第16話 三者三様、五者五様

(苦しい)

 苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、苦しい―

 あれから、いったいどれほどの時間が経ったのだろうか。遷現の儀式で果心が最後の大音声を述べて以後、四郎丸に時間の感覚は無い。四肢からも感覚は消え失せ、まるで金縛りにでもあったかのように、ただ心のみが真っ暗な中空に固定されたような感覚に襲われていた。

「う・・・あ・・・」

 辛うじて口の端から漏らせられた呻き声のおかげで、何とか自分という意思を保てている。それが出来なければとっくに発狂していたかもしれないほどに、今の彼は無の中に取り残されていた。

 否、『無』だけならば良かったやも知れぬ。

「はっ・・・はあ・・・」

 閉じることすら許されぬ四郎丸の眼が捉えるのは、自身の周囲を囲う、どんよりした滓のような気味の悪いもの。目を瞑って逃げることの出来ない彼は、それの発する邪気がゆっくりと締め付けるように侵食してくるのをただただまんじりともせず見続けることしか出来ない。

 それは、只管心を蝕むような、心を砕くような苦痛。それが時間の感覚が失せた四郎丸を苛む。

(成程、これなら果心の奴も止める筈だ)

 だが、今それが分かっても何の意味も無い。後悔は先に立たないとはよく言ったものだ。ただ、不思議なことにその滓が発する邪気が心を苛むことはあっても、その滓自体が四郎丸を侵食してくる様子は無いようだった。

(果心の奴が持たせた護符とやらのお陰・・・か)

 生きて帰れたら、それこそ彼女には頭が上がらないだろう。いや、まずは謝罪をするのが先か?この後どうするかに必死に意識を集中し、四郎丸はなんとか自分を失ってしまうことから逃げ続けた。

「・・・・・・あ?」

 どれだけ経ったのであろうか。不意にそれまで周囲を覆っていた滓が、すうっと、まるで上空へ吸い込まれるかの如くに消え失せていく。

(・・・やっとか)

 この滓が式霊に依るものならば、それが晴れていくと言うことは即ち、魂が現世から涅槃へ帰って行くと言うこと。時間切れか、それとも果心たちが本懐を達したかのどちらかだろう。

「ん?」

 次第に心が晴れていくなかで何故か、昇っていく滓から憐憫、哀愁のような念を感じた。無念?執念?違う、これはもっと優しく柔らかい、それこそ彼が果心に感じていたのと同じような、親愛の情?

(かわいそうだ)

 そうだ、そもそもこれは俺に害を成しては無かったではないか、ならば。

(俺も・・・こいつと一緒に居てやる方が良い、のか?)

 そんな思いに、去っていく滓に心がついて行きそうになる・・・。

(―馬鹿者!!―)

 ガンと頭を叩くような衝撃が、四郎丸を不意に襲う。あっとする間に滓は遥か彼方へ。するりと四郎丸から去っていくそれは、まるで「さようなら」と言っているかのようで。

「ま、待て!」

 思わず伸ばしかけた手を、誰かが掴む。しっかりと強く、それでいて優しさすら感じられる温かさのそれに引っ張られ、四郎丸は中空より引き摺り降ろされた。


「う・・・く・・・・・・・」

 パチリ、と四郎丸の瞼が開く。さっきまで開きっぱなしだった瞼が開いた、

(・・・と言うことは)

 即ち、それは彼がさっきまでの夢現のような空間から戻って来れたと言うことだ。試しに全身へグッと力を込めてみれば、それに応えるかのようにトクンと心臓が脈動し、そこからじわりと四肢に感覚が走る。初めは指先がピクピクと、しかし直ぐに大腿や二の腕、腹部の筋肉が自由を取り戻す。

「ん?おお、四郎丸、戻って来たか」

 蠢いていた四郎丸の動きを察したのだろう、どこからか懐かしい、それでいてさっき聞いたばかりのような声が耳朶を打つ。

「・・・その声・・・は・・・果心、か?」

「当り前じゃろう、他に誰がおる」

 馬鹿にするようなその言い方も、不思議と今の彼には嬉しい。腕と腹に力を込めて上体を起こし、未だ頭を包み込むように残る重苦しさを払うようにブンブンと被りを振る。そうして「ふう」と大きく息を吐くとようやく、自分を取り戻したように思考が働きだす。じっとりと、全身にかいた汗が気持ち悪い。

「うん・・・・・・。ああそうだ、そうだった。そうだよな」

「お主、大丈夫かの?」

 声のする方を見れば、そそと近づいてくる果心が目に入る。その目は心配そうに揺れており、声の調子もどこかか細い。

「・・・ああ、大丈夫だ。儀式も上手くいったようだな」

 そう言ってニッとぎこちなく笑えば、果心も安堵したのか「ふう」と大きな息を吐いた。

「当たり前じゃ、儂を誰じゃと思うとる」

 ふふんと腰に手を当て鼻高々。やはり、こいつはこうでなくては。

「そうだな。それより・・・いや、何でも無い」

 つい、現世に戻って来る時に感じた頭と手の感触について問い掛けかけた四郎丸だったが、

(手を掴んでくれていたか、なんて、幼子じゃ無いんだから。まったく・・・)

 探求心よりそんな気恥ずかしさが勝り、寸前で思いとどまる。

「む?何じゃ、やはりお主・・・」

「何でも無いと言ってるだろう!それより・・・果心、勝ったか?」

 再び心配そうに表情をゆがめた顔の果心を慰めつつ、一番大事だと思う事を問うと、

「・・・むう」

 と、何故か果心はおかしな物を見るような目つきで、こちらを睨んでいた。

「どうした?」

「いや・・・うむ、気のせいじゃ。何でも無かろう」

 しかし、その顔は何でも無かった人間のする顔では無い。

「いや、待て!何かあったんなら・・・」

「じゃから、何でも無いと言っておろう!・・・それより、勝ったかどうかじゃと?お主と儂がこうしておる事が表しておろう、大勝利じゃ」

 それもそうだ。負けた、若しくは失敗したのなら、こんな風にお喋りを呑気にしている場合ではない。

「まったく・・・。じゃがの、やはり急ごしらえの遷現では、式霊を永く現世へと留めておくことは出来なんだみたいでのう」

「つまり、彼の人の魂は天に召された、と?」

「召されたか地縛霊となったかは儂の知るところでは無いがの。じゃから、お主の中に、式霊は欠片も残っておらぬ。・・・安心したか?」

「ん・・・まあな」

 勿論、敵の大将と他に式霊が残っているのにこちらの式霊が居なくなってしまったのは少々、いや、かなり惜しい。しかし、そもそも四郎丸が果心にこんな危ない橋を渡らせたのは<僧兵>を討つ為である。

「ま、目的の<僧兵>討伐が出来て、俺もお前も無事なんだ。上首尾としなけりゃ罰が当たるな」

「当たり前じゃ!コホン・・・よって、義弼を討つのはお主と泣丸、儂でなさねばならぬ。体の具合は問題無いかの?」

 何せ、上古にすら記録の無い、生きながらにして式霊の依り代となったのだ。体への不具合が発生するかどうかは流石の果心にも分かりかねるらしい。試しに肩や腰を軽く回すが、不具合は無いようだった。念の為と思い、刀を抜いて振るってみるが違和感無く動かせる。屈伸、軽い跳躍も問題無し。

「どうやら、大丈夫そうだ。・・・・・・ん?」

 刀を納める一瞬、異様な感覚が襲った。それは、心臓の辺りより何かが染み出すような感覚で、思わず目をやるがそこには何もない。

「いや・・・そんな・・・」

 更に探るべく、目を閉じて集中してみる。すると、その染み出しの気配は胸から肩へ回り、そして手の先より・・・、

「おい、四郎丸!どうした!?」

 その言葉に、ハッと我に返る。額に手を当ててみれば、さっき拭いた筈なのにじっとりと汗で濡れていた。

「おい、聞こえておるか、おい!」

 声の方へと視線を下ろすと、顔を蒼白に染め心配そうな表情の果心と目が合う。

「いや、何でも無い・・・筈だ」

「いやいや、冗談ではないぞ!見せてみよ」

 慌ててこちらへ手を伸ばし、具足を剝ぎ取ろうとする果心の眼は心配と不安で涙が零れそうになっていた。しかし、心配させたこちらが悪いのは自明の理とは言え、ここは敵地なのだ、落ち着いて貰わねばならぬ。まずは離れて貰おうとその肩を掴み引き剥がす。

