第12話 想いの戦い

 時は暫し遡る。


「・・・・・・どの!・・・じどの!主殿!」

 肩を揺すり、呼ぶ声に重い目蓋を開ければ、そこは鬱蒼たる木々の中。鼻腔をくすぐる青い匂い、じっとりと感じる重苦しい湿気もそこが変わらず樹海の中であることを示していた。

「主殿、お気付きに!?」

「・・・ああ、聞こえてるさ、泣丸・・・うぐ!?」

 意識が戻ったと同時に、腹部に鈍痛が走る。その痛みは先程見せた醜態が夢幻で無いことを、嫌が応にも実感させた。

「そうか、俺は・・・っく」

 思わず顔を顰めたのは痛さ故か、それとも情けなさからか。

「無理なさらぬよう。果心殿の符のお蔭で臓腑や骨に支障はありませぬが、腹部と背部を強かに打っております。運の良いことで」

「運が良い?」

 間抜けにも敵の策に嵌り、鎧の無い腹を殴られて、守るべき対象を攫われた。まったく完敗と言っていい状況を運が良いとは。

「右手をご覧あれ。飛ばされたのがあと数歩右でしたら、恐らく命は無かったでしょう。まったく、運の良いことですな」

 そう言われ右を見れば根元から倒れ、掘り起こされた大きな切り株が逆向けに鎮座していた。乾燥した根は逆茂木にするほど鋭く固い。そこに叩きつけられたとあれば、いくら護符があろうと命は無かったやもしれぬ。

「成程、確かにその通りだ。して泣丸、果心の奴はどうなった?」

「果心殿は連れ去られました」

 その言葉に咄嗟に起き上がろうとした俺を、「お待ちを」と泣丸が制止する。

「連れ去ったという事は、あの大男もそう易々と殺してしまいはせぬでしょう。まずは落ち着きを」

 確かにその通り。そんな、直ぐ分かることが分からないほど動転した自分が嫌になる。

「そうか・・・しかし、あれから何日経つ?」

「安心召されよ、一日も経っておりませぬ」

 その答えに、ホッと胸を撫でおろす。四郎丸が<僧兵>と遭遇したのが昼過ぎで、今が朝靄立ち込める明け方ならば。

「確かにな・・・攫って、一昼夜経たずに殺してしまうことは無い、か」

「左様にて」

 しかし、それにしてもそれほどまで永く気を失っているとは。郷の大人衆に知られれば修行のやり直しと叱られるだろう。

「まったく・・・不甲斐ない奴だ。あ!そうだ刀、石田正宗は?」

「此方に」

 そっと、差し出された刀を受け取ろうと俺の手はしかし、スカと空を切る。

「・・・おい、遊ぶな」

「受け取られる前に確認を。・・・・・・これから、如何なさいます?」

「決まってるだろう。・・・よっと」

 今度は強引に奪い取って、刀を支えに立ち上がれば再び腹部と背中に鈍痛が走る。

「うっ・・・く」

 が、動きに支障をきたすほどでは無い。少し顔を顰めれば我慢できる程度の痛みで泣き言を言っていては、それこそ大人衆の皆に叱られてしまう。

「・・・・・・主殿」

「大丈夫。ああ・・・大丈夫だ」

 スラリと鞘から刀を抜けば、玉散る刃は歪み曲がり無く欠けも無い。次に鎧の具合を確認し、腕さばき足さばきを確かめると丁度鎧の無いところを殴られたからか、具足にも歪みや傷みは殆ど無いようだ。そういった点でも運が良かったと言えるだろう。

