第2話 未知との遭遇

 江戸を出て1日ばかり、四郎丸たちが駿河に着くまでは何の問題も起こらなかった。

 それも当然、表向き死んだことになっているとはいえ、未だ影の実力者として権勢を揮う南光坊天海が用意したる免状である。四郎丸は元よりあの風体の泣丸でさえ、万が一関で留められる事などあれば、それこそ幕府の鼎の軽重が問われるというものだ。

「しかしなあ・・・流石にあれはやり過ぎだろう」

「で、ありますかな?」

 そう、街道を行く四郎丸に相槌を打つのはなんということか、そこらを歩いていた野犬である。と言っても、その実は泣丸による腹話術であることは言うまでもあるまい。

「当然だ。昨日の宿坊では下にも置かぬ大歓待の上お代は全て代官持ちだぞ。寧ろ薄気味の悪いくらいだ」

「はは、主殿は心配性に御座いますな」

「そうは言うがな、泣丸。あの西美濃の時もここまでの扱いは無かったんだぞ」

「・・・あれも酷う御座いましたな」

 しかし、観光気分もそこまで。甲斐との境を越えて暫くすると四郎丸は身に纏わりつくような、何とも形容のしようの無い嫌な感触を感じるようになった。そして、それは富士に近づくごとにいや増していく次第であり、そのせいか道を歩く者も1人消え、2人消え。

「・・・・・・・・・おいおい」

 そして、ついには街道を歩くのは四郎丸1人きりとなり、他には荒涼な風が通り過ぎるばかりとなった。これは流石に異な事と、いつの間にか犬から成り代わった泣丸も主の傍らについたが、だからと言って状況が変わるわけでも無い。

 ただ、意味が無い訳でも無い。お互いにギョッと顔を見合わせられるだけで、随分と気が楽になるものだ。

「主殿、約束の村までは未だ幾許か御座いますが・・・これは如何な事でしょう?・・・よもや、天海僧正に謀られましたかな」

「それは無い・・・と思いたいな。兎も角、油断せぬように」

 そう答える四郎丸もどこか歯切れが悪い。そもそも天海僧正という男、信用は置けても信頼出来る男では無い。四郎丸は用心を込めて草鞋を結わえ直し、大小を袋から取り出し目釘を検めると静かに腰に差した。

 油断無く、しかし足取り早く歩を進めること数十町ばかり、すると突然に幾棟かの家屋が森の中に現れた。

「これが、件の村ですかな。して主殿、約束の御方は何処に?」

「分からん。向こうから声を掛けるとの事だが・・・取り敢えずは村の者に話を聞いてみよう。何か知っているかもしれん」

 そう思い村を一瞥するが如何なることか、まだ日暮れには余りあるというに村の通りには人の子一人、見受けられない。空気も欝々として、何とも陰気な村である。

「・・・誰もおらんな。若しや廃村か?」

「いえ、人家の中に気配は感じます。しかし、どうもおかしな具合で」

「かと言って、他にどうしようも無い。一先ず、誰か探してみるか」

 そう言って四郎丸が1歩踏み出すのと、泣丸が「主殿!」と注意を掛けたのはほぼ同時であった。注意掛けに四郎丸が無意識にひょいと屈むとその頭の上、一瞬前に顔があった所をブンと低い音を立て何かが通り過ぎたのだ。

「なっ!」

 ガシンと落着するを見ればそれは大きな鍬の頭。当たれば間違い無く死んでいたであろうそれを見て、流石の四郎丸も脇を冷たいもので濡らした。

「主殿、前を!」

「うむ。貴様ら、何事か!」

 姿勢を正し柄に手をかけ、目線を鍬が飛んできた方へ向ければそこには百姓姿の男が数名。皆手には鍬や竹槍など、思い思いに武装しているのが見て取れる。

「・・・」

「おい、返事をせぬか!」

「・・・」

 明らかに武士の風体である四郎丸の一喝にも黙ったまま。怯んだ様子はまるで無く、動きは緩慢で幽鬼の如くであるものの確実に、じりじりと四郎丸達との距離を詰めてくる。

「こ奴ら、何者かは分かりませぬが・・・少なくとも友好的な者たちではありますまい」

「だな。しかし例え敵とて、祖父の刀を百姓の血で汚すは恐れ多い。徒手にて無力化するとしよう」

 一聴、随分と相手を甘く見た発言に聞こえるやもしれぬ。しかし四郎丸は武家の産まれとはいえ、諸々の事情にて幼きより早道之者の薫陶を受けた者である。多数に無勢とはいえ百姓如きは物の数では無い。

 実際、そう言って勢いよく跳び出し左右に動きながら距離を詰める四郎丸に、相手の百姓達は目がついて行っておらぬ様子でワタワタと首を左右するばかり。

 寸余もせぬうちに叩き伏せられよう、そう泣丸はタカをくくっていた。しかし、

「な!?」

 如何なる事か、地面に押し倒さんと肩口を掴もうとした手はそれを果たせず空を切る。逆によろけそうになった四郎丸は思わず蹈鞴を踏んだ。

「いかぬ!ツェア」

 しかし、隙を作った主君を救うため泣丸が投じた礫も又、空しく通り過ぎて行く。間違いなく額へ直撃する軌道であったにもかかわらず、である。

「なんだこれは、手妻か幻か?」

 しかし、その希望は振り下ろされた鍬が地面を削る無機質な音が残酷にも否定する。体のばねを使って飛び退いて躱すが、ボクという音を立て地面を削るその一撃はこちらの命を奪うに十分だろう。

