第14話   昨日までの自分にさよならを告げて(後)

 シトロン·レモネードには秘密があった。故郷を旅立っておよそ四十年。その間、誰にも打ち明けたことのない秘密だ。

 もちろん、彼はそれを誰にも話すつもりはない。

 ただ、その秘密に関連した出来事があったというだけのことだ。

 レモネード司祭領領都レモンの邸宅――その執務室に扉を叩く音が響く。

「――どうぞ」

「ただいま戻りました、お義父様」

「ああ、おかえり、ヴァイオレット」

 入室を許可すると、スミレ色の長髪を首の後ろ辺りで束ねた若い娘が入ってきた。

 ヴァイオレットはシトロンが息子であるライムの嫁にと求めた娘で、その日は彼女が最後の冒険を終えて、ようやく帰ってきた日だった。最後の冒険というのは文字通りの意味だ。ヴァイオレットは冒険者である。まあ、その日はもう引退したあとだったから、元をつけた方が正しいかもしれないが。

 帰宅後のあいさつを交わしたにもかかわらず、ヴァイオレットはまだ執務室の入口に立ったままだった。

「……うん? どうかしたのかい?」

「ええ……実は、お義父様に会いたいという方を連れてきているの」

 そう言われた時、シトロンはあまり良い気分はしなかった。

 ヴァイオレットが連れてくるとしたら、冒険者仲間くらいしかいなかったからだ。

 ヴァイオレットが所属していたのは、B級まで行った優秀な冒険者パーティーだったが、最近はメンバー全員が限界を感じていたことをシトロンも知っている。そして、全員が新しい人生へと踏み出す準備ができたことを機に、パーティーを解散していっせいに引退するつもりだったことも。だから、それぞれ離れた地で別々の道を歩むというのに、顔をつなぐためだけに元メンバーを利用するのか――と、シトロンはそう思ったのだ。

 だが、そうではなかった。

「ワシに会いたい? まさか君のパーティーメンバーじゃないだろうね?」

「いえ、お義父様、連れてきたのは皆じゃないわ」

「うん……? ならば誰だね?」

「お義父様の知人のお孫さんらしいわ。ご祖父様から、法国に行ったら頼れ、と言われていたそうよ」

「そうか……」

 シトロンもさすがにそれだけでは誰かわからなかった。

 だが、予感はあった。

 祖父が知人。

 法国に行ったら頼れ。

 その二つから導き出されることは、シトロンがこの国に来る前の知人の孫だということ――四十年以上前の過去がやってきたということだ。

 忌まわしい過去などではない。むしろ、故郷を旅立ってからの四十年が報われると思えるほどの、実に良き出会いだった。

「……名は?」

「ザインザード・ブラッドハイドという若い男性よ」

 その名を聞いた瞬間、シトロンは思わず目を見開いていた。

「ブラッドハイド……!?」

「……お義父様……?」

 そして、無意識に涙を流していた。

 驚愕。歓喜。無念。自責。後悔。そして高揚。

 複雑な思いがシトロンの胸中で渦を巻く。

 何しろ、もう二度とその名前を聞くことはないかもしれない、と半ば諦めていたのだから。

「…………ひとまず、会おう。連れてきてくれ」

「……わかったわ」

 ヴァイオレットはそう頷きつつも、書斎の扉に手をかけたところで一度振り返り、だが何も訊かずに外へ出た。

 しばらく経って、ヴァイオレットが応接室に連れてきたのは、若い男と獣人の少女だった。

 シトロンが真っ先に注目したのは少女の方だった。髪も肌も白く、瞳は真っ赤――そのような色合いの者を何と呼ぶか、シトロンは知っていた。

 ――アルビノ。

 それだけなら、ただ「珍しい」の一言で済むが、こと獣人に限ればそうではないこともシトロンは知っていた。

 まあ、そちらもそちらである意味では重大なことなのだが、シトロンが求めてやまなかった人物はそちらではなく、若い男の方だ。

 雑に整えられた黒い髪に、人を射抜くように鋭い金色の双眸。間違いなかった。生き写しのようとは、この時のためにつくられた言葉だとシトロンは確信した。

 シトロンとしてはその場ですぐさま床に額をこすりつけたい気分だったが、何も知らぬヴァイオレットの前でそうするわけにはいかなかった。

「レモネード司祭様、お初にお目にかかり光栄です。ザインザード・ブラッドハイドと申します。こちらは弟子のカロン。祖父より、メビウス法国を訪れた際は貴殿を頼るように、と言われており、貴重なお時間を頂戴いたしました」

 ブラッドハイドの名を継ぐ者に、かようにへりくだった態度をさせることも、本来なら我慢ならないことだった。だが、今はまだ司祭と客人という皮を剥がすわけにはいかない。シトロンとザインにつながりがあることは、誰にも知られてはならなかった。

