記憶の十字架
森本 晃次
第1話 半分記憶喪失
「年が明けたら、結婚しよう」
という森山泰治の言葉を信じ、河村睦月は病院のベッドで新年を迎えた。
本当であれば、森山と二人の年越しを願っていたのに、まさか、病院のベッドでの年越しになろうとは思ってもいなかった。
それはもちろん、森山も同じことだと思うのだが、森山は何も言わず、睦月のそばについてくれている。さすがに二人きりというわけには行かなかったが、病室での年越しにはそばに森山がいてくれて、睦月にとって、ある意味新鮮であったことは、不幸中の幸いというべきかも知れない。
睦月が入院することになったのは、師走に入ってすぐの休日に、一人で買い物に出かけた時のことだった。買い物を終えて帰宅途中、出会いがしらにバイクが走ってきたのを避けようとして避けきれず、突き飛ばされるような形で近くの家の塀にぶつかったことで、脳しんとうを起こし、そのまま倒れ込んだのだった。
ケガの程度は全治三か月の足の骨折が一番ひどく、救急車で担ぎ込まれてから半日ほど意識不明だったこともあり心配されたが、問題の頭は精密検査では、異常はなかった。
ただ、問題が一つあった。
「記憶喪失なんですか?」
睦月の事故を知って飛んできた森山は、医者から聞いた話に愕然となった。都会で一人暮らしをする睦月の両親は田舎にいて、すぐに出てこれないこともあって、家族からも信頼されている森山が、医者の話を聞くことになった。
「記憶喪失と言っても、すべて忘れているわけではない。一部の記憶がないだけで、生活にも支障はないし、君や家族のことも、ちゃんと覚えている。とりあえずは問題ないのだが、まだ彼女を診て時間が経っているわけではないので、どの部分を忘れているのかなど、ハッキリしない。時々、彼女の話の中に矛盾した部分を発見することになるんじゃないかな?」
と医者は言っていた。
漠然とした話なので、森山もピンと来ない。医者もそんな相手にどのように説明すればいいのか考えながら話しているのか、それとも、マニュアル通りの説明なのか、どちらにしても、森山には事務的な話し方にしか聞こえなかった。
睦月は、医者の言う通り、一緒にいても、記憶を失っている素振りもないほど、意識もハッキリとしているし、森山が知っている睦月以外の何者でもなかった。
――これのどこが記憶を失っているというのだ――
森山が想像していた記憶喪失というと、テレビなどでよく見るような、生活には支障はないが、肝心なことを忘れてしまっていて、それを思い出そうとすると、極度の頭痛に襲われて、まわりが、
「無理に思い出そうとすることはないんだよ」
と宥めなければいけないほど、本人が苦しんでいる様子である。記憶を失っていても、思い出そうとさえしなければ、苦しむこともないし、逆に落ち着いた気分になれるのではないかと思っていた。
――記憶を失くした方が、気が楽かも知れない――
と思ったことがあるほど、かつて現実逃避しようとしたことのある人であれば、記憶のない方が楽に見えるのではないだろうか。
そんなことを口にするほど、森山は愚ではなかった。睦月がどんな思いでいるのかが分からない以上、下手なことをいうと、ショックが表に出てきて、声も掛けれないほどになるかも知れない。今まで見てきた睦月は、
――なるべく自分の感情を表に出さないようにしよう――
という素振りが見え隠れしていた。知り合ってから五年以上も経つのに、いまだ完全に睦月のことを分かりきっていないということは、森山自身も自分のことを分かっていないのと同じように、睦月も森山のことを分かりきっていないだろう。
睦月の場合は、途中までは非常に分かりやすい性格だった。知り合っていけばいくほど、その奥が深いのか、分かってきているはずなのに、先がまったく見えない場所に入り込んでしまったかのような錯覚に陥る。そこは、入ってしまってから一度迷ってしまうと、抜けることのできない樹海のようだ。途中で我に返ると、前を見て一直線に進んでいるはずなのに、どこに向かって進んでいるのか分からなくなってしまう、先の見えない洞窟は、どこまで続いていくのだろう?
そんな睦月だったが、自分が記憶喪失だという意識がないのに、まわりの人が「記憶喪失」として気を遣ってくれることがくすぐったかった。
しかし、それも最初だけで途中から、
――私だけ蚊帳の外に置かれている気がするわ――
と感じるようになっていた。
もちろん、まわりはそんな睦月の気持ちを分かるはずもない。なぜなら、睦月の考えていることが分かりそうに思ってみても、
――記憶を失っている――
という事実が頭の中にあって、どうしても、睦月の心の奥に触れることができないとしか思えなくなっていたからだった。
しいていえば、記憶喪失の弊害として考えられるのは、
――当の本人と、まわりから見ている人との見解が、かなり違っている――
ということではないだろうか。
まわりは、本人を見ていて、
「記憶喪失と医者が言うから、見た目はそうでなくても、本当に記憶喪失なんだと思って気を遣ってしまう」
というだろう。
しかし、本人としては、
「記憶喪失と言われてもまったく自覚症状はない。でもまわりが気を遣ってくれることが本当はありがたいんだろうけど、却って気が重くなる」
と考えていることだろう。本人には、自覚症状がないと思っていても、本当は潜在意識の中では記憶を失っていることを自覚している。だけど、まわりが気を遣うことで気が重くなってしない、そちらの方に神経が行ってしまって、記憶喪失という自覚症状が消えているのかも知れない。
それがいいことなのか悪いことなのか分からないが、本人に自覚症状が薄れているというのは、ケガの光明なのかも知れない。本人の気持ちも、まわりの見解も一番分かっている人がいるとすれば、それは森山なのではないだろうか。
中立という立場ではないが、近づこうとしても、何かの壁にぶち当たった。そこから先は入ることができない睦月との距離を考えると、中立と言ってもいいのかも知れない。しかもそれは睦月の記憶が失われてからのことではない。付き合い始めた頃の最初から分かっていたことだったのだ。
――適度な距離があるくせに、よく結婚しようなんて思ったものだ――
と、森山は感じたが、同じ思いを睦月もしているようだ。森山が感じている距離を睦月も感じているのだが、壁があって、そこから先に進めないという思いは同じだった。つまりは、睦月にとっても壁は想定外であり、
――森山が作ったものだ――
という思いがあることから、実際にはそんな壁など存在しないということに最初に気付くのはどちらなのだろう。
――神のみぞ知る――
と言ったところだろうか。
だが、森山の方で医者から、睦月が記憶喪失だということを聞かされてから、それまであった壁がなくなっているような気がした。しかも、そんな壁など最初から存在していなかったかのような感覚である。
存在していなかったと思っているのに、意識の中に壁の存在は残っている。そんな矛盾した感覚に、森山はしばし動揺していた。
――睦月はどう感じているのだろう?