「良し。・・・助けに行くぞ」

「しかし、どうやって。果心殿を連れ去ったあの大男、手合わせせずとも見ただけで相当の手練れと分かります」

「だろうな」

 恐らく、今の俺では奴の『因果妙』にやられるだけだし、泣丸との2人がかりでも勝ち目は薄いだろう。

「加えて、他にも敵の手勢はおるでしょう。今のままでは返り討ちが関の山です」

 まったく、ズバズバとモノを言う奴だ。しかし、そんな直言に俺は被りを振ると、

「それでも、だ」

 行かねばならぬ、何があろうとも。

「何故にそこまで。今までも天海僧正からの依頼は数多ありましたが、果たせぬと見切りつけ、一旦撤退したこともあったでしょうに。何故、此度はそこまで」

 思えば、そうだ。俺はどうしてそこまでしたい。考えてみる、考えて、考えて、考えて・・・。

「分からん」

 アッサリと、そう言い切った。

「は?どういう―」

「まあ聞け。お前は知っていようが、俺は上野に上るまで謗られてきた。腫れものの様に扱われて来た、家族であろう兄上たちからも、だ」

「それは・・・まあ、そう・・・ですな、あれは・・・」

 泣丸が口ごもるが、それも無理はない。泣丸にとって兄は自分たちを統括する存在だ。あからさまな誹り文句に同意はし辛かろう。

「いい、言わなくとも。そしてその挙句、元服を迎えて直ぐに俺は上野へ放り出されてあの糞坊主の駒だ。」

 勿論、傍から見れば俺は恵まれているのだろう。飢える心配も無く、自身の望む通りに腕を磨けて、妾腹故に家の重責も無い。

 しかし、それは何かを為したと言えるのか。『飼い殺し』『籠の鳥』という言葉が頭をチラつきだしたのは、それこそ12の齢を迎えた頃からだった。

「俺があの糞坊主の仕事を果たそうと尽力するのは、国元へ貢献し、妾腹の俺を等しく杉山家の一員と認めて欲しいから」

「ええ。日頃、そのように良く仰っておられますな」

 ああ、と頷きつつ、

「だがな・・・そう口では言うが、本心としてはそんな事はどうだっていい。国元も兄上たちも、それらの事由は俺に何もしてくれなかったからな」

 その言葉に何故だろうか、少し泣丸が面の奥で悲しそうに表情を歪めた。そんな気がした。

「俺はただ、生きる実感が欲しかった。あの糞坊主の仕事や、そも国元から命じられたお役目を斯様に果たし続けたのは単純に、俺の存在意義、生きている事の意味がそれ以外に無かったからだ。仮に死んだとしても・・・」

「主殿!」

 流石に口が滑った。俺の身を守る従者である泣丸にとっては聞き逃せない話だろう。

「ああ、安心しろ。死んでもいいとは思うが、死にたい訳じゃない」

 そう言ってヒラヒラと掌を上下させてみるが、泣丸の纏う空気は強張ったままだ。

「それに、俺が今まで死に急いだことがあったか?」

「それは・・・」

 当然だ。俺は万能じゃ無いし、命を懸ければ何でも叶うと自惚れられるほどの手練れでも無い。実際、致し方ない事情で任務が果たせなかった事も1度や2度では無かったし、それで何か罰を受けた訳でもない。

「死んでしまっては仕事、俺の存在意義が果たせん。だから身命を賭してまで、ということはこれまで無かった」

 そういう意味で、身命を賭して俺に仕えようとする泣丸が俺には、少し眩しかった。

「しかし、何故か分からんが・・・・・・果心の奴に対しては、何故か違うんだ。自分の腕が足りぬからという理由だけで見捨てていい奴では無い、そう心が喚く」

 初めは寧ろ気に障る奴、厄介な護衛対象だとすら思った。しかし少し付き合っただけで言い知れぬ親愛さを覚えるようになり、そして先ほど、<僧兵>と戦う際に奴を背にした際、『守らねばならぬ』そう感じたのだ。

