第7話 人は特別という闇から逃れられない
誰からも見向きもされず、古への恐怖とわずかばかりの情けで生きていた少女は、ある日、奴隷商人に捕まった。
今度はどんな地獄へ連れていかれるのか、と震えることしかできなかった少女は、街道で茶色い狼に追いかけられるハメになり、そしてザインと出会った。
最初はただ助けが欲しかっただけ。助けてくれるなら誰でもよかった。
それがまさか、不思議な魔法で怖いものを全てやっつけてくれるような者だったとは、少女も思いもしなかっただろう。
しかも、幸運なことに少女はザインに選ばれた。とはいえ、ザインが奴隷商人のシャイルに話した理由は、少女にとってはよくわからないものだったが。少女がわかったことと言えば、彼女以外は要らないと、ザインがそう言ったということくらいだった。
もちろん、どんな地獄に連れていかれるかわからない奴隷商人から救ってくれたことに、少女は感謝している。
だが、最初からそう思っていたわけではない。ザインが決して善人ではないとわかったその時は、選ばれなければよかったと思ったのも事実だった。
しかも、ザインは獣人に伝わる忌まわしき伝説まで知っていた。ザインが伝説を連想させることを言うたびに、少女は奴隷商人に捕まるまでのことを思い出し、ついに「鏖殺獣王」の名を出された時は思わず土下座してしまっていた。
そして、その時にはもう少女はザインのものになっていた。
どんな目に遭うか怯えながらザインに連れていかれた先で、少女は初めてお腹いっぱいに食べることができ、ようやく選ばれたことが幸運だと思えたのだ。
そして同時に、ザインに選ばれず、地獄への片道に戻された他の子ども達のことを思った。
――ざまあみろ、と。
そう、少女も決して善人ではなかった。
自身のことを陰で気色悪いと言っていた者達のことなどどうでもよいと思う程度には。
時間は、ザインと少女が出会った日の夜に戻る。
領都マカロニのとある宿の一室で、少女はザインから人生で初めての贈り物をもらっていた。
「そういえば貴様、名は何という?」
「ふぇ……? シロコばい」
「……それはアルビノのことだ、名ではない」
「名前やなかと……? ばってん、村では『シロコ』としか呼ばれとらんやった」
「つまり貴様は名無しなわけだな。なるほど、親が隠したわけではなかったか」
「みんな鏖殺獣王が怖かけん、呪われたくなか言うて、ウチば死なせんようにしとった」
「そうやって生かされてきたわけか。……わかった、名をやる。貴様は今からカロンだ。いいな?」
「カロン……?」
「俺のそばにいる者にはふさわしい名だ」
「カロン……ウチん名前は、カロン」
名前という贈り物を。
カロンが人生で初めてぐっすりと眠れた日の翌朝――ザインは様々な店で様々なものを購入していた。あの熊が思っていたよりも高値で売れたため、それで服や食料を揃えているのだ。その中にはカロンの靴や服もあった。
カロンはそれを隣で見ていた。正確には、見ていたのはザインだけだったが。恋愛感情からではなく、幼い子どもが親を見るような感覚だろう。
塩を売っている店では、品質と価格のバランスに違和感を覚えたザインが店員と長く話したため、カロンは他の店よりも長く見ることができた。だからといって、塩を売っている店を少しだけ好きになるのは何かが間違っている気もするが。
冒険者ギルド支部では、D級冒険者がC級のアングリーベアーの死体を持ち込んだことで、非常に注目された。ザインの強さを見せつけられたとカロンは喜んだが、ザインとしてはあまり歓迎できることではなかった。目立ちたくないとかではなく、厄介ごとも引き寄せる可能性があったからだ。なお、熊だけで過剰に注目されたため、ザインは狼の死体を出すのはやめることにした。
領都マカロニを出たあと、ザインとカロンは東に向かって街道を歩いていた。
もうすぐザッハトルテ子爵領に入るというところで、カロンは街道を外れた森の奥から血の臭いがすることに気付く。
「……? 主様、血ん臭いがする……」
「ふむ……カロン、臭いの濃い方へ案内しろ」
「……! こっちばい!」
喜々として案内し始めるカロン。
会話すらろくにしたことがなかったカロンにとって、たとえ命令であったとしても、初めて頼られたことはただただ嬉しかったのだ。