「…………ワシが……ワシが、シトロン・レモネードだ」

 それでも、何とか名乗り返すのが精一杯だった。

 もう限界に近かった。

「――ヴァイオレット、すまないが外してくれ」

「でも――」

「外してくれ」

「……わかったわ、お義父様」

 追い立てるようにヴァイオレットを外へ出し、足音が遠ざかったところで、ようやくシトロンは頭を下げることができた。

 いや、もはや心が命じるまま、いつの間にか額を床にこすりつけていた。

「――――――――」

 言葉は出なかった。

 ただ涙だけが止まらなかった。

 どれだけそうしていたか、

「……貴殿の思いはよく伝わった。過ぎたことはもういい、頭を上げろ」

 ザインにそう言われて、ようやくシトロンは呪縛から解放された。

「――……ワシの方こそ……お会いできて、光栄でございます……。……よくぞ……よくぞ……!」

「そうかしこまらんでいい。貴殿はメビウス法国の司祭で、俺はただの知人の孫だ」

「……申し訳ない……申し訳ない……! 今しばらく、お待ちを……」

 シトロンが気を落ち着かせるのに、まだしばらくの時を要した。

 なじられても致し方ない。

 罵倒されても何も返せない。

 罵詈雑言を吐かれても耐えるしかない。

 シトロンはそんな思いでいっぱいだったが、ザインは何も言わなかった。

 故郷が戦禍にさらされるのを止められなかったばかりか、全てが終わるまで何も知らなかった間抜けを前にしていたにもかかわらず。

 いつもそうだ。ブラッドハイドの名を継ぐ者は他者を責めない。

 まるで四十年前に戻ったかのような気分をシトロンは噛み締めていた。

「……お恥ずかしいところを……」

「たった一人で抱えてきたんだろう? 恥じ入ることなどない。……それで、もう落ち着いたか?」

「……うん、落ち着いたとも。改めて、シトロン・レモネードだ」

「ザインザード・ブラッドハイドだ。先ほども言ったが、こいつは弟子のカロン」

 カロンが緊張した面持ちでペコリと頭を下げる。

「弟子……カロン……」

 改めて紹介されたことで、カロンに対する意識がシトロンの中で少し変わった。

 ブラッドハイド家にとって、「弟子」とは特別な意味を持つ。「カロン」という名にも意味がある。

「ということは、もしや……?」

「ああ。俺はこいつを『星』にするつもりだ」

「それほどの才を……!」

 言うまでもないが、教育というものは幼少期から始めるものだ。だが、カロンはすでに成人間近といったところ。普通なら遅すぎる。

 それでもなお、ということは、それだけの才を見せたという証左であった。

 シトロンとしては、羨ましくもあり、どこか妬ましくもあり、だがそれ以上に希望を見た気分だった。

「さて……。シトロン殿、俺が訊きたいことはすでにわかっているはずだな? 単刀直入に訊くが――何が起きた?」

 ザインに問われ、知らず知らずにつばを飲み込むシトロン。

 この数か月、溜めに溜めた言葉をようやく口にできる。その解放感は、だが同時に新たな重荷を背負うためのものでもあるのだが。

「おそらく、になるが……誰かがバレ、拷問の末に吐いたというわけではないね。かといって、誰かが売ったというわけでもない」

「ほう……? なぜそう思う?」

「一つは、情報の出所が領主ではなく法王自身であることさ。もう一つは、各領主への参戦依頼がなかったこと、だね。しかも、各領主への通達は全てが終わったあとで、内容は『神敵を滅した』と、それだけ。あとは故郷の名だけが書いてあった。付け加えるなら、寺院兵団にも動きはなかったよ」

「なるほど……ひた隠しにしたいという思惑が透けて見えるな。では、こちらからも一つ、情報を話そう。……襲撃者の中に、体を乗っ取る奴がいた」

「……!?」

 シトロンにとってはにわかに信じがたい情報だったが、ザインは確信を持っていた。その目で見た確たる事実だからだ。

 そしてその情報が加わったことで、シトロンの脳が一つの推測を導き出す。

「……つまり、法国にとっても想定外の発覚だった?」

「おそらくな。体を乗っ取るなど、どう考えても尋常な力ではない。間違いなく、神に連なる者だ」

 すなわち、明王。選ばれし者。しかも、公言している二人以外の。

 その者が偶然にもブラッドハイド家側の誰かを乗っ取ったことで、誰も予想していなかった事態が起きてしまった。体を乗っ取ることで記憶も奪えると考えれば説明はつく。

「……明王については?」

「第一明王と第三明王のことはすでに知っている。どちらも襲撃者の中にはいなかったな」

「だろうね。どちらも動けば噂になる」

「逆に言えば、その二人は中枢から遠いということだ。場合によっては引き込めるかもしれん」

「明王を……? さすが、発想力が違うね」

「あくまで、場合によっては、だ」

 メビウス第一明王――天道のヒバリ・マニ。

 メビウス第三明王――修羅道のスコッチ・チャンク。

 前者はS級冒険者パーティーのリーダーで、後者は法国のエリート軍である寺院兵団の総長だ。

 どちらも一筋縄ではいかない強者。だが、ザインにとっては一つの駒でしかない。

「それで、これからどうするつもりかね?」

「まずは情報収集だ。シトロン殿を頼ったのもその一環だが、どうにかして中枢の情報を得たい。何もするにしても相手の情報は必要だ」

「確かに」

 全ては情報次第。何も知らないうちに選択肢を狭めるのは愚か者のすることだ。最初から取るべきでない選択肢もあるが。

「シトロン殿から見て、第一明王と第三明王はどのような人物だ?」

「そうだね……第一明王は根っからの善人だよ。彼女と彼女の仲間については、間違いなく民のことを思っていると考えていい。ただ、周りが少々厄介だね」

「厄介……?」

「これについては、説明するのが難しいね。見た方が早い」

「そうか……」

 アレに最初に遭遇した時は、シトロンも大いに困惑した。

(いや、本当に……アレは何と言ったらいいのやら……)