「だから、何が相手でも行かねばならん。それだけだ」

 そう言い切った俺に、泣丸は「主殿・・・」と悲し気な声を漏らした。

「そんな声をするな泣丸。倒せずとも、救い出すだけなら何なりと手はあるさ。それに・・・」

「はい?」

「そう言う泣丸こそ退いても構わんのだぞ?」

 少し意地悪気にそう俺が嘯くと、泣丸も同じく意地悪気に喉で笑うと「何を仰いますやら」と肩を竦める。果心の仕草がうつったか、見事な南蛮人ぶりだ。

「それこそ、愚問でありましょう。拙者はあの時、主殿にどこまでも付き従うと決めたのですから。しかし・・・」

「ああ、分かっている。その前に相手をせぬといかん奴が来るようだ。姿は見えないが間違いない、昨夜の奴だな」

 泣丸に言われるまでも無く、どす黒い殺意が迫ってくるのが伝わってくる。俺の祖父が奴の仇、そして俺からすれば果心を助け出す事の障害物。

 <狂者>細川忠興のお出ましだ。


 走る、走る、木々の梢で服が裂けるのも、突き出た石で草履が破れるのも意に介さず、只管走る。

「ウ、ウ、ウ、ウウウウウウウウウァ!」

 獣のように吠え立つ<凶者>の傷だらけの顔は、狂気と狂喜と渇望で醜く歪んでいた。あれからずっと、関ヶ原の大戦からずっと、死ぬまでずっと、死んでからもずっと!

「殺ス、殺ス、殺シテヤルゾォ!」

 あの時、京の三条河原で首を撥ねるのが俺で無いと知った時の嘆き。引き立てられた虜囚のアイツを皆が称えた時の憤怒。死の間際、族滅で無かったと知らされた時の絶望。

(何故、何故だ。何故!)

 玉を殺したアイツが、俺から玉を奪ったアイツが何故大権現様から称えられる。何故教えを請われる。何故アイツに他人を謗る権利が認められる。

「ア、アアアアアア、アァ!」

 言葉にならぬ咆哮を吐きながら、只管<凶者>は走り続けた。そして、

「来たか」

 ガサリと重なった梢を抜けた先、そこに居た。

「アア!?」

 珍妙な具足を身に着けた、若武者が悠然と立ち構えていた。それを見て、視界が揺らぐ、像が揺らぐ。その姿に乱髪天衝脇立兜、家紋を染め抜いた陣羽織、兜と同じく黒一色の胴鎧が重なり、そして同一視となる。

「石佐、石佐!イイイイィシイイイイイイイィザアアアアアアアアァ!」

 そうだ、コイツは石佐だ、石田佐吉だ、俺がそう決めた、そう決まった。

「だったらどうする?」

「ハア?」

 いきなり何を言うのか。思いがけぬ問いに、跳び掛かろうとした足が止まる。

「どうする、と言ったんだ。俺がその石佐なら、俺はお前にとっての何だ?」

「仇ダァ!玉ノ仇!」

「そうか」

 ああ糞、その顔だ。いつもいつも、コイツはそうだった。九州の役の時も、朝鮮の役の時も、その前も後もいつもそうだ。ただ冷静に、ただ淡々と、言葉を受け止め事実を受け止め、

「だから、何だ?」

 平然と、こちらの神経を逆撫でするのだ。

「切った張ったは戦国の常。一人死んだから、それが何だ」

「ウ、煩イイイイイイイィィ!」

 もう無理だ、抑えられない。口角の端から泡と共に涎がダラダラと流れ落ちる。ボタボタと刀を伝うそれのせいで、刀身の怪しげな輝きはいや増すばかりだ。

「それにな」

「アア!?」

 いつの間にか刀を抜いた石佐は軽く構えをとりつつ、言葉を紡ぐ。

「お前にとって俺が仇なら、俺にとってのお前はただの邪魔だ。斟酌に値しない」

「ナア!?」

「だから・・・邪魔だてするなら、切り伏せる!」

「抜カセエ!」

 爛々とした輝かせる眼に乗せた狂喜のまま、<凶者>は一足跳びに襲い掛かった。ただその首を墓前に供える、その一心のままに。


(・・・ここまでは良し)

 跳び掛かって来る<凶者>を迎え撃ちつつ、四郎丸はそう胸中で呟いた。

(果心の救出に向かった泣丸の方へ向かわれる訳にはいかないからな)