睦月も同じように壁があったことを知っていたふしがあった。しかし、今の睦月は確かにどこかが違う。そんな睦月に以前と同じ感覚があるとは思えない。そう思っていると、自分と同じように感じていたはずの壁を感じなくなったことに違和感を感じているのではないかと思えて仕方がなかった。
睦月は、あまり友達の多い方ではなかった。大人しい性格も手伝って、学校でも話をする人は少なかった。
まわりはそれを、
「自業自得だわ」
と思っていることだろう。
睦月は、まわりから挨拶されると挨拶を返すが、自分から挨拶をするような気さくな性格ではない。最初はそれほど気にしなかったまわりの人たちも、さすがに毎回自分からしなければいけない挨拶にウンザリしていたことだろう。
だが、そのことも睦月は分かっている。本当は自分からしなければいけないこともあることは分かっているのだが、どうしてもできない。それは、タイミングが合わないからだ。相手は別に気にもしていないタイミングだが、睦月は自分のタイミングを無意識に持っていて、一度タイミングを外すと、二度とできなくなってしまうと錯覚しているようだ。
ただ、そのことに気付いたのは最近のこと、森山との結婚を考え始めてからだった。
そのことも、
――今だから、分かったこと――
だったのだ。
睦月が記憶を失っているということを知らない人でも、
「彼女、本当に変わったわね」
と、他の人が見てすぐに分かることだろう。それは、今までの睦月と入院してからの睦月は、まるで別人のように見えるからだ。
人に気を遣うということをしなかった睦月に対して、
――気を遣おうにも、どうすればいいのか分からなかったからなんだろうな――
と思っていた人は、少数だっただろう。ほとんどの人は、
「あの人は、分かっていて、人に気を遣わなかったのよ。要するに人と接するのが嫌なだけなのよ」
と思っていたことだろう。
少数の人という中には、もちろん森山も入っている。睦月のことを贔屓目に見ている人しかいないだろうから、当然、少数なのである。
だが、そんな森山も、入院してからの睦月を見ていると、
――やっぱり他の人が言っているように、分かって言て人に気を遣うことをしていなかったのではないだろうか?
と思うようになった。
なぜなら、入院してからの睦月は、完全に性格が変わったというよりも、
――今までの彼女がおかしかったのではないか?
と思うほど、今では気さくな性格になり、自分から人に話しかけるまでになっていた。
しかも、睦月は入院するまでの自分が無口で人とあまり話をしなかったということを忘れているようだ。医者が言っていたように記憶の半分を喪失しているというのは、最初信じられなかったが、
――信じないわけにはいかない――
と思うほど、豹変してしまっているのだった。
自分から人に話しかけるようになってくると、人に気を遣うということも自然にできるようになっていた。きっと睦月の中では、
「別に人に気を遣っているわけではない」
と思っているに違いない。
――人に気を遣うというのは、自然に出てくるもののことであって、意識して気を遣っているというのは、相手に対しての押し付けでしかないのかも知れない――
と、今の睦月を見ていて、そう教えられた森山だった。
それ以外は、今までの睦月と変わっているわけではないようだ。それだけに、睦月に対して、
――親近感が増したのは感じるが、それ以外は僕の知っている睦月なんだ――
と思っていた。
本当は、親近感を感じるところまでくる必要はないとまで思っていた森山だった。
――親近感が増すのは悪いことではないのに、どこかしっくりこない――
と、感じていた。
――睦月じゃないようだ――
退院が近づくにつれて、そんな風に感じるようになってきた。
――その思いを睦月には知られないようにしなければいけない――
と思いながら、睦月に接するのは少し辛かったが、睦月を見れば見るほど、今までとがっているようで、どこか遠くの存在に感じることもあるくらいだった。
――だんだんと遠のいて行っている?
と思うほどで、ただ、そう思っているのは森山だけ、他の人は、
――これが本当の睦月だったんだろう――
と思っているのかも知れない。
本当は、そう思わなければいけないのは森山なのだが、完全にはそう思えないところがあった。疑り深いところがあるわけではないが、入院してからの睦月の記憶が半分喪失している。そのことを意識するあまり、睦月のことを、
――まるで別人のようだ――
と思わなくもない自分がいることを分かっていた。
今までの睦月は、森山にとって、
――自分は特別なんだ――
という意識があった。
他の人には人見知りや、自分を出そうとしなかったのに、森山にだけは心を開いてくれている。
――自分だけの睦月――
という意識が強かった。
――どこが変わったというのだろう?
気さくにはなったが、他の人に心を完全に開いているようには見えない。
「それこそ、お前の偏見なんじゃないか?」
と、他の人に話せばそう言われるかも知れない。
確かに偏見なのかも知れないが、
――他の人の知らない睦月を、自分だけが知っている――
という思いをずっと持っていた森山にとって、今の睦月もそうだなのだと思いたいのだった。
偏見という言葉は、ある意味都合のいい言葉だった。
自分の考えていることを正当化しようとするには、自分を納得させる必要がある。相手があることで自分に納得させることが困難なこともあるだろう。しかし、そこを偏見という言葉を使って、少し他の人と違った目で見たとしても、自分なら許されるという時には、これほど都合のいい言葉はないと思っていた。
睦月がどう思っているか分からないが、
――まずは自分を納得させること――
それが大切だと思っている森山は、今の睦月に対して、手放しで性格が変わってしまったことを喜ぶ気にはなれなかったのだ。
――何か、隠しているのかな?
と思ったのも無理のないことだが、記憶を半分だけとはいえ失っている相手である。
――そんな器用なことができるはずもない――
と思えてきた。
睦月の性格が、記憶を失ったということを医者から聞いた時、変わってしまったように見えていたが、本当は、それ以前から少しずつ変わっていたことに、森山は気付かなかった。
本当は気付いていたのだが、交通事故に遭ったという事実と、それによって記憶の半分が喪失したという事実。そして見た目からして変わってしまった性格を見ていると、それまでのことを森山が意識できなくなったとしても、それは仕方のないことなのかも知れない。
それでは、睦月の側からすればどうなのだろう?
森山が、自分に対して疑念を抱いていることは、睦月には分かっていた。だが、それを表に出せないのは、
――私はこの人に対して、話してはいけないことがあるんだわ――
として、内緒にしていたことがあった。
交通事故に遭ったのも、実はそのことで頭を悩ませていた時、ふとした油断から出会いがしらに起こったものだった。
――普段の私なら、こんなことにはならなかったはずだわ――
と睦月は思っていたが、その思いに間違いはなかった。
睦月は、
「あなたは、半分記憶を失っています」
と医者から言われて、最初は信じられなかった。
「えっ、私がですか?」
と思わず笑みがこぼれたくらいだ。
しかし、考えてみれば、この状態で笑みがこぼれるような性格ではなかったはず。そのことは睦月自身が一番分かっていた。
――私、どうしちゃったんだろう?
と、急に不安になった。
――普段から、自分を隠そうとしていた私は、何かの報いを受けたのかしら?
と感じた。
自分を隠そうとすることは悪いことではないと思っていたのだが、さすがに事故に遭ったことで、余計なことが頭を巡った。
――それだけ、私が不安を感じているということかしら?