カロンが案内した先には、三十代半ばほどの身なりの良い男が血まみれでうずくまっていた。何を隠そう、ザッハトルテ子爵である。
「っ…………」
「……まだ生きてはいるようだが――っ!?」
状態を確認しようとザインが手を伸ばした瞬間、子爵はその腕をつかみ、金色の双眸をジッと睨んだ。
そして、大事に抱えていた綺麗な短剣を押し付けると、
「む……娘を――頼む……」
それだけを言って動かなくなった。
ザインは子爵が自身に何を見出したのか何となく推し測れていたが、あえてその願いを叶えるつもりはなかった。
「ふむ……ほう、これは……思わぬところで思わぬ武器を手に入れたな。カロン、貴様が気付いた成果だ、よくやった」
ただ、自身の目的に利用できそうだったから、ついでに助けるかとそう思っただけだった。
一方のカロンは、なぜ褒められたのかはよくわかっていなかったものの、ザインに頭を撫でられたことがただただとても嬉しかった。
その後、ザインは街道の分かれ道で、予定とは違う方向へと進む。
本来は領都タルトで一泊する予定だったのだが、塩屋の話と子爵に押し付けられた短剣、そして子爵の言葉から、ザッハトルテ子爵家の状況を推測したザインは、それを自身の計画に利用するため、子爵令嬢が通るであろう街道で待ち伏せることにしたのだ。そこにカシム達がいたのは偶然だったのだが、領地と領地の境目には盗賊が隠れていることが多いため、ある程度は狙っていたことだった。
何の説明も受けていないカロンはやや困惑したが、ザインと一緒に行動することは決定事項のため、特に気にしなかった。
ザインが「もっと近づけ」と言って、急にカロンの腕を引っ張ったのは、もうすぐ山道に入ろうかというところでだった。すぐ近くにザインの顔があることに非常にドキドキしたカロンだったが、なぜドキドキしているのか、その理由は自分でもわかっていない。殺されるかもしれないという類いのドキドキではないはずだ……たぶん。
そして、駆け落ち中のカップルだと思い込んだカシム達が無謀にも道を塞いだというわけだった。
その後の経緯は知っての通りである。
「いいと言うまで、しばらく名を明かすな」
カロンはその命令を最後まで忠実に守った。
ザインがカシム達に説明したことを、カロンはほとんど理解していない。ただ、生来の要領の良さがあるため、ザッハトルテ子爵家を助けるためにサーターアンダーギー伯爵家を襲うつもりだ、ということはわかっていた。
「そぎゃん偉か人ば襲うて大丈夫なんか?」
「大丈夫にするために子爵家を助けてやるんだ。当主が殺害された直後に子爵令嬢が盗賊に襲われれば、伯爵家と子爵家の関係を知る奴はどうしても関連付けてしまう。どちらも伯爵家のしわざだろう、とな。そこで子爵家が俺のことを盗賊の一人だと言えば、俺と伯爵家襲撃を関連付ける可能性は脳裏から消える。なぜなら俺を伯爵家の手の者だと思い込むからだ」
やはりカロンにはよくわからなかったのだが、ザインが大丈夫と言うなら大丈夫なのだろう、と納得することにした。
そして翌日――盗賊のアジトでの生活にフラン達が増えるわけだ。
「三日で戻る。その間、あの従者から戦い方を学んでいろ」
そう言ってザインが子爵領の領都タルトへ向かってしまった時、カロンは人生で初めての感情を覚えた。
寂しい、という感情だ。
(ばってん、主様は戻るて言うた。やけん、ウチは言われた通りに従者ん人から戦い方ば教わらんば)
ザインに褒められたい一心で奮起するカロンだったが、剣の才能はなく、結局、簡単な護身術しか教われなかったことでかなり落ち込んだ。
カロンにとって、ザインのいない三日間はとても長かった。たった三日とはいえ、初めての経験をたくさんくれた恩人と離れ離れになっているのだ、子どもにとってそれがどれだけ残酷なことかは、推して知るべきだろう。
三日が経って、ザインが戻ってきた時、「すぐに出立する」と言われたにもかかわらず、カロンはボーっとザインを見ていた。本当は自分のことなどどうでもよく、このままボーっとしていたら置いていかれるのではないか、と少しだけ不安だったからだ。
だが、ザインは当たり前のように「早く来い」とカロンの手を引っ張った。その時の喜びを、カロンはどんな言葉にすればいいのかわからず、ただただその手を強く握り返した。
こうしてまた二人きりの旅が始まる。