 だから、ワザとこの男の神経を逆撫でするような言葉をぶつけた。昨夜のことを思えばその必要があったかは怪しいところだが、結果としては上々だ。あの物言いと表情なら間違いなく、俺を祖父と思い込んでいるに違いない。

(しかし・・・ワザとでなくあの話しぶりだったのなら、そりゃ人好きはせんな)

 そんな思いを先祖に馳せつつ、四郎丸は意識を<凶者>へと戻す。怒りが10割増しの<凶者>の勢いは昨夜を優に上回っている筈だ。あとは、事前に四郎丸が立てた予想が当たるかどうかだ。

「死ネヨヤ!」

 咆哮とともに真正面から叩き込まれた一撃は、驚くほど重い。その重さは恨みの重さ、想いの強さに他ならない。そして、それをもたらしたのは、自分の祖父の業。

(まったく、何で俺が)

 何という皮肉だろう。血筋というものから最も縁遠いこの俺、妾腹の四郎丸が父祖の報いを晴らさねばならぬとは。だがしかし、遠いとは言え縁がある以上、それはこの杉山四郎丸成枚が為さねばならぬこと。

 だから、四郎丸は敢えて躱さず正面から受け止めた。ビリビリと痺れる腕が、耐えるため力を込めると痛む腹が、呪いを受け止めよと囁きかける。だが、

「だがな、俺にだって譲れんものはある!」

 それは任務か、命か、国元か、それとも果心か。どれであれ、それから導かれる想いは1つ。

「だから、死んでもらうぞ細川忠興!」


 昼近くなり日差しの強さが増す中で、ギイン、ギインと打ち合う音が響き渡る。

 それは、言うまでも無く四郎丸と<狂者>が奏でる金属音。であるが、

「ガッ、ガッ、ガア!」

 攻め手は間違いなく<狂者>だ。にもかかわらず、そしてその攻撃は昨夜と変わらず強烈なのにもかかわらず、数十合を超えて打ち合っているが一向に仕留めきるどころか有効打すら与えられてはいなかった。

 一方の四郎丸。こちらは<僧兵>から受けた攻撃の痛みが治まりきっていないにもかかわらず、そして1撃が致命となる攻撃を一方的に受け続けているのにもかかわらず、その身のこなしに淀みや焦りは一切無い。

 その不思議な相克は互いの表情にも表れており、<凶者>の相貌は焦燥で歪んだ表情を更に醜く歪めているのに対し、四郎丸のそれは余裕すら見て取れるほど涼やかだ。

「ガアァ!」

 最早何度目か、疾風のような一撃が四郎丸を襲う。

「それ!」

 が、それを四郎丸は難なくいなしてするりと躱す。圧しているのは<狂者>に他ならないが、優勢に立っているのは四郎丸の方だ。

 それは四郎丸に思考の余裕があることからも伺える。

(・・・成程、な)

 攻撃をいなした後、四郎丸は焦ることなく軽く息を吐き攻撃を待つ。すると思った通り、暴風の様な突撃に乗せた大振りの1撃が見舞われる。しかしそれは最早四郎丸にとっては予想通りの軌道で、予想通りの一撃。すいと最小限度の動きで避け、当たれば致命のそれは空しく空を切るばかり。

(まるで獣か孺子の様だな・・・)

 昨夜は初めて見る式霊の人間離れした素早さと攻撃の強烈さに舌を巻いたが、一度経験した後に明るい場にて相対すると、その攻撃の単調さが浮き彫りとなって見えた。

 確かに力は強い。

(・・・しかし、強いだけだ)

 幾ら強烈な一撃と言っても、それをただ我武者羅に振るうのみとあれば、それは獣と変わりない。単調なそれをいなすことは、熊の出る山野にて修行を重ねた四郎丸には人間相手より寧ろ容易いものだ。

 そして本当に只の獣であればまた、これ程までに攻撃が通じないとあれば敵わぬと諦めるか逃げ出すものだ。しかし、この式霊とやらは結局のところ人間なのだ。

(それも、俺が仇ときたもんだ)