自己分析は的を得ている睦月にとって、自分が不安を感じているということは間違っていなかった。それはまわりから見ていて、森山だけが分かっていたことだが、睦月にとって、それは人に知られたくないことだった。
相手が森山であっても同じこと。知られたくない相手であることに違いはない。むしろ、相手が森山だからこそ、知られたくないと思っているに違いない。そんな睦月の思いを知ってか知らずか、森山は睦月に対して、いろいろと考えを巡らせていたのであった。睦月が気さくになったのは、ある意味、森山を意識してのことでもあった。ただ、そこまで作為が強いわけではない。睦月にとって、自然な行動だったのだ。
交通事故に遭うなど、普通は誰も想像もしていないに違いない。しかし、睦月は病院のベッドで目を覚ました時、
――私、交通事故に遭ったんだ――
と、瞬時に感じた。ただ、あまりにも唐突すぎて、自分ですぐに否定したが、
「あなたは、交通事故に遭われて……」
と医者から説明された時、思わず
「ウソっ」
と叫んでしまったが、まわりにいた人のほとんどが、
――交通事故に遭うなんて、すぐには信じがたい――
という意味で叫んでしまったのだろうと思ったに違いない。もし、自分がまわりにいる人の立場であれば、そうとしか思えないだろう。だが、実際に叫んだ理由は、最初に感じたことがウソではなかったことに対して、信じられないという思いからの叫びだったのである。
交通事故というのは、いつ誰が遭うかなど、想像できるものではない。それこそ偶発的なことを称して、「事故」という言葉で例えるのと同じことである。
交通事故に遭ってから、病院のベッドで目を覚ますまで、数時間が経っていたということであるが、検査はそれまでに終わっていて、脳波や内臓などの異常は見られなかったという。それなのに、記憶が喪失していることがどうして分かったのか、少し疑問ではあった。
「あなたの場合のように部分的に記憶が喪失している人は、検査で出ないこともあったりします」
という話だったが、
「じゃあ、どうして分かったんですか?」
「あなたは、覚えていないようですが、あなたが最初に目覚めたと思っているより前に、二度目が覚めているんですよ。その時のあなたの様子を見ていると、記憶が失われているのがよく分かりました」
「それは、私が聞かれたことに答えられなかったということでしょうか?」
「そうですね。意識も虚ろだったし、明らかに記憶がなかった。二回目はだいぶ回復しているようですが、まわりの人が聞けば、記憶がほとんどなくなっているということでした。あなたの意識が完全に戻った今でも、最初は私が質問したのを覚えていないでしょう? そこまでくれば、記憶が失われてしまったというのは間違いのないことなんですよ」
「でも、どの部分が失われたのかというのは、分からないんですか?」
「ええ、やはり記憶というのは、本人にしか分からないところもありますから、最初からないものなのか、それとも失われたものなのかは、あなたの中で感じる『記憶の繋がり』の中でしか分からないんです。特にあなたの場合の記憶の失われ方は、断片的なところが多いので、まわりは中途半端に記憶がなくなっていると思うことでも、本人は、最初から記憶にないと思っていることなんです。だから、あなたは自分の記憶が喪失しているという意識はないでしょう?」
「そうなんですよ。記憶が半分失われていると言われても、本当にピンと来ないんですよね。今のお話ですと、私が感じていることとまわりとでは、感じ方が違うということをおっしゃっているように感じるんですが」
「そうです。私も今まであまり感じたことがなかったんですが、どうやらそのようですよね。稀なケースだと思いますが、記憶喪失について研究している先生が友人にいるので訊ねてみると、その人の話では、記憶の半分が喪失しているからだって教えていただきました」
確かに、記憶が喪失しているということを聞かされたのは、目を覚ましてからしばらくしてからのことだった。その間に先生はいろいろ調べてくれたのだろう。
交通事故に遭ったというのは、今回が実は初めてではなかった。
小学生の頃にも一度事故に遭っていた。その時は、奇跡的なかすり傷で済み、入院もしなかったのを覚えている。どうやら、遊んでいてボールが道に飛び出したことで、ボールだけを追いかけて道に飛び出したようだ。車を運転していた人からすれば、本当に災難だったに違いない。
その人がどうなったのか、子供の睦月には分からなかったが、お見舞いに来てくれたことだけは覚えている。
――優しそうなおじさんだったな――
という記憶は今でも残っている。
交通事故に遭ったと言われて、最初に思い出したのが、その時のおじさんの顔だったというのも、皮肉なことだったように思う。そのことを先生に話すと、
「そうですね、記憶を半分喪失しているということは、、逆に言えば、残っている記憶は思い出しやすいところにあるという考えもあるかも知れませんね。あなたは、幸いにも今は記憶を喪失しているという意識はない。私は、敢えて記憶喪失をあまり意識しない方がいいのではないかと思うんですよ。記憶を喪失した人は、何かのきっかけで、記憶が戻ることもありますからね。ただ、その記憶が、本人にとって思い出したくない記憶であれば、思い出す必要はないと思います。それくらいの気楽な気持ちでいてください」
「分かりました」
医者の話を聞いていると、確かに気は楽になったが、
――どうにも楽天的すぎはしないかな?
とも感じた。
しかし、睦月自身に自覚がないのも事実で、必要以上に変な意識を持つ必要もサラサラないだろう。そう思うと、記憶喪失について考えることは、余計な考え以外の何物でもないように思えてきたのだ。先生が話していた、
――思い出しやすいところにある記憶――
というのは、繋がっている記憶である。繋がっていない単発的な記憶であれば、思い出しやすいところにあればあるほど、自分の中に矛盾を感じるはずだからである。今の睦月には矛盾した記憶が頭の中にあるわけではない。
――それだけ記憶が意識としてハッキリして来ているのかも知れない――
と、感じるのだった。
「睦月さんが、子供の頃に遭ったという交通事故について、先生はどんな事故だったのか知らないけど、優しいおじさんを思い出したというのは、きっと睦月さんの中で、その時の罪悪感が残っていて、残っている悪かったという気持ちが、最初に強い印象として思い出させるんでしょうね」
それだけ、記憶がハッキリしているものは、相当昔のことでも、まるで昨日のことのように思い出すことができるようになっていたのかも知れない。だが、その時の睦月には、自分の中にある時系列が、微妙に狂ってきていることに気付いていなかったのだ。
睦月は、記憶を失ったことで自分の思惑を忘れてしまっていたのだが、忘れてしまった記憶の中に、
――誰かに対して隠しておかなければいけない――
ということがあった。
そのことは次第に思い出して行くのだが、肝心のこととなると、思い出すことができない。
誰に対してかということになると、考えられるのは森山に対してだった。一体どうして森山に話せない秘密にしなければならないものがあるのか、今では不思議で仕方がなかったが、自分の意識の中では、さほど大げさなものではなく、
――内緒にしている方がいい――
という程度のものだったような気がする。
しかし、記憶を失って、失った中に、その内緒にしていることがあるというのは気になるものだ。思い出そうとすると、頭痛が襲ってくるのだが、それは、自分の中で、
――思い出してはいけないものなのだ――
という意識を持っているからに違いない。
ただ、そんな素振りは相手に伝わるもので、どうやら森山が何かに気付き始めたことを悟った睦月は、自分の方から森山にいろいろ話を持っていき、自分の記憶を失くしている部分のいくつかでも話してもらおうとしたのだ。その話を聞いているうちに、自分が何を隠そうとしていたのかを探る糸口が見つかるのではないかと考えたからだ。
かといって、森山とのことは、ほとんど覚えていて、頭の中ではすべてが繋がっていた。何かを隠そうとしていたとしても、その糸口になるようなものは、そう簡単には見つからないだろう。一つ気になることは、
――自分が、どうして彼と結婚しようとしていたのか?
一番肝心なことのはずなのだが、どうしても思い出さなければいけないことだという意識はない。
――彼と一緒にいれればそれでいい――
という思いが今の意識の中では一番強い。
まさか、それが結婚を思い立った最大の理由だとは思えない。どこかに結婚しようという意識があったからなのだろうが、その意識を司っている「意志」が、睦月には思い出せないのだ。
――そんなことってあるのかしら?
理由もなしに結婚しようとしている自分に、睦月は納得しているのだ。それはやはり潜在意識の中に結婚するのに納得するだけの何かが潜んでいるのだろうが、それがあるというだけで、それがどんなものなのか分からなくても納得してしまう自分が怖かった。
――私って、自己暗示に掛かったのかしら?
自己暗示でもなければ、そう簡単に納得できない。
――結婚するまでに思い出せるという確証のようなものが潜在意識の中にあるのかしら?
