小さな花
津川肇
小さな花
まだコロナ禍だというのに、今日も終電は混んでいる。不織布のマスクをして、俺と同じように疲れた顔をしたサラリーマン。マスクもせずに大きな声で電話している年輩の男。飲み終わりなのか、頬を染めて体を寄せ合っている若者たち。多くの人で車両は埋め尽くされていた。二十分ほど電車に揺られると、目の前の席が偶然空いた。運がいい。俺はやっと腰を下ろしてスマホを開いた。
『お仕事お疲れ様。百花、やっと寝たよ。久しぶりの保育園だったから興奮してたみたい。けんくんに会えて嬉しかったってお話してくれたよ』
穂乃花からメッセージが届く。百花の通う保育園は、複数名のコロナ感染により昨日まで休園していた。今日は早く帰ってお友達の話を聞いてやりたかったが、結局終電になってしまった。百花の寝顔を想像しながら『了解。俺もやっと電車座れたよ。ママもお疲れ様』と返信をした。穂乃花と互いをママ、パパと呼び合うようになったのはいつからだろうか。百花が産まれてから、俺たちはパートナーという言葉がずっと似合うようになった。育児休暇も取れず、テレワークも導入しない俺の会社に文句の一つも言わず、穂乃花は家庭を守ってくれている。
スマホを流し見ていると、あるニュースが目に留まった。『西表島で希少海草群生地が消滅の危機』という表題だ。希少海草というのは、海菖蒲のことだろう。昔、父と母に連れられて見に行ったことがある。
当時の俺には、海菖蒲の花の群れが、しぶきを上げて押し寄せる波のように見えた。『波、凄いね』と言うと、『あれは実はお花なんだよ。白くて小さな花が、波に運ばれてるの』と母が教えてくれた。『ああやって風や波に乗って、またお花を咲かすために命のバトンを繋いでるの』と母は説明してくれたが、当時の俺にはいまいち理解できなかった。白い雄花が、自然の力を借りて雌花に辿り着き受粉するという仕組みなのだと知ったのは、ずっとあとのことだ。
俺の家は裕福とは言えなかったが、毎年の家族旅行だけは欠かさなかった。夏休みや冬休みを利用して、北海道から沖縄まで全国を旅した。両親はきっと、色んなものに触れさせて、経験でしか学べないことを知って欲しかったのだと今では思う。
帰宅すると、穂乃花はダイニングテーブルに突っ伏して眠っていた。その前には俺のために準備してくれたであろう手料理が一人分並んでいる。
「あ、パパおかえり。電気つけてよかったのに」
俺の気配に目を覚ましたのか、穂乃花は目を擦りながらそう言ってダイニングの電気を灯した。
「ママこそ、待っててくれなくていいのに。布団で寝ないと風邪引くよ」
「そうだけど、ハンバーグの感想聞きたかったもん」
「美味しいに決まってる。大好物なんだから」
穂乃花が向かいに座る。そういえば、初めて穂乃花が俺に振舞った料理もハンバーグだった。海菖蒲の小さな花のように、俺は人生の波に身を任せ、穂乃花と出会った。そして百花という宝物も授かり、今日もこうして穂乃花の作ったハンバーグを食べられる。いくら仕事が辛くとも、二人の笑顔を見ればなんてことない。
「なあ、コロナが落ち着いたら三人で旅行に行こうか」
「ええ、なに急に?」
穂乃花がやさしく微笑む。穂乃花と百花にも、あの海を走る小さな花をいつか見せたいと思う。そのいつかまで、海菖蒲も命を繋いでくれることを願っている。
小さな花 津川肇 @suskhs
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
独り言つ。/津川肇
★3 エッセイ・ノンフィクション 連載中 5話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます