第20話 続く 道

 江戸、神田川河川敷。

 ある日の夜半に武家屋敷の一角にて、昼が訪れたと言わんばかりの閃光が発した事件。それは一時衆目の耳目を騒がせ、瓦版に乗るほどであった。

 が、それは同時期に起きた甲州の変事が厳重な箝口令下におかれたこともあり、ただの不可思議事以上には昇華しなかった。直ぐに町衆はそれへの興味を失い、やがていつもと同じ日常へと回帰していった。いつの世も、世人の多くは1つの出来事にそれほど長く興味を持ち続けられないものである。

 そんな江戸の河川敷である。早朝ともあり人はまばらであるが、童やその親が連れ立って歩いていたり商家の使いが往来したりしている、所謂日常の風景。その中に溶け込んでいる杖をついて散歩している1人の老僧に、警戒や注意を払おうとするような物好きは誰一人としていなかった。

 ましてやその老僧、カツリカツリと杖を鳴らしつつも足取りはしっかりしており、時偶はしゃぎぶつかって来た童を皺だらけの顔で優しくも諭す様は敬慕は与えられても警戒を希求するものではない。ある人は「どこぞの名刹の高僧かしら」などと連れと語り合い、ある人はチラと横目で見過ごし、またある人は端から無視するなど、各々通り過ぎて行く。