「――何? 簡単な護身術しか教われなかっただと?」
「あぅ……ウチ、剣ん才能がなかったけん……。ごめんなさい」
「カロンが謝る必要はない。……おそらく、俺の意図が正確に伝わっていなかったんだろう。戦い方を教えろ、とは文字通りの意味だったんだがな……」
「……?」
「あの子爵家の従者は確実に純粋な剣士だ。おそらく魔法も呪法も使えまい。だが、魔力が扱えないわけではない。純粋な剣士かつ筋力がつきにくい女性でありながら、子爵家の従者として護衛もこなせる――そういう者は大抵、剣に魔力を纏わせて戦う。あの従者もそのタイプのはずだ。それを教えろと言ったつもりだったんだが……」
狐系獣人は魔法的な才能が優れていることが多い。
だが、魔法を教えられる者は少なく、学ぶにも時間がかかる。ザインも教えられない。だから、使い手の多い何かに魔力を纏わせるという戦い方を学ばせて、その才能を生かそうとしたのだ。
「まあいい。伯爵領では無理だが、次のエッグボーロ辺境伯領で探せば何人かいるだろう。そいつに教わればいい」
「が、がまだす……!」
失敗したわけではない、と理解し、カロンはホッと息を吐いた。
一日かけて山を二つ超えると、そこはもうサーターアンダーギー伯爵領だった。とはいえ、ザインの目的は伯爵家。領都シュガーはまだまだ先だ。
途中、小さな村で一晩泊まることになった。その村には宿がなかったため、村長の家の一部屋を借りた。村人達は伯爵領の領民だが、ザインは領地に住んでいるだけの者達まで、むやみに襲うつもりはなかった。
「主要な都市とは違い、こうした小さな村は社会的な影響が閉じている。村民にとって村長が誰かは非常に重要だが、領地を治める者が誰かは大まかに言ってさまつなことだ。生活が維持されるならば、彼らは領主が誰であっても構わない。……だがこれは、逆に言えば、この村の人間が全員死んだところで、伯爵家には何の影響もないということでもある。ヤるだけ無駄だ」
ザインの言うことは、カロンにとっていつも難しい。
だが一方で、すぐに理解する必要はないともザインは話していた。
「ただし覚えておけ。いつか理解できるだけの知性を育んだ時、先人の言葉を知っているか知らんかでは雲泥の差だ」
長い言葉を覚えるのはとても難しい。だが、ザインの言葉なら、カロンはいつまででも覚えていられる気がした。
明けて翌日――村人達が畑へと向かう早朝に、ザインとカロンは再び領都シュガーへ向けて歩み始めた。
「おそらく今日の昼頃に、ザッハトルテ子爵令嬢達が子爵領領都タルトに帰還する。上手く子爵夫人が令嬢を抑えてくれるといいんだが……」
「フランちゃん、お家に帰れたと……?」
「何事もなければな。まあ、大丈夫だろう。子爵夫人に子爵が死んだことや令嬢を保護していることを告げた時に、下手なことを令嬢にさせるなと釘をさしておいたしな」
「フランちゃんのお母しゃんなどぎゃん人やったか?」
「ん? そうだな……強かったな、精神的に。夫が死んだと告げられても、感情を飲み込んでみせた。まあ、だからこそ交渉も上手くいったんだが……」
「交渉と……?」
「何、伯爵家を潰してやるから俺が盗賊の一人だと言い張り続けろ、とそれだけの簡単な取引だ。……実力を証明しろ、と返された時は少々焦ったが、カロンと会った時に狩ったモンスターの首を見せたらあっさり頷いたな」
こげ茶色の大きな狼を思い出し、確かにあれは強そうだったと心の中で頷くカロン。
「まあ、群れなら討伐難易度B級になるグラトニーウルフの首でダメと言う奴はおらんだろうが」
ザイン達が領都シュガーに着いたのは、誰もが寝静まった真夜中だった。立派な外壁に囲まれている。もちろん、真夜中は門が閉ざされるため、領都に入ることはできない。
だが、ザインはあえて狙って真夜中に着くようにした。無論、伯爵家を潰すためである。
ザインはカロンに「ここで待っていろ」と告げると、門を無視して外壁沿いに歩み――すぐにその影は見えなくなった。
「――ろ。……起きろ、カロン」
ザインが戻ってきたのがどれくらい経った頃だったか、カロンにも正確にはわからない。眠気に負けて寝てしまったからだ。
戻ったザインは若い女を両脇に一人ずつ抱えていた。どちらもサーターアンダーギー伯爵家の令嬢だ。
(……新しか奴隷にするとじゃろうか……?)