「主殿、御無事で!!・・・・・・・おや、これは失敬」

 悪い折、というのはあるものだ。血相をかかえた泣丸が合流して来たのが、丁度その時だった。結構な勢いで藪から飛び出してきたにもかかわらず、四郎丸と果心の様子を見るや否な「ええと?」と、何とも間の抜けた声を漏らす。そして、ポカンとする両者をチラチラと見比べて、

「申し訳ない・・・続きを」

 と、よく分からないことを言い、藪の中へ去って行こうとする。そんな奇行に、思わず四郎丸たちも「は?」と顔を見合わせ―

「「!?」」

 ―その時、2人に雷が走る。

 よくよく考える。果心の両肩を両手で掴んだこの姿勢と、心配そうな顔で四郎丸を見上げる果心の表情。

(一見すると、俺たち!)

(接吻を交わす直前にしか見えないのでは!?)

 加えて言えば、そうして見合わせている様子も、まるで見つめ合っているようにしか見えない。想い人同士が。

 同じ結論に達したらしい2人はたちまち、ボンと顔を朱に染める。果心に至っては耳まで真っ赤だ。

「いやいや、主殿も良う御座いました」

 去り行く背中から届く感慨深げな独り言から察するに、泣丸は何やら勝手な勘違いをしている模様。気を使っている体で去ろうとする泣丸へ、2人は慌てて手を伸ばす。

 「「ま、待てぇ!!」」

 それは、死闘の後とはとても思われぬ、大層間抜けな光景であった。


「はは、左様で御座いましたか」

 失敬、失敬と詫びを述べる泣丸だが、その詫び言に真剣みはまるで無い。その様子を鑑みるに、先ほどのしんみりした雰囲気も芝居だったのではと勘繰りたくなる。

「はは。では無いぞ、まったく・・・」

「申し訳御座らぬ、拙者もとんだ勘違いを」

 フンと鼻を鳴らした果心は、ペコリと形ばかり頭を下げた泣丸からプイと顔を反らす。この件で果心を突いてみるのも楽しそうだが、生憎とそんな余裕のある現状ではない。泣丸が何をどう勘違いしたのかも含めて、この件はこれ以上触れない方が良さそうだ。

 そう判断した四郎丸は、一先ず果心を無視して泣丸へと視線を戻す。

「それで泣丸、血相を抱えて飛び込んできた割には随分と余裕だな。何があった?」

 尚、突いて痛い目を見るのは自分も、であることには気付いていない。

「ああ、そうそれですな。主殿・・・は、分かりませぬな。果心殿?」

 顔を背けていた果心は「何じゃ?」と不機嫌さを隠せぬ様子ではあったが、

「件の武蔵坊の件ですが」

 そう問われれば、顔を背けたままではおられまい。

「むう・・・何じゃ?」

 不承不承、四郎丸たちの方へ顔を戻した。

「いえ、確認なのですが。その武蔵坊に加勢はありましたかな?」

「む?多分・・・いや、おらなんだ」

「間違いなく?」

 いつになく強い語調に、果心も不安になったかパラパラと護符をめくり確認するが、そこにも何の異変も見えない。

「絶対に、じゃ。若し他におればこの符に反応があろう。勿論、儂の術を掻い潜れるほどの手練れであれば分からぬが・・・いや、そんな奴がおれば儂らは死んでおろう。間違いない」

 しかし、それを聞いて尚泣丸の様子は合点がいかぬ様子で、

「左様で。そうでしたら、よいのですが・・・」

 と、何とも歯切れの悪い。

 それを見て四郎丸としては少し疑問に思った。飄々と捉えどころのない風情を見せることもある泣丸だが、こと仕事においては真摯な男だ。少なくとも、信を置くと決めた者の発言を殊更に疑ってかかるようなことはしない。