 仇敵を目の前に、逃げる諦めるという理知的な判断が出来るほど人間は聡明ではない。ましてや<凶者>、渾名からして狂っている。

「エエイ、何故ダア!」

 もう何度目か、攻撃を防がれた<凶者>は苛立たし気に咆哮する。しかし、当人は気付いて無いようだが、皮肉にもその怒りのせいで攻撃は増々単調になっていた。

 つまり、この<狂者>の状態は云わば、獣と人の悪い所取りの様相を呈しているという訳だ。であれば、野山に交じりて修練を行い、時として害獣をも相手とした自分が負ける訳にはいかない。

「諦めろ。今の貴様では俺には勝てん」

「フ、フ、フザケルナア!!」

 裂けんばかりに眦を吊り上げ迫りくる<凶者>の攻撃を、四郎丸は大地を蹴って跳躍し躱す。

「待テェ!」

 若し、この時の<凶者>に冷静な頭脳があれば。若し、昨夜に四郎丸が見舞った陽動を覚えていれば、その結果も違ったものになったやもしれない。しかし、冷静さを欠き恨み怒りに支配された<狂者>にはそのどちらも無かった。只、眼前の状況に追従するべく強引に動きを変え、避けた四郎丸へと追いすがろうと試みる。

(勝った!)

 されど、<狂者>が採ったそれは正に一番の悪手。状況に対応しただけのその動きは初めの突撃の速さを殺すので手一杯なのに対して、四郎丸はそれ読み、その行動を狙っていたのだから動きも早い。

 ふわりと着地した四郎丸は大きく刀を振りかぶり、ほぼ棒立ちの<狂者>へと一躍切り掛かる。

「イェェェェェェアィ!!」

 乱れ無き一閃が狙い過たず、<狂者>の頸を跳ね飛ばした。


(何、何、何、何ダ!!!)

 いきなりの出来事に頭がついていかない。どうして大地が右にある、どうして手足の感覚が無い、どうして、どうして、どうして、どうして。

(駄目ダ、駄目ダ、駄目ダ、駄目ナンダ!)

 石佐の首を墓前へ、玉の墓前へと供えなければ、玉は、玉は。

 ああ、玉。美しい玉、愛しい玉、俺の全てである玉よ。俺を見てくれなくなった玉よ、俺に微笑んでくれない玉よ。

 俺は尽力した。お前を見た下賤は全て殺した。お前に切支丹を被れさせた乳母は追い出した。だが、そこまでして尚、どうして俺を見てくれない。伴天連の坊主に離縁の相談をしたとも聞いた。何故、これ程愛しているのに何故、どうして俺を愛してくれない。ああ、ああ、どうして・・・。

「アア玉、俺ヲ・・・俺を捨てないでくれ・・・」


「勝った・・・・・・か」

 式霊を、それも搦め手無しの1対1で仕留めたのだ。人間の四郎丸にすれば大首級に違いあるまい。しかし達成感は無かった。残ったのは、何とも言えないザラザラした感情だけ。

「まったく・・・後味の悪い」

 苦し紛れに地面にあった石を蹴り飛ばすも、そんなことで晴れる筈もない。死んでドロドロとした黒い泥となった<狂者>が最期に吐いた、あの言葉。それが以前に果心から聞いた彼の人の逸話と交わり、何とも嫌な心地となり心に突き刺さっている。

「悲しい男だ、誰よりも愛深きものを。せめて、その方向を愛した者と合わせられておれば、或いは、か」

 無論、過ぎた過去は戻らない。それを示すかの如く、崩れ行く泥の中から出てきた木札が地面に落ちカンと高いと音を立てたが、それもパッと割れて、砕けて消えた。<狂者>の存在共々、全ては幻の如く何の痕跡も残さない。まるで白昼夢のように。

「せめて、涅槃か来世では共にありますように」

 そんな想いを込めて、四郎丸は手を合わせる。儚い願いなれど、そうあれかしと。


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