寝ぼけていたカロンは変な想像をしたようだが、ザインは契約魔法を使えないため、伯爵令嬢達を違法奴隷にすることはできない。
「なるべく静かにヤったが、バレるのも時間の問題だ。きついだろうが、すぐに離れるぞ」
「……が、がまだ…す……」
しばらくは懸命に歩いていたカロンだったが、やはりザインとは体力的な面で差があり、いつの間にか眠ってしまった。
そして陽の光の眩しさで目を覚ますと、そこはすでに森の中だった。
(おかしか……歩んどらんのに、なしか景色が動きよる……)
寝ぼけたまま首を傾げていると、すぐそばからザインの声が聞こえ、
「……ん? 起きたか」
そこでようやく、カロンは自分がザインに背負われていると気付いた。
いつの間にザインの背中で眠っていたのか、と慌てるカロンだったが、何のことはない、眠ってしまったカロンを背負ったのも、そのまま歩いたのもザインの意思だ。
ザインの足元からは影の縄が伸びていて、その先には二人の伯爵令嬢が縛り付けられている。影の縄の出現場所を変えることはできないのか、ザインが進むたびに、その前方の影から新たな縄が伸び、それがリレーするように運んでいた。
「あぅ……お、おはようございます……」
「ああ、おはよう」
当然のことながら、真っ赤になっているカロンの顔はザインから見えない。見えないことにカロンは少しだけ感謝した。まあ原因も同じザインなのだが。
もう少しだけその背中の温もりを感じていたい気持ちを抑え、カロンは自分の足で歩き始めた。これ以上、ザインに負担をかけるのも嫌だったからだ。
「……ところで主様、そん二人はなして連れてきたと?」
「ああ……盗賊達への報酬兼将来への投資といったところだ。まあ、殺すのは確定だが」
「なして殺さにゃいかんと……?」
「ふむ……カロン、貴族家を一つつくるのに大体どれくらいの金が必要だと思う?」
「ふぇ……貴族様ば、つくる?」
「少し違うな。俺が言いたいのは、当主や奥方、子息、騎士、従者、メイドなど、一つの貴族の血筋を安定させるために必要な人間全てだ」
「??? む、難しか……」
「これを考えるには、時間がどれだけかかるかも考慮しなければならない。一人の貴族をつくるには、十年以上の教育と、食事に不自由せず、貴族として生きられる環境が必要だ。そこからさらに配偶者を得て子を成し、その子がまた貴族となるのに十年以上の教育を必要とする。まあ、三代を重ねて四代目が誕生すれば、貴族家として安定したと言えるか」
時間を考えるという発想は、カロンにとっては思いもよらないものだった。
「代々が十代後半から二十代前半で子を成したとして、四代目が当主となるにはおよそ百年がかかることになる」
「百年……」
「だが、どれだけつくるのに時間がかかったとしても、壊すのは一瞬で済む。まして貴族は血筋にこだわる。誰でもいいというわけではない。しがらみも、数多の思惑もある。一つの血筋を滅ぼせば、別の貴族家として再建するのにかかる時間は百年を軽く超える。つまり、少なくとも貴族家が百年で消費するだけの金がかかるわけだ。……だからこの二人は殺す」
ザインに二つの鋭い視線が突き刺さる。
二人の伯爵令嬢は、カロンとザインが喋っている間に目覚めていた。もちろん、ザインの話も全て聞いていた。まあ、影で口も押さえられているため、何を言われたとしても呻くことしかできないのだが。
「とはいえ、伯爵家もそれなりに大きな貴族家だ、血のつながりのある貴族家も多いだろう。再建に百年はかからんかもしれん。だが、失われた人命にかけた金が無駄になったことに変わりはない。ボルト獣帝国にとって大きな痛手ではないだろうが、痛手であることは間違いない」
(主様はいったい、何ば目指しとるんやろう?)
まだまだ知性を育んでいる途中のカロンには、ザインの見ているものがわからなかった。
太陽が真上にさしかかった頃、ザインとカロンはカシム達と再会した。
「よぉ、先生。待ってましたぜ」
「時間も場所も指定通りだな。……尾行は?」
「特には。ってか、あの混乱じゃさすがに出せませんよ」
「道理だな。……約束の品だ、持っていけ」
「へへっ、ほう、こりゃどちらも別嬪さんですな」
「念を押すが、使い尽くしたら処分しろ」
「わかってますよ。おぅおめえら! 先生からの賜り物だ!」
カシムの言葉に盗賊達から歓声が上がり、二人の伯爵令嬢は、今度は本物の縄で縛られ、猿ぐつわを噛まされ、まるで荷物のように運ばれていった。
(あん二人は、きっと酷か地獄に堕とさるることになるやろう。ばってん、ウチには何も言うことはでけん……)
「……行くぞ、カロン」
カロンにはもうザインの隣以外に行ける場所がない。
そこ以外は全て地獄だからだ。
金色の双眸がカロンを見ている。
カロンにとっては、それが地獄の中で唯一輝く光。
たとえ誘蛾灯だとしても、その光しか見えなくて。
その光が照らす闇こそが、カロンの居場所、幸せの在処だった。
だからカロンは、その闇から逃れられない。
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