「第三明王は……正直、よくわからないというのが本音だね。戦好きという噂もあれば、反対に戦嫌いという噂もある。……ただ、部下思いなのは間違いないよ」

「ふむ……。となると、まずは第一明王――ヒバリ・マニから接触すべきか」

「……そうそう、彼女については、面白い噂があったよ」

「ほう……?」

「いや、面白いと言うと語弊があるかもしれないが……もう数年前のことだが、一時期、同性愛者なのではないかと言われていた。何でも、同じ冒険者のエルフの女性と妙に仲が良かったらしい」

「エルフ……? …………っ」

 なぜかザインの脳裏につい最近絡んできたエルフの名前が浮かぶ。

「うん? どうかしたのかね?」

「……いや……。シトロン殿、そのエルフの女性について何か知っているか? 例えば名前とか」

「いや、そこまでは知らないね。だが、使用人曰く、相当な美人らしいよ。透き通るような長い金髪が太陽の光を浴びてキラキラとしていたのが印象深かったそうだ」

 シトロンがそう言った途端、ザインは片手で額を押さえて、それはそれは長いため息をついた。

「……主様……」

「言うな……。何も、言うな……」

「……???」

 いったいその話のどこがそんなに憂鬱なのか、シトロンにはさっぱりだったが。

「…………シトロン殿、近隣で最も人が集まるのは誰の領地だ?」

「うん? ああ、情報収集先だね? それならコーラ枢機卿領がいいと思うよ。あそこは法国中の食べ物が集まるからね。自然と法国中の人々も集まる」

「そうか……わかった、次はそこに行ってみるとしよう。……おそらく奴も来るだろうしな……」

 ザインの言う「奴」が誰か、シトロンは結局訊けなかった。あまりにも嫌そうに言うものだから。非常に会いたくなさそうだから。

 ただ、それ以上の関心ごとがあったのも確かだった。ザインの憂鬱を黙殺してでも伝えたいことがシトロンにはあった。

 どうしても。

 ザインが席を立つその前に。

「さて……ザインザード殿――実はワシの方からもう一つ、提供したい情報がある」

「ん……? 何だ?」

 シトロンがこの国に来て四十年。だが、四十年前の法国が、シトロンには別の国のように思えて仕方がない。

 違和感を覚え始めたのは――そう、十年ほど前からか。

 それを告げたことで、ザインの選択肢を狭めてしまうこともわかっていた。いや、それどころか、決定づけてしまうかもしれないことも。

 そしてそれは同時に、昨日までの自分に別れを告げることをシトロンに強制した。

 それが、自身の願いを口にするということに他ならない。

 そんな重くのしかかる思いを必死に振り払って、シトロンは告げた。

「この国は――狂っている」




 ザインとカロンは一週間ほど滞在した後、コーラ枢機卿領へと旅立った。まずは東側の大きな街、ケインを目指して。

 この一週間、シトロンは、ザインが求める情報を集めたり、各領地の特徴や各高位聖職者の性格、趣味などを知る限り話したり、法国の歴史や文化について語ったりして過ごした。ザインが特に興味を示したのは、かつてこのレモネード司祭領が他国の領地だったことと、「心眼の聖女」と呼ばれる女性のことだった。

 得た情報をどう使うかはザイン次第だ。

「さて……ワシもやるべきことをやるかな」

 シトロンは独り呟きつつ、引き出しから何枚もの便せんとペンを取り出す。

 何をするのかと言えば、当然、手紙を書くのである。

 ただし、宛先はさほど多くない。

 本当はわずかでも面識のある高位聖職者全員に出したいところだったが、レモネード司祭家はシトロンが興した新参者。パイプと呼べるような強いつながりはない。

 息子の嫁を市井の民から探さなければならないくらいに。

 B級冒険者パーティーのリーダーだったとはいえ、片田舎の村長の娘でしかないヴァイオレットを迎え入れたのは、そういう事情もあったからだった。

 それでも多少交流のある高位聖職者はいる。その者達に宛てて書くつもりだ。ザインに頼まれたことだから。それがわずかでも贖罪になると信じて。

「出だしは時節のあいさつが良いとして……何と書くべきか……」

 少し悩んだ末、シトロンはザインが冒険者でもあることを思い出し、義理の娘が元冒険者であることと絡めてこう書いた。


 ――冒険者といえば、先日のことですが、とある有望な冒険者が我が家を訪れ、大変興味深い話をしておりました。それは、モンスターの討伐報酬に関することで――……

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