 そして、その老僧がさも歩き疲れたかのように河川敷の松林に残る切り株によいしょと腰を掛け、袖口で額の汗を拭ると一言、

「して、首尾は?」

 と消え入りそうな声で呟いた言葉に耳を傾けられた者はいなかったであろう。木の上の仮面間者、その1名以外は。

「その前に南光坊殿、拙者が届けた刀についてはご確認頂けましたかな」

「検めた、間違いなく石田正宗。しかしな泣丸よ、何も寝屋に忍び込むことはあるまいて。ああも見事に忍ばれては、お抱えの忍び衆を罰せざるを得んではないか」

 お互いに目と目を合わせるでなく、フッと笑う。

「それであれば、ご無用に。彼の者たちは拙者に『気付いては』おりましたので」

「・・・気付いておっても、忍び込まれまんまと逃げられておれば、同じ事よ」

 そんな事より、と天海は懐より取り出した扇子で胸元をあおぐと、「で、首尾は?」と先ほどと同じ問いを繰り返した。

「首尾とは・・・これは異な事。拙者と貴殿がこうして話せておりますことが何よりの証では?」

 そう嘯く泣丸であったが、装束よりはみ出たる胸元や腕に巻かれた包帯が何とも痛々しい。

「若し、主殿がしくじっておいででは末法の世に逆戻り。こうして天海殿が呑気に外をうろつける余暇はありますまい」

「そして、お主もこの世の者では無い、か。大怪我を負っても良う口は回るようだが・・・おふざけは止せ」

 一瞬、その言葉と同時に陽気が氷ついたかのような緊張が走る。傷痍の身と言えどそれを察せぬ泣丸では無い。声の調子を1段真剣な方へと落とすと、

「ふむ・・・であれば拙者は本来、語る口を持ちませぬ。しかし、この身は主殿の名代でもありますから、事の経過はお話ししましょう」

 そうして泣丸は滔々と、四郎丸が果心と出会い最後の戦いに赴くまでを手短に話す。天海もそれを「然もありなん」という顔で、要所要所でこくりと頷きつつ聞いた。

「・・・そうして主殿は、拙者へ名代として石田政宗を貴殿へ返す事と、万一失敗したなら事後の策をとる事を命じられ、死地へと赴かれました。これで足りませぬか?」

「いや結構、良う分かった。・・・そうか久秀め、あいつがそこまで・・・やはり、血は争えぬか」

 万感噛み締めるよう呟く天海に対し泣丸は少し意外に思った。主殿よりこの御仁は大層人でなしと聞いていたのだが、よもやこの人は知音ならば情深きお人なのだろうか。

「して、僧正殿。お伺いしたき事が」

 しかし、例えだとしても泣丸にも従者として譲れぬものがある。思いで険走りそうになる声音を務めて低く保ち述べると、

「何故、四郎丸を用いたか、か」

 これまた意外にも、詰問するより早く天海自ら口を開いた。

「御明察。果心殿より伺いましたが我らが赴くより前、既に術士が送り込まれていたそうで。であれば―」

「上田の仙石家や御用番の渡辺家など、より適任の者がおった、とでも?」

「左様に。いくら主殿が腕利きとしても、それは飽く迄人間の強さ。斯様な、魑魅魍魎まがいの化け物退治を任されることは今までありませんでした」

「で、あるな。儂も奴に裏仕事はさせても、外道仕事はさせたことはありはせぬ」

「だのに、此度においては何故?」

 言葉使いは丁寧だが、その言葉にある鋭さを隠そうともしない。滲み出る殺気も相まって、戦国の世を生き抜いた天海ですら、背中に冷たいものを感じた。

「・・・さらば泣丸よ、主人である四郎丸、その身の上はお主も知っておろうな?」

 話を逸らすな、と言いかけて泣丸は口を噤む。少々血が上っていたが、居丈高になって良い相手では無いのだ。

「しっかと」

 だから、大きく鼻から息を出し、逸る心を抑えると天海の話に乗った。

「江州生まれの重臣杉山源吾様を父としながら、傍女の子であることから兄君より白眼視を受け、幼きより早道之者の郷へ預けられた。との事ですが、しかし」

「しかし?」

 予想外の単語が続いた事に天海は少し眉を顰め、鸚鵡返しとなった。それを感じた泣丸は少し愉快そうに鼻で笑う。居丈高にはならぬが、意表を突くことは禁じられてはいないのだ。

「そう、しかし。それは真っ赤な嘘。主殿のお父上は源吾様では無く、同時に母親も端女傍女などでは無いのです」

「・・・それを、儂に言うても良かったのか?」

「はい。拙者が主殿へとお仕えする際に、吉成様より『全て』を聞き及んでおりますので」

 そう、瞼を閉じればその時の吉成様の声音がついこの間のように蘇る。まるで、それを口からそのまま出すかのように、泣丸は言葉を紡いだ。

「母君は荘厳院辰姫様、父君は辰姫様が一時坂本に寄寓しておられた際にお出会いになった一色義喬なる御方と」

「成程、それはまた興味深い話であるな。しかし・・・それでは荘厳院と四郎丸、生没年が合わぬのではないかな?」

「この期に及んで、その弁は見苦しゅう御座いますぞ天海僧正」

 はぐらかすような天海の台詞に、叩き付けるようにびしゃりと言い放つ。

「拙者は『全て』を聞かされた、そう言った筈です。産まれたばかりの主殿へ秘術を用い今生の理から外し、荘厳院様の死後その枷を解いた上で源吾様へお預けになったのは貴殿、南光坊天海なのでありましょう」


 何とも、奇妙な光景だ。少なくともこんな河川敷で行うような話では無い。

 その異質な雰囲気は自然に人払いとなっているのか、多くの人が行き交う河川敷ながら、2人の周囲には不自然な位に誰も留まろうとはしなかった。

 泣丸が炮烙玉の如き一撃を見舞った後、しばしの沈黙がその場に漂ったがようやっと、天海がポツリと呟いた。

「・・・あれは、敏い女子であった。腹を抱き、この子を殺すとあれば妾も死ぬ。さすれば津軽は関ヶ原の折の石田方に対する細川家の如く、決して徳川家に従いはせんようになろう、とな。・・・儂を脅しつけるような奴は久方ぶりに見たわ」

 その当時を思い出したのか、天海は喉の奥で「くくく」と笑った。

「彼の石田治部も唯々諾々と従うタマでは無かったが・・・その血は左程かと思うたわ。まったく惜しいことよ、彼の者がすんなり猿への義理立てを止してくれれば、儂もここまで苦労はせなんだものを」