としか思えなかった。
――結婚するのに、理由なんか必要なのかしら?
という大胆な考えが頭を過ぎったりもしたが、ひょっとすると、記憶を半分失ったのは、交通事故が原因ではなく、
――忘れてしまいたいものがあったからではないか?
とも考えられた。
交通事故に遭ったというのは、記憶を失うという過程の中では、ただの通過点のようなものだというだけのことだったのではないだろうか。
子供の頃に遭った交通事故では、逆に記憶力がよくなったような気がした。もちろん、気のせいなのだろうが、まわりから、
「お前は、あの時から、賢くなったな」
と、言われるようになり、本当なら不謹慎なのだろうが、そういうことにはあまり気を遣わない睦月としても、
――そうか、あの時から私は賢くなったのか――
と、却って自分でその気になってみたりもしたものだ。
確かに、交通事故に遭ってから後のことは、結構覚えている。交通事故に遭う前の自分が、何を考え、どのようになりたいと思っていたかなど、まったく思い出せない。考えてみれば、何も考えていなかった子供が、急に考えるようになる時期というのはあるもので、それが偶然、交通事故の時だっただけなのかも知れない。
子供心に睦月は、自分があまり勉強ができないのは、好きになれないからだけではないことが分かっていた。勉強していても理解できない。理解しようとしないわけではないのに、理解できないのだ。
――私って、バカなんだわ――
と、勝手に思いこんでいた。理解できなければ、まわりからいくら勉強しろと言われても、できるはずがない。していても、それはポーズを取っているだけで、本当に分かっているわけではない。それでも、机に座って勉強しているふりさえしていれば何も言われないし、その後も、何かと過ごしやすかった。
そんな睦月が交通事故に遭ってからというもの、あまり表で遊ばなくなった。怖いというのもあったが、それ以上に、一度交通事故に遭っていると、まわりが変な気の遣い方をして、自分を本気で相手してくれていないのが分かるのだ。
それで面白いわけはない。
仕方がないので、本を読むようになったのだが、結構本を読むのは楽しかった。
本を読み始めたのは小学四年生の頃だったが、子供向けのミステリーがあり、密かなブームだった時代があった。本来なら、中学生くらいがちょうどいい読者年齢なのだろうが、小学生でも読める内容になっていて、謎解きがメインなのだが、その中にオカルトな部分もあって、ピリリと辛さが利いていて、結構楽しかった。
ミステリーを読むことで、友達もできた。
表で遊ぶことがなくなってからは、いつも一人だったのだが、図書館に出かけて本を物色していると、同じクラスの女の子を見かけたことで、お互いにビックリしたものだった。
彼女も、学校では目立たないタイプの女の子で、眼鏡を掛けたお下げ髪、まさしく地味っ子と言ってもいいだろう。
それでも、彼女は結構いろいろな本を読破していて、学校では信じられないほどの饒舌ぶりだった。放っておけば、いつまでも話をしているような雰囲気で、それでもどこで声を掛けていいのか分からずに、結構聞き続けていた。
苦痛ではないと言えばウソになるが、それなりに話を聞いていて面白かった。少なくとも図書館で一人、本を物色しているよりも楽しかった。本もいろいろ紹介してくれて、彼女が紹介してくれる本に間違いはなかった。
ただ、彼女とは本を読んでいても、目の付け所が少し違っていた。どちらが正しいのか?
いや、そもそも本の解釈に正しいも、正しくないもあるのだろうか?
そう考えてみると、お互いに同じ本を読んで、感想が違っているのは、結構楽しいものだった。
本を読むようになってから、自分でも気付かないうちに勉強が面白くなっていた。それは本を読むことで頭が柔軟になってきたのか、教えられた内容が分かるようになっていた。最初は、
――先生の教え方が悪いのよ――
と言いたいくらいだったが、どうやらそうではなかったようだ。考え方を変えれば、今まで理解できなかったことが理解できるようになった。それは、
――見る角度を変えてみる――
という考えで、頭が先に進んだからなのかも知れない。
その頃から、記憶の中に、
――時系列――
というものを意識するようになった。
たとえば、自分の中でハッキリしている記憶は、だいぶ前のことでも昨日のことのように感じられるが、逆に意識として薄いことは、いくら昨日の出来事であっても、かなり前に感じられたりする。
一種の錯覚には違いないのだが、錯覚を呼び起こすほど、意識が記憶をかなりの割り合いで、
――浸透――
しているのではないだろうか。
浸透という言葉は生き物であり、昨日はかなり奥まで入りこんでいても、次の日になれば、押し戻されていることもある。進みっぱなしというわけではないのが、記憶に対しての意識だった。
だが、そんな意識があったのは成長期のこと、大人になってくるにつれて、精神的に落ち着いてくると、時系列に対しての感覚は変わらなくとも、それほど、意識を強く持つということもなくなってきた。きっと状況というものに慣れてきたのかも知れない。
だが、時系列という感覚は、意識の奥にハッキリとあった。時系列に狂いが生じるのも意識の中で分かっていた。
そんな意識が、最近の交通事故で記憶が半分失われてしまったということを聞いたことで、今まで意識せずに来たことを、再度意識しないといけない状況になってきたことを、睦月は考えるようになってきたのだ。
――失われたと言われる記憶は、時系列に対して、何かの法則があるのだろうか?
まず、失われた記憶について考えた時、最初に頭に浮かんだのが、時系列に対してのこの考えであった。
実際に、記憶が失われたと言っても、考えられる範囲では、意識や記憶が飛んでいるところはなかった。それは、失われた記憶があるということを意識してしまったことで、強引にでも辻褄を合わせようとする意識が働いているからなのかも知れない。ただ、もしそうであれば、時系列は、自分の意識の中で、無作為に何かの役目を果たそうとしているのではないだろうか。
時系列を意識していると、
――失われた記憶の中に、自分が森山に対して何かを隠そうと思っていたという意識が、さらに信憑性を帯びてくるような気がする――
と感じてくるようになっていた。
睦月は、自分が森山に対して、
――この人は、私の記憶にある森山さんとは、何となく違っているようだわ――
という疑いを持つようになっていた。
疑いというのは、錯覚に近いもので、自分の記憶の失われた部分のほとんどが森山に対してであれば、意識が違ってくるのも当然というものだが、もし、失われた記憶のほとんどが森山のものであるとすれば、それを、
――ただの偶然――
として片づけていいものなのだろうか?
睦月は、自分が何を気にしているのか、考えているうちに少しだけ分かってきたような気がしてきた。
最初にベッドの上で気が付いた時に感じ、今もその言葉を信じている、
「年が明けたら、結婚しよう」
という言葉、これがどうも違っているような気がして仕方がなかった。
今年、二十歳になる睦月は、自分がまだ未成年であることをずっと意識してきた。
森山は今年二十五歳になる。五つ年下なのだが、未成年であるという意識のせいで、自分が彼から見ると、
――まだまだ子供だ――
と思われているように感じられて仕方がなかった。
まだ、未成年だったのだから仕方がないが、そんな彼が、まだ未成年の自分に対し、結婚を口走るようなことがあるかどうか、疑問だったのだ。
本当は、
「成人式が済んだら、結婚しよう」
だったのではないか?
もし、そうだとすれば、どこで勘違いしたのか、意識が考えてしまう。やはりそこには時系列に対しての考えが、見え隠れしているのではないだろうか。
――そういえば、どうして森山さんと結婚しようなどと思ったのだろう?
森山が彼氏で、ずっと付き合っていたという意識はあったが、
――結婚を本気で考えたことがあったのか?