 此方は効かず、彼方は効く。

「埒が明かん。泣丸、一時撤退だ」

「承知!」

 言うが早いか、辺り一帯は煙に包まれた。


「やれやれ、一先ずは撒いたようですな」

「どうやら目で見て判断しているのは普通の人間と変わらんようだな。・・・しかし、どうしようか」

 泣丸の放った煙玉に紛れて近場の熊笹に紛れた四郎丸たちであったが状況は尚、変わらぬまま。否、悪くなる一方である。

 眼前では先ほどの百姓たちが探し回っており、少し距離が在るとはいえ見つかるのは時間の問題と言えよう。また、仮に首尾よく見つからなかったとして、これから先も同じようなのが徘徊しているとあれば、打つ手が無いのではどうしようも無い。

 正しく、手詰まりである。

「手妻か、妖術か。何れにせよこちらの攻撃が当たらんのでは、何ともならん」

「まったく、面妖な事態でありますな・・・主殿!天海僧正より預かったその刀、確か付術をされておるとか。ならば」

「対抗できる、か?」

 それは確かに四郎丸も考えなかった訳では無い。しかし確証も無いのに切り掛かって、結果駄目なら目も当てられない。

 それに何より、武家として守るべき百姓に対し、その象徴たる刀を向ける事への忌避感が、決心に至るまでの心を押し留めていた。しかし、

「そうじゃな、見たところその刀なら、あの式霊しきりょうを切ることも出来るじゃろう。あのような粗製乱造ならまず間違い無いて」

 不意に、どこからか鈴を転がすような声が聞こえてくる。四郎丸より一呼吸早く出所を察した泣丸が「上か!」と直上をサッと見上げると、果たせるかな木の枝の上に何者かの影。

「貴様、何奴」

「何者でもよかろう」

 殺気交じりの泣丸の一喝にも何ら堪える様子も無く、それどころかその声の主はさも面白そうに言葉を紡ぐ。ぶらんぶらんと足を揺らす様も相まって、まるで大人を揶揄う童のようだ。

「それより、主らの語るアレじゃがな。あれは式霊と言うて、云わば亡霊よ。故に術か、術にて加護を与えた武器でしか致命の傷を与えられん。おお、ホレホレ見よ、来よったぞ!」

 言われずとも、緩慢な動きで四郎丸たちの隠れている方へと近づいて来るのがはっきり見えた。上の者との話の為に声が大きくなったか、先の推敲を聞きつけたらしい。

「呼んでおいて、どの口が!」

「主殿、如何いたします!?」

 忌々しげに四郎丸は上の者をさっきより強い調子で睨みつけるが、その者は足をぶらぶらするばかりで逃げる気も加勢する気もさらさら無いようだ。それはつまり、仮に四郎丸たちが殺られてしまっても、独りで何とか出来るという自負があるということである。

 必要が無いのなら、樹上の君子からの助太刀は期待出来ぬ。

「ふう・・・落ち着くぞ、泣丸」

「ですが!」

「敵で無ければ、それでいい。それよりも・・・あっちだ」

 そう、そんな話をしている間にも敵は迫っている。じりじりと近づく百姓たちと四郎丸の距離は、気付けば数歩の距離まで近づいていた。最早猶予は無い、相対するか逃げるか決めねば、自分たちに明日は無い。

 確かに彼の者の言う通りならば、この刀で対処できるのだろう。しかし、味方という保証も無い者の口車に乗るのは危険だ。そう、頭の中で理性が囁く。しかし、しかし。

(この声に、面白がるような響こそあれ、悪意は感じぬ。・・・であれば)

 意を決した。四郎丸はさっと立ち上がると太刀を抜き中段に構えて敵を見据える。

「・・・・・・いくぞ!」

 揺れる切っ先はいまだ躊躇する心の証。それを、今度は理性で押さえつける。寸もせぬ内にふるふると震えていた切っ先は、ピタりと収まった。

(知識と勘が背反するなら、俺は勘を信ずる。その方が良い。間違えたとしても後悔せずに済む!)

 上から「ほうっ」と感心したような声音が聞こえたが、無視する。危険だと囀る理屈の声も無視して端に追いやった四郎丸の意識は唯、眼前の敵にのみ向けられた。標的は3人の内、最も遠い所にいる男。

「トゥア!」

 藪から一気に跳躍し眼前に迫ると、一番離れた所にいた自分が襲われる事は理外の出来事だったのだろう、その者ははたと立ちすくむ。その大きな隙を突く一閃がキラリと走り、首と胴体が泣き別れしたそれは掻き消えるように消え失せた。

「殺れた、いけるぞ泣丸!」

 殺せるなら理屈はどうでもいい、と割り切った四郎丸に我に返った残りの百姓たちの視線が集まる。更に、その音を聞いてか村中から同じように幽鬼のような連中が湧いてくる。

 しかし、元より技量では四郎丸に遠く及ばず、唯一勝る点が無効化された今、幾ら数が多かろうと既に四郎丸に負けの目は無くなった。

 八半刻もせぬ後、そこに立っていたのは息を整える四郎丸のみ。辺りには百姓たちが手に持て襲ってきた多々の鍬などが躯の代わりに転がるばかりであった。

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