「ほう!」

 その繰り言に、思わず泣丸も小さいながらも驚きの声を上げた。この御仁がそれほどまでに主殿の父祖を評価していようとは。

「ふむ、意外か?」

「え!・・・ええ、まあ」

 そんな考えを読まれたか。さっきとは逆に意表を突かれて狼狽する泣丸に、天海は「主に似て分かり易い」と独り言ちるように呟いた。

「して泣丸よ、お主ならば父君、その正体は知っておろうな」

「は。一色義喬とは一色藤長の養子、しかしてその実父は第十五代室町殿、足利昌山義昭その人と」

「左様、左様。何とも・・・因果な話よ。戦国の世が終わり数十年、松永と義昭公の子孫が阿波公方の息子と対峙するなど、な」

 親の因果が子に報い、と続けた天海の表情は当時を知る者だからだろうか、どこか物憂げに陰っていた。

「しかし拙者も吉成様よりお聞きした際は大層驚きましたが・・・それが事実たれば、主殿の扱いにも合点がいくというものです」

 何せ、主家たる津軽家当主信義様の父信枚様の生母が荘厳院様という事は、だ。徳川家の治世となって以後、今に至るまで2度に渡る御家騒動のあった津軽家である。若し四郎丸がその身分を明かしておれば、かつての室町将軍の血筋と現当主の血筋を持つ存在である。担ぐにせよ何にせよ、それこそ津軽家を屋台骨ごと吹き飛ばしかねない存在となったはずだ。

「しかし僧正殿。いくら公には大罪人石田治部の娘と言ってもよくも輿入れ前の、それも関ヶ原以前のまぐわいまでご存じでおられたものですな」

 揶揄するように述べる泣丸に、「違う違う」と天海は首を左右して否定した。

「馬鹿者、そうでは無い。儂が見張っておったのは室町将軍、その血筋の者全てよ」

 そう言って、天海は皺だらけの指で「鎌倉公方、平島公方・・・」と指折り数える。

「もう、殆ど残ってはおらぬがな。かつて上様が義昭公を追放した折は藤孝殿のお役目だったがな、猿が死に大権現様が権勢を得た後は儂が引き継いだのよ」

 その言葉に、泣丸は少し「おや?」と思った。室町将軍の血筋を監視していたのなら、あの義弼なるものの凶行なぞを、如何して防ぎ得なかったのだろうか。

「しかし、それにしても赤子を封じるとは・・・。僧正殿も無茶をなさる」

「まったくよ。主君の為と思うてそれを飲んだは良いが、儂も大変じゃった。何せ赤子を生かしつつ封印するというのは悪霊の封印とは訳が違うでな。加えて引き受け先の重成も一度死にかけおるし・・・」

「甲斐無き繰り言はそこまでに。して僧正殿、それと今回の事柄について、何か関係が?」

「おおありじゃよ。その義喬は正室より産まれた嫡子義尋と異なり、義昭公が傍女に手を付け産まれた者でな。故に猿の目を誤魔化して一色殿が養子と貰い受けることが出来た訳であるが・・・実はその傍女、義昭公が鞆に拠点を移された折に松永が娘と称して送り込んだ間諜でな」

「何と!」

 それが事実ならば、何という運命の巡りあわせだろう。

「確かよ。してその間諜であるが、他人は信用ならぬと南蛮人から聞いたらしい外法にて、果心の奴が自身の血肉を用いて造りし肉人形とか」

 外法にて造る肉人形と言えば、泣丸にも聞き覚えがある。確か『ほむんくるす』とか。

「そこまで言えば、お主も分かろう。彼の四郎丸は系図上は松永の曾孫、肉人形とその母体は同一の存在とかいう理屈でいけば孫にあたる、そういうことよ。術士の件は儂も聞き及んでおる・・・流石に式霊とは予期しておらなんだが、松永一人でどうこう出来る事態では無いとは推察出来たのでな。されども人間不信を一度は極めたあ奴の事、生半可な人物では同行すらままならぬ」