「そう果心を苛めてやるな、泣丸。何があったんだ?」

 逆を言えば、だ。泣丸に何らかの強い確信がある、そういうことだろう。

「これは失敬。じつはあの時、麓へ向かう式霊の気配を感じましたのは、果心殿もお認めいただけますな?」

「うむ。これ見よがしな気配じゃった」

「しかし、拙者が辿り着いた時には気配も何もなく、麓の村も静かな様子で」

 その報告に、果心も四郎丸も揃って眉を顰める。

「で、あれば。若しやその式霊、拙者が一行を離れた隙を見計らって主殿へ挟撃をかけたのか、と愚行致しまして・・・」

「・・・で、あの剣幕、と?」

 はい、と頷く泣丸に、よもや嘘偽りは無いだろう。念のため、果心は符を使って探査を試みた。

「駄目じゃな、やはり」

 が、昨日までは不調ながらも使えていた探知の術は今日になって益々使い物にならないようで、肩を竦める果心の前をヒラヒラと舞い落ちる符はたちまちボッと燃え消えた。

「彼の武蔵坊が負けそうだから、隠密行で義弼の元に戻ったんじゃないのか?」

「しかしよ、四郎丸。ならば『何故儂らを襲わなかったのか』という新たな疑問が生まれるの」

 あの時、戦いが終わって四郎丸が意識を取り戻すまでの間、果心たちは間違いなく無防備だった。よっぽど変わった道を通らない限り、その果心たちを見逃す訳は無いのだが。

「ま、理由はどうでも良いや」

 蟀谷を親指で押しつつムンムンと考え込む果心とは対照的に、四郎丸はあっけらかんとそう言うと、スックと立ち上がる。

「問題は二つ。一つ目は、敵の本丸にはまだ式霊が居る。二つ目は、もう時間が無い。違うか?」

「左様ですな。首班がその式霊を麓の封鎖から呼び寄せた、とあれば即ち、逃げられても良し、間に合わぬと判断したということに」

「なろうかの。まあ、元より時間は無かろう」

 轟々と吹く、妖の気配を帯びた風はだんだんと強く、且つその濃度を増してきている。先に果心が述べたようなことが為されようとしているのなら、それは最早成就間近の様相だ。

「なら、急ぐぞ」

「うむ。じゃが、儂の術は探知においては使い物にならぬ。気をつけよ」

 それでも無いよりはマシと、両手に符を扇状に広げるが、その符も風に含まれる呪詛に影響されるのか、たちまち真っ黒に染まっていく。果心は顔を顰め、「駄目じゃ」と吐き捨てて符を投げ捨てた。

「では、拙者が先行しましょう。せめてそれぐらいはお役に立てねば」

「ああ、頼んだ。俺は後ろから見張っておく」

「良し・・・では、急ぐぞ」

 最早、どんなものが待ち構えていようが是非は無い。泣丸を先頭に小走りで走り出した2人を追いつつ、四郎丸はさっきの感触をもう一度試す。

「よっと」

 ブンと振るった腕の中。その中に一瞬感じた感触をもう一度、もう一度と果心に気付かれぬよう繰り返す。

(ま、コレを使うような場面が無けりゃ、それで良いんだがな)

 だが、そう考えつつも彼は確信していた。この『置き土産』を使わずに済む、なんてことは恐らく無いだろう、と。


 バシ、バシ、バシ、バシと義弼が扇を打つ音が堂内へと響く。しかし、彼がそれを打ち付ける先は、己の掌では無く堂舎の柱へだ。

「糞、糞、糞、糞」

 怨念のような言葉を漏らしつつ、苛立ちを晴らすかのように力づくで扇を打ち付ける。しかし、元より扇の用途はそれでは無く、打ち付けられる先も柔い肉体では無く柱とあれば耐えきる術は無い。それから何度目かの後、あえなく扇は2つに折れその命を終えた。

「糞う、役立たずめが!無駄飯食らいめが!」

 折れた扇を八つ当たり気味に床へと投げ捨てるが、この執念深い男の繰り言がそんなことで収まる訳も無い。そう吐き捨てると共に、拳を怒りに任せて柱へと2度3度打ち付けた。

 従来より人と殴り合ったこともない男だ、加減などできようはずも無い。戦人ではない男の柔肌はその衝撃でアッサリと裂け、そこからどす黒いナニかが覗いた。

「はあ、はあ。<僧兵>も<唐琵琶>も念話が通じん・・・やられたか・・・ええい、大言壮語しおった挙句がこのザマか、だらしの無い!」

 本来なら、果心を再び略取し儀式の贄とするか、最悪殺してしまった場合は遺体と隅で転がる<銃坊>と、戻って来た<僧兵>とを生贄にし、儀式を完遂させる計画であったのに・・・。

「これでは、あの果心めに、またもや孤らの目論見が、宿願が・・・・・・ん?待てよ・・・」

 そうだ、<僧兵>やらが負けたという事は逆に言えば果心は生きておる、ということ。そして、果心が生きておるという事は、

「ここに、果心が来るということ、か・・・この孤を殺しに」

 先ほどの憤怒は何処へやら、義弼はニンマリと喜色に塗れた、気色の悪い笑みを浮かべた。

「そう、そうか、そうなるか。ほほほほほ、そうか!であれば、良い、それで良い。それに、彼の者によれば共に来るのは・・・・・・ほほ」

 そうとも、果心が自身を止めに来るということなら来てもらえばいい。そして生贄にすればいい。仕留められずとも、動きを封じるくらいなら孤でも出来ようし、若しくは・・・。

「さあ、来い・・・早く来るのだ果ぁ心ん・・・孤の元へ、ウェヘヘヘヘヘ」

 脳裏へ降って湧いた僥倖に、やる気を燃やしだす義弼。そんな彼はついぞ気が付かなかった。先ほどついた手の傷が、いつの間にかスウと消えるように治っていったことに。


「何とも、な」

 そう、天海がポツリと漏らした言葉を己への叱責と勘違いしたか。隣の間に詰めていた近習の1人が「何か?」と襖越しに声をかけてきた。

「何でも無い。それより、庭木の手入れはどうなっておる?」

「は?・・・あ、ああ!は、はい、只今見て参りまする!」

 『場を外せ』という符号であることを思い出した男がドタバタと廊下を去って行くのを待っていたかのように、

「宜しいか?」

 と、天井裏より声がかかる。

「ふむ。先ほど・・・いや、もう数刻は経とうか。大和の術士より念話で知らせがあった。敵の首魁の正体と、その手勢、目的についてよ」

「ほう、であれば順当と」

 その楽観的な返事に、天海は思わず頭を押さえた。好く自分に仕えて長いこの忍びでも、この程度の認識だとは。

「順当、であれば念話でこんな話はせぬ。途中でどう漏れるか分かったものではないのだぞ」

 一郡内くらいなら兎も角、国境を跨いで念話を行えばその途中で妨害されたり傍受される危険性がグンと高まる。それを加味して尚、そうしたということは。

「それほど、火急に伝えるべきことがあったということよ。それくらい、言わねば分からぬか?」

 そう言われれば、梁上の君子も己の不明を恥じるしかない。

「申し訳御座いませぬ。で?」

 しかし、そうならば猶のこと、ゆっくり反省などは彼に許されない。いささかの無礼は承知の上で要件を急いた。

「それでよ。一つ、聞くが・・・ここより信州上田まで如何ほどかかる?」

「三日・・・いえ、二日もあれば」

「そうか・・・では、間に合わぬな」

 天海は、観念したように「ふう」と息を吐いた。

「しかし・・・いや、そうよ。うむ、そうそう・・・うむ。お主、出直して参れ」

 その言葉に、ガタリと天井裏が軋んだ。

「何じゃ、騒々しい。御庭番衆の名が泣くぞ」

「し、失礼を。な、何か拙者粗相でも?」

 その言葉に、今度は天海がハッとさせられた。確かにこれまでの話の筋と言い様であれば、そう捉えられても不思議は無いだろう。

「いや、そうではない。お主には一通、書状を頼みたい。それをしたためるまで中座しておれ」

 そう、言うが早いか天井裏の気配は霞と消えていた。陰陽術への疎さはさて置き、あれでも腕利きの忍びという訳か。

 それを確認して、天海はパンと大きく柏手を打った。高齢を召した身では、人を呼ぶのに声を出すよりこちらの方が良く届くのだ。

「は、は、はい、只今!」

 間もなく、バタバタと騒々しい足音と共に近習が問いかけてきた。

「書状を書く。紙と硯を」

「は、はい、只今!」

 そう言って再びバタバタと立ち去ろうとするのを、天海は「待て」と良く通る声で呼び止める。

「それともう一つ、使いを出せ。儂が行く旨を伝えさせておきたい」

「はい、何処へですか?」

 その当然の問いに、この坊主にしては珍しく苦々しそうに表情を歪めると、心底嫌そうに吐き出した。

「・・・いぞ」

「は?」

「酒井の・・・酒井雅樂頭の屋敷ぞ!」

 

 


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