と聞かれると、少し疑問であった。
確かに、結婚を前提に付き合っていたのは間違いない。このまま他に好きな人が現れなければ、時期が来た時に付き合っている相手と結婚を考えるのは当然のことではないだろうか。今現在として、その一番近くにいるのは森山である。他の人が考えられないという点で、結婚を前提であったと思うのが自然である。
森山からプロポーズされたという意識はあまりない。どちらかというと、森山の方が、結婚に対してクールだったのではないかと思っている。ただ、結婚しようという思いが高まってくると、最初に切り出すのは男の方からというのが普通ではないだろうか。だから結婚の話を切り出されて驚きはあっても、それはいきなりだったというだけで、まんざらではない。睦月の方も、
――結婚するなら、森山とだろう――
と思っていたのも事実だった。
ただ、まだその時は未成年だった。成人と未成年という境を気にしているのは睦月の方というよりも、森山の方だったのかも知れない。まわりから結婚を反対されていたわけでもなく、どちらかというと、森山という青年は、睦月の親からは好感を持たれていたはずだった。
そういう意味で、余計に森山の方が成人にこだわるのかも知れない。
せっかく睦月の親から好感を持たれているのだから、無理に急いで結婚する必要もない。少なくとも成人してからでも遅くないはずだ。睦月もそのことがよく分かっていた。そんな森山の気持ちが嬉しいとも感じていたし、森山なら、自分も含めて、親も大切にしてくれるだろうという思いが強かったのも事実だった。
睦月は自分の親について考えてみた。
睦月の両親は、田舎暮らしが長かった。睦月を生んだのは、都会にいる時だったらしいのだが、すぐに田舎に引きこみ、睦月は自分の記憶の中で、都会で暮らしたという思いはなかった。
高校二年生の頃くらいまでは、都会についてまったく興味がなかったのだが、進学を考えるようになって、少し都会を意識し始めた。四年生の大学ではなく、短大に進むことを考えていた睦月は、今住んでいる街の短大を目指して勉強を始めたのが、ちょうど高校二年生の頃からだった。
元々母親が都会に出た時に住んでいた街が、今睦月が住んでいる街である。都会と言っても、それほど大都会ではないが、それでも、学校や病院、一般企業もたくさん進出していて、それなりの都会であった。母親が住んでいた時代とはかなり様相が違うのはもちろんだが、短大を卒業してからも、このまま田舎に帰らずに、この街で暮らすことを決めていた。
両親に反対されるかと思っていたが、
「あなたがそれでいいなら、好きなようにしなさい」
と、アッサリと両親は認めてくれた。中学時代までは結構厳しかった両親だが、高校に入学すると、ほとんど何も言われることもなく、現在に至っている。心配はしてくれていると思っているが、少し拍子抜けしているところもあった。
森山も、最初から結婚を意識していたわけでもなく、仲がよくなってからも、最初は結婚とまでは思っていなかった。急に思い立ったわけだが、森山の方でも、
――どうして思い立ったのか分かっていないかも知れない――
と感じさせた。
睦月にとって森山との出会いは、それまでの自分を一変させるほどセンセーショナルなものであったわけではない。それまでに好きになった男性がいなかったわけではないが、一番最初に付き合ったと言える男性は森山だった。
ということは、睦月は森山以外の男性を知らない。初めて付き合った相手と、次第に仲を深めていき、結婚というゴールを目指しているという思いを抱いていた。
結婚が本当にゴールというわけではないのだが、恋愛という意味では、結婚がゴールとなる。つまりは、
――結婚してしまえば、そこから先は恋愛ではない――
と、感じていたのだ。
森山が付き合った相手は、睦月だけではなかった。実際に、睦月と知り合った時、ちょうど森山は失恋してからすぐだった。
森山が睦月を気に入った一番の理由は、可愛いからでも、優しいからでもなかった。確かに、可愛いし、優しさも持っていると思っているが、何よりも森山が気に入ったところは、
――賢いところ――
だったのだ。
賢いというよりも、
――頭の回転が早い――
というところが気に入っていた。頭の回転が早いと、相手に気を遣っていると思わせることなく、さりげなく相手に好感を持たせることができる。それが、森山にとって睦月の最大の魅力だったのだ。
睦月と知り合う前までの森山は、可愛い子であったり、優しい子を探していた。
――その方が、自分にとって癒しになる――
と考えたからだ。
しかし、森山が好きになり、相手も森山と付き合うようになると、最初は、確かに可愛かったり優しかったりする女性は自分が想像しているようなタイプの女性であるが、付き合って行くうちに、今度は距離を感じてくるようになる。次第に相手が横着に見えてきたり、優しさが表面上だけのものに感じられてくると、どうしてもウンザリ来てしまって、自分も表面上の付き合いしかできなくなってくるのだった。
相手も、そのことに気付いてくると、お互いにぎこちなくなってくる。喧嘩が多くなって、そのまま喧嘩別れしたこともあったが、お互いにぎこちなくなると、そのまま自然消滅の形もあったりした。さすがに喧嘩別れのような最悪な別れではないものの、喧嘩別れよりも精神的には尾を引くように思えてならなかった。喧嘩別れの方がいいたいことをお互いに言えるので、案外アッサリしていたりする。その点自然消滅は、その時だけでなく、先の恋愛にも影響を及ぼすような気がしてならなかったのだ。
森山は、今まで付き合ってきた女性に対し、付き合っている時や別れてからすぐなどは、別に違和感を感じていたわけではなかったが、別れてから冷静になると、その時の気持ちから次第に変わってきているのを感じた。
未練などというのは欠片もなく、
――どうしてあんなバカな女たちと付き合っていたんだろう?
と思うようになった。
相手が本当にバカだと思っているというよりも、そんな相手を好きになった自分に情けなさを感じている方が強かった。
――他に、もっとましな女性がいただろうに――
という思いである。そういう意味で、睦月との出会いはセンセーショナルなものであった。そんな素振りは表に出すことはなかったが、睦月との出会いに運命のようなものを感じていたのは事実だった。
睦月はというと、森山の女性を見る目が、他の男性と比べて、ここまでクールだとは思っていなかった。しかし、下手に軽いノリの男性に比べると、相当しっかりして見えた。それだけでも、睦月にとって好感度は高く、最初から悪い印象など、どこにもなかったのである。
睦月と森山、お互いに惹かれるものは違っていたが、求めているものが相手にあることに気付いたのが、うまく付き合ってこれた一番の理由だと思っている。
「相手を好きになるのに、理由なんているのかしら?」
と言っていた友達がいたが、睦月にとっても、森山にとっても、理由というのは、お互いの気持ちの上で、重要なものだったに違いない。
「あなたの記憶は半分、喪失してしまっています」
と、医者から言われた睦月は、
――自分が森山を好きになった本当の理由について、忘れてしまったのではないか?