「ほう?拙者が話した限りでは、そこまで難しい人物とは思えませなんだが」

 しかし、天海は「違うのだ」と首を振る。

「表向きくらいは取り繕う。問題は窮地の折、存亡の折じゃ。あ奴は『武家」という奴に主君と息子を殺されておる。そんな奴になまじ経験のある武者を補佐につければ・・・どうなると思う?」

「恐らくは・・・『武家の』理屈と理念で説こうとするでしょうな」

 成程。であれば破局は目に見えている。

「そういうことよ。であればむしろ、場慣れしておらず、さりとて鉄火場には慣れておる奴が望ましい。まして、会うたことは無いと言っても肉親とあれば、の」

 そこまで聞けば、泣丸にも合点がいった。

「つまりは果心殿に合わせた人選であった、と」

「それに、四郎丸の奴も肉親の情に恵まれぬ男であった。悪い取り合わせでは、無かったであろう?」

 確かに。コクリ、と大きく首肯した。

「そう聞かされれば成程、合点がいく場面も思い返せば幾らも御座います。しかし、果心殿はそのことを御存じで?」

「いや、知らぬ筈じゃ。あ奴が信貴山で自爆に見せかけ行方を晦ました際に信上様抱え込みの術士からの追捕をいなす為、それまでに自分が編んだ術の一切合切を切り捨てた、と言っておったからな」

「当然、その時にその肉人形との線も切れた、と」

「左様。それに、その後は一度も義昭公の前に姿を現すことは無かった故、それに子がおることすら知らぬであったであろうよ」

 成程、と泣丸はもう一度大きく頷いた。少し会っただけとは言え、彼女の為人は善良なものだと分かる。よもや、我が孫を放っておくようなことはあるまい。

「・・・・・・であれば、それは良きことですな」

 何時かの、主が果心を指して言った言葉を思い出す。何のことは無い、主殿はそう言われずとも果心が自分の大切な人だと察する事が出来ていた、人の愛情というものから縁遠いお方がそれを無意識にでも感じられていた。

 そのことが、泣丸は無性に嬉しかった。

「されば、拙者が果心殿へ渡した書簡にはその旨が?」

 その問いに、天海は皺だらけの顔を満足げにくしゃくしゃと歪める。

「左様。そもそも、あ奴をこの一件へ関与させるために儂が示した報酬が『血縁者が生存しておる事を教えてやる』事であったでな。まあ、奴は大方、自身への人質とでも考えたであろうが」

 蓋を開けてみれば、何と他愛無いことであろうか。

「・・・更にもう一つ、松永らへ渡した書簡には細工がしてあってな・・・」

 その悪だくみを聞き、その意図を読み取った泣丸は大きく目を見開くと、やがて天海と同じような心地で相好を崩した。

「・・・それは。それは、良う御座いましたな」

「で、あろう?」

 本当に、そう思う。心から、主に幸あれ、と。


「さて天海僧正殿、子細は理解致しました故に、これよりは今後のお話しをさせて頂きたく。主殿との約定、如何に?」

 先の感動的な話は兎も角として、後を託された泣丸にとっては最も重要な事であるのだろう、その声もどこか先走っている。

 しんみりとし、それでいて朗らかな空気を漂わせていた天海も調子をいつものように戻して「呵々」と笑うと、

「儂を誰と思うておる。今お主に言うたような苦労を律儀に果たした男であるぞ、あの程度の約束程度が果たせいでか」

 そう言って、軽くパンと畳んだ扇子で座る切り株を叩いた。

「安心せい、儂の目が黒いうちは津軽家に無用の差し出口は、例い将軍であろうとさせん。無論、目に余る乱行でもあれば話は別だが・・・それで良いかの?」

「有り難きお言葉。それを聞いてこそ、拙者も生き恥をさらして貴殿へ遭い見えた意味があるというものです」

 ホッと胸を撫で下ろしている泣丸には悪いが、幕府の方針として改易の基準を緩めるようしている最中であり、やたらめったらと口を出すのを止めるのは別に津軽家に限った話では無い。

