109 鳳凰暦2020年5月5日 火曜日朝 小鬼ダンジョン


 ああ、朝の、彼の観察時間が……なくなってしまいました……。


 私――平坂桃花は、全力で走っても、どんどん離れていく彼の背中を見つめながら悲しさを堪えて小鬼ダンを目指します。


「うわー、やっぱ速いなぁ。さすが元陸上部」

「鈴木くんのこと?」

「うん。全校集会とか、壇上で表彰されてたから、県大会で上位入賞だったはず。運動会とか、マラソン大会とかも、すごかった。マラソン大会は学年別だったけど、3年連続1位。2年の時には、3年まで含めて、タイムは全校で一番速かったような?」

「へー、すごいねー」


 心の中では彼の中学時代に関する完璧なメモを書き残しながら、相槌を打ちます。


 小学校でもリレーの選手には常に選ばれていたはずです。3年生と5年生で、一緒に走りました。ただし、私は第一走者で、彼はアンカーでした。一応、バトンは間接的に渡せた、ということで納得しています。


「陸上部の先生、長短どっちかに絞れば、おまえみたいに全国行きだったのにって、言ってたなぁ」

「長短?」

「長距離種目と短距離種目。どっちもすっごく速かったんだ、鈴木くん」

「ふーん」


 私と設楽も、彼に続いてゲートを通り抜け、小鬼ダンへと入ります。3日目なので、設楽も走って攻略することについては、何も言わなくなりました。


 ああ、でも、今日は……彼が先に進んでいますから、私たちは戦闘なしで……あれ? ゴブリン? あ、設楽が倒しましたけれど……。


「……どうして?」

「鈴木くん、先に入ったから、ゴブリンはいないと思ってた」

「そのはず……あ、まさか別のルートで?」

「最短ルート、知らなかったりして?」


 ……それは有り得ません。私が何も言わなくても、一度も間違えずにボス部屋まで進んだのです。


 つまり、後から入る私たちに気を遣って、わざわざ遠回りの別ルートを利用した、ということでしょうか? それでゴブリンが残って? そういう彼の優しさなのでは? あ、いえ、女子生徒にモンスターを残しておくのが本当に優しさなのかどうかは疑問が残りますけれど。


「とりあえず、どんどん行こう、平坂さん!」


 設楽が元気よく走り出したので、私もそれに並びます。


「よーし、鈴木くんを追い越す!」


 ……おそらく、それは不可能だと思いますけれど、設楽の心を折る必要は特にないので、そっとしておくとします。


 そして、ボス部屋前です。設楽が扉を押してもびくともしません。リポップ待ちです。予想通りですけれど、ため息が出そうです。


「……うーん。入れない」

「リポップ待ちだねー。ここのボス部屋は誰かが一度倒したら、5分間、待たないと入れないんだよ。ガイダンスブックにあったよね?」

「あー……あった、かも?」

「……設楽さん、もうすぐ第一テストだけど、本当に大丈夫?」

「うん! 必殺で最強の裏技に頼るつもりだから!」

「……カンニングとか、絶対にダメだから?」

「そんなことはしないってば」


 そのタイミングで、一度、ボス部屋の扉が光りました。


「あ……」

「リポップしたみたい。入ろうか」

「……ね、平坂さん。あたしたちがここに来てから1分くらいでリポップした、よね?」

「そうだけ……あ……」

「鈴木くんはあたしたちより4分くらい早くクリアしたってこと?」


 ……設楽の言う通りです。同時に校門をスタートして、ゴールのボス部屋までに4分差がついています。しかも、最短ルートは私たちが使いました。彼は、遠回りを走ってなお、私たちよりも4分早く、ボス部屋をクリアしたのです。


「……鈴木くんって、何者?」


 ……彼は、私に、私に対して興味がない人、興味が薄い人も世の中にはいると、そう教えてくれた、それで私の心を救ってくれた人、です。


 設楽に対して、それを口にすることはありませんけれど。


 平坂家当主の、分家とはいえ、末の孫娘の私。その私にすり寄り、群がるたくさんの人たち。

 お祖父さまの溺愛ぶりも、それに拍車をかけて、本当に子どもの頃から、嫌なものを、人間の嫌な部分を見てきましたし、見せられてきました。特に男性や男の子の……。


 もし、彼と出会ってなければ、彼が私にあのような姿を見せてくれなければ、私は今頃、どのような人間に育っていたことか。


 設楽のような、底抜けに明るく、悪意がない、本当の善人にさえ、疑いの心を持って、心の奥底では冷たく見つめて、そうして壁を作ったままで接していたことでしょう。外村との間に、友情が芽生えることもなかったでしょう。男子は、まあ、どちらにせよ、どうでもいい存在ではありますけれど。今以上に冷たくあしらっていたかもしれません。


 今、設楽と親しくしたいと考える私がいるのも、元を辿れば全ては彼のお陰なのです。


「……尊敬すべき実力を持つアタッカーなのは、間違いないみたいだねー」


 私はそう設楽に答え、ボス部屋へと踏み込みました。


 いつか、あの背中に、私は必ず、追いつきます……追いついてみせます……。





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