と、感じるようになった。
自分の中では漠然としたものが残ってはいるが、本当は、もっと確固たるものが存在したのではないかと思ったのだ。
そのことに気付いてみると、森山の態度がどこかクールであることが分かってきた。
交通事故に遭って、入院している自分の彼女、これから結婚を考えている女性に対して、もう少し気を遣ってもいいように思えたのだが、気を遣うということに対してあまりいいイメージを持っていなかったのは睦月も同じことで、そんな自分が、どうして相手が気を遣ってくれないことに違和感を感じなけれなならないのか、分からなかった。
交通事故から目が覚めて、森山が言った言葉、
「年が明けたら、結婚しようと話していたのに」
という言葉を最初は間に受けていたが、次第に疑問に思えてきた。自分が間に受けたことに対して、森山はおかしな素振りを見せなかった。まるで、本当にそのことを最初から信じたのだということに疑問はなかったのだろうか。医者から記憶の半分が喪失していると聞かされて、喪失した部分が、この言葉だったのだということをまるで最初から分かっていたかのようだった。
睦月は成人式の日を迎えた頃には、足の骨折以外では、すっかり身体の方はよくなっていて、
「いつでも退院しても、構わない」
と、医者から言われていた。
ただ、通院だけは続けなければいけないようで、
「一週間に、二回ほど通院してください」
と言われた。
成人式を終えた後には、今度は卒業式も迫っている。考えてみれば、結構多忙ではないだろうか。それを分かっているはずなのに、本当に結婚など考えていたのかと思うと、現実と結婚とのどちらが自分にとっての本当のことなのか、分からなくなっていた。
成人式の三日前に退院した睦月は、約一か月ぶりに自分の部屋に帰ってきた。その日はちょうど森山が会社の出張で一緒に立ち合ってくれなかったのは寂しかったが、
「すまない。この埋め合わせはちゃんとするから」
と言って、恐縮しながら、出張に出かけていった森山の後ろ姿を見ていると、まだ学生である自分が、社会人の彼に無理なことは言えないということを感じるのだった。
森山の背中はいつ見ても堂々としていた。他のサラリーマンとはどこかが違う。社会の中の一コマとしてのサラリーマンばかりを想像していたからか、彼の後ろ姿に感じる風格は、決して社会の中の一コマに過ぎないわけではないことを教えてくれているかのようだった。
――言葉にするには難しいが、どうして彼のことを好きになったのか、分かる気がする――
と、彼の背中を見ていると感じる。交通事故に遭うまではそんなことを考えたことなどなかったのに、どうしたことだろう。交通事故の前と後でどのように違うのか、睦月はこれから成人式を迎えてから、どのような考えを持つに至るのか、非常に興味があった。自分のことでありながら、まるで他人事のように思えるのは、客観的に自分を冷静に見ることができるようになったからであろう。交通事故に遭うまではそんな気分になったことはなかった。やはり、今回の交通事故は、睦月の中にある何かを失った時であるが、何かが弾けた時であるというのも真実なのかも知れないと感じた。
ただ、森山を見ていて、風格を感じたり、大人を感じさせるのはいいことなのだが、それ以外で、何か不安に襲われるのも事実だった。
彼自身に対して、何か怖がっているわけではなく、彼と彼を取り巻く何かが、睦月に対してどういう影響を与えているのかということを考えていると、どこか不安を感じてしまうと、隠しきれない不安がさらに膨らんでくるような気がしてきたのだ。
そんな不安の中で一つ気になっているのが、時々見せる森山が睦月を見る目に不気味なものを感じていたからだ。
――以前にも、どこかで同じような目を見たことがある――
と感じた。
それが、いつの頃の誰だったのかなど、まったく思い出せない。ただ、吸い込まれそうなその目を見ていると、不安以外の何物でもないように思えてくる。ただ一つ違和感があったのは、
――どうやらその目は、女性の目ではなかっただろうか?
と感じることからだった。
その人が何を考えているのかまったく分からなかった。それが怖さを引き出したのかも知れない。少しでも考えていることが分かれば、どういう怖さかを判断し、対処のしようもあるのだろうが、なかなか分からなかった。
しかし、退院する頃になって、森山のその目を見ていると、森山の考えていることは分からないが、かつて同じことを感じた相手の気持ちが少しだけ分かってきた気がしていたのだ。
――まるで先が見えていないのに、必死に先を見ている目だわ――
先が見えなくても、ずっと見続けていれば、先が見えたような気がしてくるというもので、その時の女性は、そのことを知っていて、見えないと分かっていながらも、一縷の望みを掛けるかのようにじっと前を見据えていた。
睦月にも、同じような経験をしたことがあったような気がした。
あれは、高校時代に友達と登山に行った時のことだった。
登山道というものは、途中までで、そこから先は、岩場をすり抜けるように歩いていったり、森の中を抜けていくような場所があったりと、多種多様な顔を見せる山だったが、その途中で、広い高原のようなところがあった。
一面にすすきの穂が植わっていて、それが風に靡いている。普段見たこともないような光景に、背筋がピンとなって、どこまで続いているか分からないすすきの穂が棚引く高原を歩いていた。
すすきの穂は、結構背が高かった。
歩けば歩くほど先が見えていたはずなのに、次第に、目的地が分からなくなる。そんな時に後ろを振り向くことはできないが、まるで後ろにも目が付いているかのように、想像で後ろを見ていると、入ってきたところがまったく見えない状態だった。
振り向くことができないのは、前後左右がまったく判別できないところで、進行方向と違う方向を少しでも向いてしまうと、どこから来て、どこに向かっているのかということが、まったく分からなくなってしまうからだった。
ゆっくりと歩くのが怖いと思いながらも、何も考えず、猪突猛進してしまっては、後悔しても始まらない状況が生まれてしまうことが分かりきっていたからだった。
そう思っていると、前を向いて歩いているつもりの自分が信じられなくなってくる。
――本当にこの道でいいのかしら?
声に出したわけではないが、自分の声の余韻が耳の奥に残っているのは不思議なことだった。
――きっと、自分に言い聞かせようという意図が働いたからなんだわ――
と感じた。そう思えば、自分の声を意識したというのも、無理のないことに思えてならなかった。
――季節は秋だったんだろうな――
すすきの穂というだけで、思いつく季節は、秋しかなかった。空を見ると、決して天気がいいわけではなく、雲だけが足早に通り過ぎていく。
――すすきの穂が風に靡くのも当然のことだ――
と思わせた。
ゴーっという風の音が耳鳴りのように響いている。すすきの穂は、すべて同じ方向に靡いているのだが、まるでウェーブが掛かったかのように時間差でなだれ込んでいるのを見ると、まるで誰か人の手が絡んでいるように思えて不思議だった。
ただ、この音は山でしか本当に感じたことがなかったのだろうか?