 しかし、死線を潜り、生き恥を晒してまで情報を届けてくれた代償が他家と殆ど変わらぬ、というのは如何なものか。天海としてはそんなバツの悪さもあり、他に褒美を与えることにした。

「そう、それ。加えて儂はお主のその忠義にも報いねばならぬな。何か申してもよ泣丸よ、儂に出来得ることなら叶えてやろうぞ」

「は?い、いや僧正殿、拙者は何も成してはおりませぬのに、そのような過分を頂戴する訳には―」

 しかし、天海はその抗弁に対してヒラヒラと手を振って見せる。

「良い良い。それに義弼とやらの身元がその通りなら、儂が見逃した室町の残滓のしでかしを防いでくれたということになるからな」

 その礼だと思え、と言う天海に、「ならば」と少し顎に手を当て考える泣丸だったが、

「では・・・拙者にお預けになった関所の免状。あれを、今しばらく変わらず使わせて頂きたく」

 パンと柏手を打ってそう答えた。

「ほう。儂に口を利かせれば国元にて要職を得る事も、江戸にて権勢を揮う事も能うと言うに、その程度で?」

 意地悪気にそう述べる天海だったが、そんなものに興味も関心も無いのは分かり切ったことである。当然のように、泣丸は「左様で」と郁子なくその申し出を切り捨てた。

「なあに、少し行きたい所がありましてな」

 泣丸としては事も無げに言った心算であったろうが、流石にその言葉の裏にある狙いを読めぬほど、天海は耄碌していない。

「謀るな。子細を申せ」

「流石、敵いませんな・・・実は彼の由井正雪が配下の式霊が一体まだおるはず。それを、追いたいのです」

「ふむ・・・しかし泣丸よ、現に正雪の野望は砕かれ現世は平穏なまま。確かに式霊を逃したというのは求める所では無いが・・・しかし、自らの主を捨て置いて逃げたのであろう?左程の警戒が要るのかね」

「先は省略しましたが、その式霊の動きには聊か理解できぬものがありました。かくかくしかじかの・・・」

「・・・まるまるうまうま、と。して、儂を謀ってまで行きたい在所があるという事は、その式霊がおる場所にアタリがあるとでも?」

 その言葉に、泣丸は「いいえ」と小さく首を振る。

「確実には分かりませぬ。が・・・その式霊、その装束と果心殿が聞かれた『とうびわ』という渾名からその真名に思い当たる節が御座いまして」

「それを、儂に言う気は」

「若し此度の事変において他に黒幕がいるのなら、それは即ち主の仇。何よりこれを討たねば従者の本願とはなりませぬ。故に、仮に禁じられた仇討ちにあたろうと、これは拙者が為さねばならぬことです。どうかご容赦を」

 一片の曇りもない、その言葉。

(若いな)

 その熱い言葉を聞いて天海は、自身が既に捨て置いてきた若さを、少し羨んだ。

「・・・良かろう。だが」

「だが?」

「儂も天下の治世に関わる者、手前勝手は許せぬ」

 まして、仇討は武家の権利。本人が言う通り、いくら従者とは言え武士で無い泣丸の所業を、陰ながらでも幕府に立場のある人間が見過ごすことは出来ないのだ。

「よって、お主は今より儂の配下として扱う」

 それは!と気色ばむ泣丸を手で制すると、

「心配するな、形だけのことよ。それに、儂が貰うたとあれば如何に津軽家や早道之者といえど表だって反対は出来ん。お主としては小まめに情報だけ儂に寄越してくれれば、あとは好きにやってくれて構わぬ。勿論、場合によっては儂の依頼をこなしてもらう事も、あるかもしれんがな」

