして自分はそう出来ないんだと劣等感で涙が出た。
「死にたい」と文字にすることはとても簡単だ。でも声に出すのは恐ろしかった。心臓がひりついてドクドク脈打って頭の中に暗い波が押し寄せてくるから。冗談のように自虐のように「死にたい」というあの子たちに心がザワザワした。この感覚はとても嫌いだ。
周りは暖かった。優しい人もたくさんいた。こんな自分に優しくしてくれるなんてなんて良い人なんだろうと思ったことも沢山ある。でもその度に、自分との差を感じて苦しくなった。
得意なこともなかった。何もかも中途半端で、途中で何かをすることが怖くなって、そのうちに挑戦することすらやめてしまった。
比べられるのが怖かった。出来ない子のレッテルを貼られるのは嫌だった。可哀想な子だと思われたくなかった。
周りの目が気になった。この人は私のことをどう思っているんだろう。そんなことを考えているうちに、なんだか悪口を言われているような気がしてきた。
私は私が嫌いだった。強がって好きだと言った。情けない自分も愛していると言った。でも本当は違う。世界で1番嫌いなのは自分だった。
自分が「できない子」ということを認めたくなかった。見下していたあの子と一緒だなんて嫌だった。
見栄を張って上を向いて歩いた。胸を張って歩いた。私は可哀想じゃないって、できない子じゃないって。
そのうちに擦り切れて疲弊して、なんでもないのに涙が止まらなくなった。思いっきり誰かをぶちたくなった。なんで私ばっかりと思った。みんな憎かった。大嫌いだった。私よりできる人がいるせいで私は生きづらい。死んでしまえと思った。消えてしまえと思った。
でもふと思った。私が死ねばいいんだと。死ねば全部開放される。悩まなくなる。嬉しいことも楽しいこともあったけれど、苦しくなることの方が多かったから、それでも良かった。
でも結局死ねない。あんな恐ろしいことできない。テレビでみた人気芸能人の自殺のニュース。あんなにみんなに愛されてるのに、みんなが持っていないものを持っているのに死んだのは許せなかった。怒りが湧いた。元々好きだったけど、嫌いになった。
その子とであったのは高校2年になった頃だった。
違うクラスだったその子は、太陽のように明るかった。でもなんだか私と同じ匂いがした。
本を読みながら、スマホを弄りながら、ときどきその子を盗み見た。たまに感情が全部抜け落ちたように瞳に何も移さなくなる時があった。同類だと思った。
でも彼女と私は全然違う。
彼女は馴染む努力をした。私はしなかった。そこに大きな隔たりがあることはわかっていた。だから話しかけることもしなかった。
その日は日直だった。夕暮れに1人ぽつんと教室に残って日誌を書いていた。日誌と言っても一言二言だけですぐ終わるものだから、書いてさっさと帰ろうとしていた。
「鈴木さん」
不意に名前を呼ばれた。驚いて声の主を見た。彼女だった。
「居残って何してるの?」
彼女は人好きのする愛らしい笑みであった。
「日誌書いてたの」
「あ、そっか。今日は鈴木さんが日直だったもんね」
よく覚えてるな、と思った。その日の日直なんて覚える気がないから放課後には忘れている。
「鈴木さんっていつも黒板綺麗に消してるよね。丁寧でいいなぁと思ってたんだ」
急に褒められたので驚いて小声で「ありがとう」とだけ言った。
「鈴木さんって、学校楽しい?」
突然そんなこと聞いてくるだなんてデリカシーのないやつだと思った。見ればわかるだろうと言いたかった。
「別に、普通」
「そうなんだ!私はつまらないなぁて思うよ」
何がつまらないのだろうか。一緒に笑い合える友達もいて、順風満帆だろう。腹が立った。
「人の目ばっかり気にしちゃって。友達が多いっていうのも大変だね」
「なにそれ」
声に少しだけ怒りが滲んだ。それでも彼女は気にせず続ける。
「無駄だよね。何が楽しいんだろう。ほんと、つまらない。早く死にたい」
「何が言いたいの?」
なんなんだ、こいつは。そう思った。
「……あれ?鈴木さんは思ってないの?死にたいって」
「思ったことない」
「えーウソ。死にたいって雰囲気いつも漂わせてるのに?」
「漂わせてない」
「ホントだよ。だからみんな鈴木さんに近寄らないんだよ」