「睦月は山と海とではどちらが好きか?」
と聞かれると、迷うことなく、
「山の方が好きだ」
と答えるだろう。
しかし、海が嫌いだというわけではない。確かに他の人のように
「海が好きだ」
と、ハッキリと言いきれないところがあるが。海は海で、どういうところがいいのか、説明しろと言われると、何とか説明できるような気がしていた。
このゴーっという音は、確か、サザエのような貝殻を耳に当てた時に聞いた音だった。ただ、本当はどちらもそんなに似ていないような気がしていた。それでも似ているというのは、どちらかが歩み寄ったのだろうが、睦月には、どちらが歩み寄ったのか、まったく見当もつかなかった。
なぜなら、どちらの音も、睦月が意識している音ではないように思えてならないからだ。しいて言えば、風の音のように思えることから、
――山の方だ――
と思っていた。
海で聞こえる貝殻の音は、空気が充満していて、充満したところから逃げ出そうとしている音に聞こえる。その音は、漏れているというよりも、爆発前の音のようで、風の音が乾いた音であるのに対して、貝殻の音は、明らかに湿っている。山と海の特性を考えれば分かることで、海は湿気を帯びていることから、籠ったような音が聞こえても仕方がなかった。
睦月は、湿気が嫌いだった。
ということは、充満した空気が嫌いなのだ。
どこか密集した空気は、呼吸困難に陥らせ、過呼吸がどれほどの苦しさなのかを感じさせるものだった。
山の空気の薄さも本当は辛いのだが、飽和状態の爆発寸前の方がよほど恐ろしいと思っている。
空腹状態であれば、満腹になりたいという欲が生まれるが、飽和状態から、何かの欲など生まれるはずなどない。
「海はあまり好きではないが、山は好きだ」
というのは、こういうところからも考えられることである。
そんな風に考えていると、森山と同じような目を感じたのは、
――自分の中で、海と山を自然な気持ちで比較していたからなのかも知れない――
と感じた。
そして、その目を持った人が違う環境にいる自分のような気がして仕方がなかった。
退院してからの睦月は、記憶を半分失っているという事実を、あまり意識しないようにしていた。
入院している時は、身体もなかなか動かせないし、病院という雰囲気が、自分を嫌でも病人だという意識にさせられる。しかし、退院してしまえば、まだ身体が言うことをきかないところがあるとは言え、環境が変わったことで、意識も変わってくる。
何よりも残っている記憶だけで十分なほど今の記憶はしっかりしていて、却って余計なことを思い出さずに済むと思えばいいことのようだった。
退院してから森山とは、三日に一度の割り合いで会っている。最初は、
「毎日でも会いたい」
と、森山は言っていたが、実際に退院してみると、今度は睦月の方から連絡しないと、森山と連絡が取れなかった。それだけ彼の方から連絡をしてくることはなかったのだ。
――あれだけ心配してくれていたのに、退院したと同時に、まるで人が変わったみたいだわ――
と感じていた。
しかし、残っている記憶を総合して考えると、森山はそこまで相手を心配するタイプの男性ではなかった。交通事故に遭ったというのを聞いてから、すぐに飛んできたわけではないというし、冷静なところは憎らしいほどで、人によっては、彼のことを冷徹だと思っている人もいることだろう。
そんな彼が、
「毎日でも会いたい」
と言ったこと自体が不自然で、思わず、
「私は大丈夫だから」
と答えたのは、相手に心配させたくないという思いとは違うところにあった考えが、そう言わせたのだった。睦月が森山に対して怖さを感じたのは、冷徹なところが見えたからではなく、逆に冷静な態度の中に、冷徹ではない部分が見え隠れしていたからではないだろうか。
――まるで別人のようだ――
睦月の知っている森山とは違う人が、乗り移っていたかのようだった。
ただ、睦月が知っている森山は、あまり人に気を遣うことをしない人だが、それは意識して人に気を遣っていないわけではなく、鈍感なところがあるからだった。
森山に鈍感なところがあるなど、睦月は知らなかった。
今まで、森山と相手をしていて、気を遣ってくれているという意識はなかったが、気を遣わなくてもうまく付き合っていける相手が森山だったのであって、どうして森山が睦月に気を遣わないでもよかったのかということを、睦月は分からなかった。
それは、森山が睦月のことを、
――賢い女――
だと思っているからで、何も言わなくとも分かってくれる相手に、気を遣う必要もない。下手に気を遣ったりすると、余計な思いを抱かせるだけで、せっかくのいい関係に立っているものが、おかしくなりかねないからであった。
森山は睦月と、結婚を考えるまでの仲になるとまで、思っていなかった。
――それなのに、結婚を考えるまでになったというのは、自分の気持ちが変わったというよりも、睦月という女の魅力に惹きつけられたところから、抜けることができなくなったことが大きな原因なのかも知れない――
と感じるようになっていた。
自分が鈍感であるということは、森山は自覚していた。子供の頃から、まわりの目が自分に対して、鈍感であるということを無言で訴えているような気がしてならなかった。
鈍感だということで得をすることはなかったが、さほど損をすることもない。ただ、自分が鈍感だということを自覚さえしていれば、まわりとうまくやっていくことができるのだということに、気が付いた。もし自覚していなければ、自尊心の強さがプライドの高さだとまわりから見られてしまい、鈍感なところを、誰も笑って許してはくれなくなってしまう。
鈍感だということは、人の言うことを、まともに信じてしまって、
――疑うことを知らない――
そんな性格だ。
むしろ、人を疑わないところを、
――自分の美学だ――
と思っている森山は、それが鈍感という言葉と結びつくことを分かっていなかった。
それが分からないから鈍感なのだが、人から指摘されたことでも、自分で信じられないことであれば、まったく信じようとはしなかった。口では信じているようなことを言っても、まっすぐな考えが、口から出てくる言葉と考えていることで違っているところに矛盾があり、その矛盾を正当化させようとして、敢えて、まわりのことを考えないようにしていることで、鈍感に見られるようになったのかも知れない。
睦月は、一人でいると、自分が、
――本当は孤独が似合う女――
だということを思い出してきたような気がした。
それまで、友達とどこかに行ったという記憶はあるのだが、その時のことが思い出すことができても、その時に一緒に行ったのが誰だったのか、思い出すことができない。その時々で別人だったような気がする。そんなことがあるのだろうか?
今までで友達の記憶として一番しっかり残っているのは、小学生の頃、ミステリーを読むようになった時にできた友達だけだった。同じ趣味が嵩じて仲良くなったのだが、その時の会話の詳細などは思い出せないまでも、話をしていて、お互いの気持ちが高揚していたのはハッキリと覚えている。
――時間を感じることなく話をしたのは、その時が初めてだったわ――
と考えていたが、その時が初めてだったということに違いはないが、その時が最後だったことも事実だった。それ以降誰かと話をしていても、そこまで時間を感じることなく話ができる人が現れることはなかったからである。
友達というものが大切だという話はよく聞くし、間違いではないと思っているが、
――友達がいなくても、別に困ることはない――
という思いがあるのも事実だった。
もちろん、友達がいれば、もっと楽しいのかも知れないが、一人でいる時に考えている何かを失うのも嫌な気がした。
睦月は、いつも何かを考えているような女の子だった。その時々で考えていることは違っていたが、考えていることが次第に発展していき、最初に何から考えが始まったのかということすら覚えていないほど、発展先は神出鬼没だった。
考えが論理的に進んでいる時もあれば、気付かないうちに進んでいる時がある。気付かないうちに進んでいる時というのは、
――何かの力が自分の中で作用しているのではないのかしら?
と思えてくる時だった。
その何かの力というのが、外から向けられたもので、
――誰か他の人の力なのかも知れないわ――
と感じていた。
それが誰なのか分からない。分かりそうに思えるのだが、分からないのだ。そんな時に睦月は、
――自分が鈍感なんじゃないかしら?
と、一瞬だけが感じることがある。すぐに否定はするが、一瞬でも感じるのは事実だった。
だから、睦月は鈍感な人に対しては敏感だった。
その人が自分を敏感だと思っている場合も、自覚のない人であっても同じこと、しかもその人が自分で自分をどう感じているかということまで、理解できるようになっていたのだ。
睦月が森山と知り合ったのも、偶然ではないと思っている。彼が自分のことを鈍感だという意識を曖昧にだが持っているのを感じることで、彼のことが気になっていた。
森山は、自分が鈍感だということを、まわりには知られたくないと思っていた。
――鈍感かどうかということは、隠そうとしなくても、自分から滲み出るものなので、結局まわりにはすぐ分かってしまうものなのにね――
と、睦月は、最初森山を感じた時、思わず苦笑いしたのを思い出した。
森山を見ていると、まわりに知られたくないという一心があるためか、すべてにおいてぎこちなく感じた。話をしていても、どこかギクシャクしている。ビクビクしているわけではないのに、ギクシャクしているというのは、実に不思議な感覚だった。
だが、ここから先の記憶が睦月には繋がっていなかった。
森山に対して、どこか納得いかないところがあると思っているのは、そのせいかも知れない。
この間の記憶のどこかに、睦月が森山と結婚したいと思ったきっかけがあるのではないかと思っている。
ただ、一つ睦月が分かっていることがあった。それは。森山が、どんなに鈍感でも、
――睦月のことだけは、すべてを分かってくれているのではないか?