 許されなかった場合は国元の法も祖法も投げ捨て行うくらいの勢いだった。ならばある程度の手綱をつけ、天下御免上を与えておく方が差しさわりが無い。そう、天海は体制側としての冷たい目で判断した。

「承知。ならば急ぎますので、これにて」

「ああ待て、泣丸。お主、本当に果心らの行方は知らぬのか?」

 そう投げかけた問はしかし、誰にも届かず、ただ天海の耳には先程まで泣丸が居た松の梢がさわさわと鳴る音が聞こえるばかり。

「・・・やれやれ、気の早きことよ」

 それからも暫く、天海はせらせらと流れる川を眺めていたが、やがてようっと立ち上がると河川敷を元来た方へとカツリカツリと音を立て歩き去って行く。泣丸と同じく彼にもまた、身命を賭して為すべき事があるのだ。


 慶安の変。俗に由井正雪の乱と称されるこの事変は表向き、幕府の密偵に計画が露見した事により失敗に終わったと扱われた。しかし、改易により放逐され、政権に対し不満を持つ不貞浪人が市井に跋扈する事によって第2、第3の由井正雪が生まれることを危惧した老中阿部忠秋は祖法の見直しを提言。結果として改革は行われ、それまで認められなかった末期養子を認めるなど統治方針は大幅に緩和されこれ以降、江戸幕府は武断主義から文治主義へと大きく舵を切ることになった。

 幕府公式の記録は以上の通り。式霊や天海僧正に紙幅が割かれるようなことは無いし、当然のことながら杉山成枚や果心居士の名が記されることも無い。

 ただ、確かなのはこの事件以後も杉山家は津軽家中にて変わらず要職を全うし、その津軽家もその後200年に渡り領地を大きく減ずる事無く、幕府が大政を奉還するまで、日ノ本には世界にも比類なき平和な時間がもたらされた。


 それだけは、まごうこと無き事実である。


「ふーむ・・・参ったな、これは」

 鬱蒼とした森からようやっと抜け出し、その周囲を見回して四郎丸はポツリと呟いた。木々の植生や見かけた野生生物から半ば諦めていたがこうして見れば、現実は残酷なほどに一目瞭然だった。

「・・・こりゃ、間違い無く日ノ本では無いな」

 今、抜け出した森の周囲は一面の草原、そして森から少し離れた所には石畳にて舗装された道が稜線の向こうまで敷かれているのが見える。江戸は勿論、南蛮文化が流入したとされる大坂や博多ですら石畳が街道に敷かれたなどという話は寡聞に聞かない。ならば、

「一体何処なんだ、此処は?」

 続けざまに呟かれたその独り言は、困惑に満ち満ちていた。

「おお、抜けたか!」

 四郎丸の心配とは裏腹な、底抜けに明るい言葉が背後より投げかけられる。振り向けば、そこには袖や裾を枝やら何やらに引っ掛けたか、襤褸切れのようになった衣を纏った果心居士が不満顔で頬を膨らませていた。

 信じ難いが、これが我が祖母らしい。真に信じ難いが。

「しかし四郎丸よ、森を抜けたら声を掛けよと言うたであろう。儂はお主と違うて脚が強うは無いのじゃぞ、まったく」

「・・・お前、この景色を見て良くそんな事が・・・まあ、そうだったな。済まんかった、婆さん」

 そう発した瞬間、手に持っていたらしき木の棒がひょう、と喉元に突き付けられた。

「言うな、と言うたであろう?」

 ほどほどの殺意と共に、果心はスイ、と細めた目で睨めつけてくる。

「しかし、事実は事実なんだろう。他に呼びようも無いしな」

 だが、最早2人にとってその程度の殺意のぶつけ合いは児戯のようなものだ。いけしゃあしゃあとそう嘯く四郎丸の言葉が正しいことは明白で、行きようの無い怒りを果心は地団太を踏むことで発散する。