私は黙った。
「みんな言ってるよ。鈴木さんって何考えてるかわかんなくて怖いって」
「くだらない」
なぜ本人に言うのだろう。こんな奴でもクラスで友達ができると言うのに、私というやつはなんて情けないのだろう。
「ねぇ、一緒に死のうよ」
「は?」
「死のうよ。一緒にさ」
「死にたいなんて言ってない」
「でも思ってるでしょ」
「思ってない」
「ウソだぁ」
そろそろ鬱陶しくなってきて私はカバンを乱暴に持つと彼女から出来るだけ遠ざかるルートで扉へと向かった。
「待ってよ」
その言葉を背中に受けながら私は帰路に着いた。
寝る前にスマホを見ると、トークアプリに友達認証通知が来ていた。
彼女だった。
『さっきはごめんね』
私はそれを無視した。
それから彼女はうざいくらいに私に話しかけてくるようになった。
「鈴木さん!……愛ちゃんって呼んでいい?」
「やだ」
「愛ちゃん。うんうん、いい名前。可愛いし」
いつの間にか名前で呼ばれるようになった。
「愛ちゃんっていつもお弁当だよね。私いつもコンビニだから羨ましい!美味しそうだし。ねね、この卵焼きちょうだい?うどん1口あげるから」
「やだ」
「そこをなんとか!ね?ね?」
いつの間にかお昼を一緒に食べる仲になった。
「愛ちゃん愛ちゃん!駅前のパフェ食べに行こうよ」
「やだ」
「えぇー。愛ちゃんの好きないちごいーっぱい載ってるやつだよ?」
「……行ってもいい。奢りなら」
「やったぁ!ほらほら、行こ!」
いつの間にか放課後一緒に遊びに行くようになった。
季節は巡っていつの間にか雪がチラつくようになった。
私は今、彼女の隣にいる。
彼女は赤く染った頬を半分マフラーに埋めている。
「愛ちゃん、私、死にたいなぁ」
「へー」
「一緒に死んでくれる?」
「やだ」
「そっかぁ。残念」
このやり取りももう何回目だろう。彼女が誘い、私が断る。テンプレすぎて飽きてきた頃だった。
「愛ちゃん、今、楽しい?」
「……」
楽しいよとは言いたくなかった。
「そっかぁ」
彼女はニコニコ笑って言った。
「なにが」
「楽しいって顔に書いてあるよ」
「書いてないよ」
「ウソつき」
「ウソじゃない」
ある時、本当に放っておいて欲しかった私は「友達といなくていいの?」と尋ねた。
彼女は不思議そうにキョトンとしたあと、「あー」と言った。酷く冷たい顔だった。
「私の友達は愛ちゃんだけだもん」
「友達じゃない」
「えぇ!?この前アイス買ってあげたじゃん」
「……」
「無視よくない!」
また季節がめぐって春が来た。高校三年生になった。彼女とは同じクラスだった。
「愛ちゃん、私たち同じクラスだね!」
「最悪」
「ひどい!」
彼女があまりにも面白い顔をするので少し笑ってしまった。
「あ、笑ったでしょ」
「笑ってない」
「笑ったもん。そんなに私と同じクラスで嬉しいんだねぇ、そっかそっか」
「嬉しくない」
「ツンデレ」
「ツンデレじゃない」
夏が来た。進路決定はもうすぐ締め切りだ。
「愛ちゃんは進路決めた?」
「○×大学」
「そっかぁ」
「あんたは」
「え、気になる?気になっちゃう?」
「じゃあいい」
「ごめんって。私は……うん、私も○×大学にしよ」
「そんなノリで決めちゃダメでしょ」
「いーのいーの。こんなの別にこだわったって仕方ないんだから」
「仕方なくはないでしょ」
その日はいつも通りの朝だった。クラスで3番目くらいに教室に着いて、受験勉強をしていた。
「愛ちゃん愛ちゃん」
いつもの脳天気な声とはまるで違う、追い詰められたような声だった。
「今日は早いね」
「そんなことどうでもいい。ちょっと来て」
真剣な様子の彼女に違和感を覚えたが、大人しく手を引かれて、空き教室へとやってきた。
彼女は私の手を掴んだまま、ずっと俯いている。
そしてパッと顔を上げると、目が真っ赤に充血していた。大泣きでもしたのだろうかという程に。
「一緒に死んでよ」
縋るような声だった。
「お願い。一緒に死んで」
「なんで」
「私嫌なの。もう嫌なの」
「なにが」
「これ以上生きてたら、私、もう壊れちゃう」
「なんで」
「わかんない。わかんないのに苦しいの。辛いの。心が痛いの。締め付けられるの」
「なんで私が一緒に死ぬの」
