第9話 その電話番号は、現在も使われております


 紗菜は微笑み、彼の名前を呼んだ。


「ヒュウガさん。お久しぶり、紗菜です」

『……ああ。…………久しぶり、て、ほど経ってはないけど』

「ヒナタくんとはさっき会ったばかりだね」


 がたん! ――椅子がひっくり返る音。けらけら笑う紗菜に、彼は怒りはしなかった。ただズタボロの満身創痍といった声が聞こえてくる。


『ごめ、ん、俺。嘘を……ついていたわけじゃ……』

「うん」

『……最初、学校の友達かと思って。だからヒュウガは、そのアダナで。別に――隠してはない、本名が恥ずかしいとかそういう――』

「うん」

『年も――』

「うん」

『なにも誤魔化すつもりはなかった』

「うん」

『――ただ――ごめん、なさい。……年上の人を、呼び捨てにしたり、偉そうな口をきいたりして』

「うん。大丈夫。あたし嬉しかったから」


 紗菜は心から、なんの忌憚もなくそう言った。

 最初に間違えたのは紗菜のほう。いろいろ教えてくれる彼のことを、年上の大人だと思い込んでいた。

 彼は一度も、自分からそんなウソはついていない。紗菜をだまそうとしたり、見栄を張ったことはなかった。

 彼はただ、あるがまま――年齢や職業など関係なく、賢くて穏やかで、優しくて。

 ただの、素敵な男性だった。


 彼は言った。


『…………ガッカリされたくなかった。させてしまって、ごめんなさい』


 ううん、と、紗菜は否定した。


 詫びなどいらない。言い訳なんて必要ない。

 それより聞かなくてはいけないことがある。



 紗菜はルーズリーフのノートを開いた。最後の頁、ぐちゃぐちゃに塗りつぶされた部分に指で触れ、文字の凹凸を探してみる。

 まだ言い訳じみた弁解をしている彼の言葉をさえぎって。紗菜は、絶対確認しなくてはいけないことを質問した。


「ねえ、ヒュウガさ――ヒナタくん。あたしが間違えていたのは、あなたの年頃と名前だけよね?」


『……そうだよ』


 電話の向こうで、少年はぶっきらぼうにうなずいた。紗菜もうなずいた。

 ならばこれ以上、ほじくり返すべき彼の秘密などなにもない。たとえまだいくつか嘘があっても構わない。


 だけどこれだけは、明らかにしておかないといけない。


 紗菜は言った。


「あなたの好きなものを教えて。もう一度。……あたしも言う。

 『あなた』に向かって、ちゃんと言うから」




 紗菜は昔から、物持ちのいい方だった。流行(はやりもの)に興味がなく、一度好きになったものは、そう簡単には変わらない。

 本来ほんの数年で持たなくなるような、子供向けのものだって大切に使い続けている。

 泣いたり笑ったり、ときにヒビが入ったり直したりを繰り返し。

 月日が経ち、進学して、成人した。もう大人の女性と呼ばれる年になった。

 それでもそれは、ずっと紗菜のそばにある。


 少女の世界が広がり、たくさんの名前と数字が電話帳を埋め尽くしても。

 通話履歴を独占するのは、いつでもずっと同じ人。


 ずっとそのまま、彼の名前が並んでいる。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

この電話番号は現在使われております。 とびらの @tobira

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