「今まで通り果心で良いじゃろ!まったく・・・流石の儂もよう気持ちを切り替えられんというに・・・ええい十兵衛の馬鹿たれめ、よりにもよって宛名をテレコになぞ、斯様な悪ふざけを!」

 そう、あの大爆発の後、俺たちは気付けば今出てきた森の中にいた。互いの無事を確認した上で、預かった書簡を読んでみよう、何が起こったか分かるかも、となったのだが、

「まさかとは思うが、何か意味でも・・・」

「そんな訳あるか!ただの嫌がらせじゃ!!」

 どう血迷ったか、果心に向けた書簡が四郎丸宛になっていたのだ。そのため、予期せず彼は果心と自分の関係性について知ることになってしまったという訳だ。逆を言えば果心も四郎丸の出生の秘密について知ってしまった訳だが、それについて彼女が悪びれる様子はまるで無い。

「さて・・・では果心、これからどうする?」

「はあ・・・はあ・・・。どう、じゃと?決まっておろう、あの道の先に言ってみるしかあるまい」

 ようやく怒りが収まったらしい果心がすいと指差すは石畳の先、稜線の向こう。

「道がある、ということは少なくともその先には村落が在る、という事じゃ。日ノ本かは分からぬが儂の術を使えば南蛮人じゃろうと明国人じゃろうと会話はお茶の子さいさいじゃ」

 兎に角、今必要なのは情報収集。その言葉に四郎丸は大きく頷いた。

「しかしの、それ以上に大切なのが・・・」

「それ以上に?」

 思い当たる節の無い四郎丸に対し、一変して真剣な表情になった果心。その変わりように、思わずゴクリと生唾を飲み込む。

「酒じゃ!」

「酒・・・・・・て、馬鹿かお前は!」

「馬鹿とは何じゃ、馬鹿とは!一昨日に細川の小倅に襲撃された時から、こちとら一滴も口にしとらんのじゃぞ!」

 本人は真剣なのかもしれないが、あんまりにもあんまりなその主張に思わずため息が漏れた。

「ああそうかい。・・・・・・まあ、あればいいがな」

「問題無い。街道というのはあれで中々に維持が難しい代物じゃ、石畳とくれば尚更じゃろう。荒れておる様子は無いから、少なくとも状態を保全しておる連中は居る筈じゃ、そして人がいる以上、酒類は必ずある。そういうものじゃて」

 こいつ、あの戦いの反動と断酒で本当に馬鹿になっているのではなかろうな。有り得そうで思わず、四郎丸は頭を抱えた。

「まあいいか、どうでも」

 動機は不純だが、情報を得るには人に会わざるを得ない。その動機だてということで、四郎丸は自分を無理やり納得させる。

「そんなことより、お前銭は・・・って、おい!」

 買うにしても、先立つものはあるのか。そう問いかけようと、抱えていた頭を上げ視線を戻せばそこに果心は無く、まさかと振り向けば街道へ向けてたったと走る黒髪が躍っていた。

「お、おい!?」

 慌てて周囲を見渡すが、野獣や野伏なんかの目に見える脅威は無いようだ。ホッと胸を撫で下ろし、やれやれと視線を再び果心へ向けると、こちらの気苦労を知ってか知らずか「おうい」とばかりにこちらへ手を振る果心の姿。

 その呑気な様子に、大きな溜息を吐き「まったく・・・」と独りごちるが、

「ま・・・確かに、悩んでいても仕方がない、か」

 それに、この今いる世界が自分たちに敵意を向けてくると決まった訳でも無い以上、警戒をするのは兎も角それで動けなくなる必要も無い。

 見上げれば、そこには日ノ本と同じく曇り無き青空が広がる。大きく息を吸い、眼前の祖母に倣うかの如く、四郎丸もたっと走り出す。


 日ノ本で無くとも、どんな場所であっても。前を向き走る若者の上の空は何時だって。

 そう、どこまでも青いのだ。

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