「1人は嫌」
「私と仲良くしてくれたのは、このため?」
酷く乾いた声が出た。自分でも驚くくらいに。
「そうだよ」
急激に心が冷えきっていくのがわかる。
「友達って言ったのは嘘?」
「ウソじゃない」
「じゃあなんで」
死ぬなんて言い出すのだろう。
「辛いことでもあった?」
「辛いことばっかり」
「嫌なことされた?」
「嫌なことばっかり」
「苦しかった?」
「ずっと苦しい。上手く息が出来なくて苦しい。心臓が締め付けられて苦しい」
「どうして死にたいの?」
「これ以上苦しいのは嫌。悲しいのは嫌」
「私がいるよ」
「愛ちゃん一緒に死んでよ」
「私は一緒に生きたいよ」
「ウソつき。ずっと死にたがってたくせに」
「今は違う。あんたのせいだよ」
「違う。愛ちゃんは今も死にたいって思ってるよ」
彼女は私の右頬に手を添えて目をじっと見つめてくる。私はそれに応えるように見つめ返した。
「死にたいなんて思ってないよ。あんたがいたから。あんたがいたから私は楽しいんだよ」
「私が死んだら、愛ちゃんはまた独りだね」
「あなたは死なないから大丈夫」
「死ぬよ」
「死なないよ」
「死にたいの」
「本当に?」
「本当に」
始業のベルが鳴る。それでも私たちはその場を離れなかった。
「愛ちゃんお願いだよ。私を独りにしないで」
「独りになんてならないよ。私がいる」
「愛ちゃんは苦しくないの?辛くないの?」
「苦しかったし辛かったよ」
「じゃあなんで」
「あなたがいたから」
「愛ちゃんごめんね。もう疲れたの」
「休憩してもいいと思うよ」
「違うの。もうダメ。1歩も歩けない」
「じゃあ背負ってあげるから」
「違う」
「なにが」
「私死にたいの」
「うん」
「一緒に死んで欲しいの。背負ってなんて頼んでない」
「ねぇ、私、あんたに生きて欲しいよ」
「ダメだよ。苦しいから」
「どうしたら苦しくなくなるの?」
「死ぬしかないよ」
「何がそんなに苦しいの?」
「わからない。わからないのに苦しいの」
「本当は苦しくないんじゃない」
「本当に苦しいの」
「分からないよ。どうしてそんなに苦しいのか」
「愛ちゃんはきっとわかるよ。だって、一緒だもん」
「どうして?」
「だって、生きづらいでしょ」
「それは……」
友達ができたからと言って、私の不甲斐なさが無くなる訳ではない。心臓が一気に冷える。
「私が居なくなって、そしたらどうする?」
彼女は私の頬を親指で撫でる。
「独りぼっちでまた悲しいよ」
「あなたが死なければいい」
「ごめんね。もう決めたの。でも寂しいから、愛ちゃんも一緒に逝こう」
「私は死な……」
そう言いかけた途端、彼女は私のお腹の辺りにすがりついてきた。
「お願い。お願いだよ。ひとりにしないで」
切実さが滲む声だった。
顔を上げた彼女と目が合う。瞳は涙で潤んでいた。充血もしていて、可哀想なくらいだった。
多分、彼女は本気で死ぬつもりなんだと、ようやく覚った。もうどんな言葉も、彼女の心まで届きやしないのだ。
「……わかった」
私がそう言うと、彼女の瞳が期待で煌めく。
「でもごめんね。私はどうしても死ねない」
「なんでっ」
「死ぬの怖いから」
「2人なら怖くないよ」
「やりたいこともいっぱいあるし」
「でも生きてたら悲しいことも辛いことも沢山あるよ」
「いいの。楽しいこともあるからいいの」
私はそう言って静かに彼女の腕を解いた。
「私を見捨てるの?」
「違う」
「違わない」
「違うよ。これは意見の相違だよ」
ここがきっと分かれ道なんだとは言わなかった。まだ彼女が生きるという希望を捨てられなかったから。
そんな祈りを裏切るように、彼女は「そっかぁ」と呟くと、立ち上がった。
「残念だな。バイバイ」
今迄のやり取りはなんだったのかと思うほど呆気なく、軽い挨拶だった。
彼女が学校に来なくなってから1週間が経ったある日、先生から彼女の訃報を知らされた。私が最後まで名前を呼ぶことが出来なかった彼女は、苦しみも悲しみもない世界へと旅立ったのだ。不思議と悲しみは訪れなかった。
彼女は独りで旅立った 桃瀬もも @momose_momo
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