と思うところだった。他の人には鈍感な部分を曝け出しているのに、睦月に対してだけは鈍感さで迷惑を掛けたり、気を遣わせることはない。そんなところに森山が惹かれたのは事実だが、結婚しようと考えるに至るには、それだけでは少し物足りない気がした。何か、他に少しでも想いがあれば、何も考えることなどないのだった。
睦月が忘れてしまっている半分の記憶、そして、その中にあるであろう森山に対しての――結婚したい――
と感じた彼に惹かれた部分。睦月は森山がそんな思いを感じていることに気付いているのかも知れないと思った。
睦月は半分失くした記憶のほとんどは、子供の頃のものではないかと思うようになっていた。
今の記憶のほとんどに矛盾はあまりない。
――森山を好きになったきっかけ――
という一番大切である問題もあるにはあるが、それ以外は問題がない。
子供の頃から、特に中学、高校時代と、
――ほとんど友達はいなかった――
という意識が頭にあるにも関わらず、なぜか友達とどこかに行った記憶だけは存在する。実に不思議な感覚だった。後から意識によって作られる記憶などあるのだろうか? 睦月は、そうだとしか思えない。
だが、そんな記憶を作るとしたら、何か理由があるのだろうか?
「木を隠すなら、森の中」
というではないか。
何か隠したいことがあるなら、そのまわりのものすべてを消してしまう方がぎこちなくていい。下手に繋がりがなくなるから、
――記憶が飛んでいるのではないか?
と感じるのだ。
繋がっている記憶すべてがなくなってしまえば、不思議に感じることもない。それが、睦月の今考えている思いだった。
森山の方は、睦月が自分を鈍感だと思っていることをずっと前から知っていた。それも、森山が自覚している鈍感さよりも、睦月が考えている鈍感さの方がかなり大きいと思っていたのだ。
――そんなに、鈍感なところを見せたかな?
と思っていたが、
――睦月が自分のことを分かってくれているからに違いない――
と思うことで、少し自分の気持ちを抑えていた。
森山も睦月のことはある程度分かっているつもりだった。それは睦月が感じているであろう、
――この人は私のことを分かってくれている――
という思いよりも強いだろうという自負があった。
実は森山も、
――自分も記憶のどこかが欠落している気がしている――
と思っていた。
ハッキリとした確証があるわけではない。却って確証がない方が、森山にはリアルに感じられた。確証がウソだというわけではないが、想像を膨らませるには不要なものだという思いがあるからだった。
欠落している記憶の中に、一人の女性がいるのは何となく分かっていた。
――その人の存在があるから、睦月のことがよく分かるのかも知れない――
と思うようになっていた。
森山は、このことを睦月には知られたくないと思っている。自分の記憶が欠落していることはもちろん、その中に女性が存在していることもである。森山は、
――自分に前に彼女がいたとしても、睦月は気にしないのではないだろうか?
という思いを持っていた。
むしろ、彼女がいなかったという方が不思議だと思うかも知れない。もし、森山が睦月の立場だったら、そう思うに違いないと思ったのだ。
森山の性格は、睦月から見ると気さくに見えた。一人でいることの方がいいと思っている睦月なのに、森山だけは別だった。
――彼には、女性を引き付ける何かがあるのかも知れないな――
睦月が友達がいなかったり、一人がいいと思うようになったのかというと、人に気を遣うのが嫌だというよりも、
――人と争いたくない――
という思いが強かったからだ。
別に、人と仲良くなったからと言って、絶対に争いが起こるとは限らない。だが、睦月は些細なことでも、それが争いになってしまうことを必要以上に怖がっていた。
睦月は争いが嫌いだった。それがたとえ勉強による争いであっても同じことで、受験というものを、
――人との競争――
だと、なるべく考えないようにした。
――自分が成績さえよければ、それでいいんだ――
と思うようになった。
人と争いたくないと思うようになったきっかけは、もちろん受験勉強に代表される勉強ではなかった。むしろ勉強は自分のためにするものだと思っていたので、嫌いではなかった。
ここまで極端な考え方を持っていると、人を寄せ付けなくなるもので、苛めの対象にすらならなかった。別に学校で人を寄せ付けないような仕草をしていたわけではない。人から嫌われようと意識していたわけでもない。だから、まわりの人に近づきにくい雰囲気は感じさせていたが、苛めの対象にはしなかったのだろう。
そういう意味で睦月は、
――空気になりたい――
と思っていたに違いない。
ただ、睦月がなりたいと思っていた空気は、漠然としたものではない。普通、空気になろうと考えると、
――風が吹いてくれば、風に逆らうこともなく流されていたいという思いや、風に靡かないように、しっかりと自分を重たくしていよう――
という二つの考えなのだと思うが、睦月は違っていた。
――風が吹いてくれば、逆らうことなく、風に刻まれるような、そんな空気になりたい――
と思っていた。
風に流されるには、自分のプライドが許さない。さらに、意地を張ってその場に止まるのであれば、空気になりたいと思うことに反していると感じていた。
それなら、相手が切りこんでくるならば、切られるのが一番自然だと思ったのである。
たかが、空気に対してそこまでの考えを持っている人はいないだろう。
「風に刻まれて、お前はそれでいいのか?」
と言われるに決まっている。しかし、睦月は次にこう答えるだろう。
「風に刻まれてバラバラになっても、すぐに身体が引き合って、元に戻るわ」
戻ることができるというのは、睦月の自信なのだろうか?
子供の頃から読んでいたミステリー。この発想は、その頃から培われてきたミステリーに対しての思いから来ているに違いない。その思いが、睦月の中で、
――バラバラになったものでも元に戻れる――
という発想を可能にした。
それはミステリーをストーリーとして読んできたからだった。感情をリアルに感じながら見ていると、到底思い浮かぶものではない。
――ストーリーこそがまるで空気のようであり、リアルを通り越した感覚を湧き起こすことができる――
と思っていた。
そういう意味では、睦月は歴史も好きだった。
「歴史というのは、人間物語なんだけど、実際にその時代を知らないだけに、リアリティはない。でも、どんな小説よりも面白いと言って感じる人もたくさんいるんだ。それはきっと、歴史を推理するからなんじゃないかな?」
これは、中学の時の先生の話だったが、ミステリーに嵌っていた睦月は、その話を聞いて、歴史にも興味を持ったのだった。
ミステリーや歴史を見ていくうちに、
――リアルって何なのだろう?
と感じるようになった。
――リアルとは、流れに沿うわけではないが、逆らうわけではない。感情が入りこむものだけど、感情では状況は変わらない――
そんなものだと思っていた。
だから、睦月はリアルという言葉はあまり好きではない。
自分の記憶が半分もなくなっているいることに対して、それほど慌てないのは、リアルに対しての意識がないからだ。
だが、本当は意識がないと思っているだけで、意識していないわけではない。その矛盾が睦月の中で、消えてしまった記憶が繋がっている部分ばかりだということで納得させる効果を持っていた。
睦月は、何となくだが、
――自分の失った記憶を持っている人がどこかにいるのではないか?
という意識を持っていた。
しかも同じ思いを森山が持っていることを知っていたのだろうか? 少なくともこの時は思っていなかった。だが、森山が睦月をどことなく避け始めたというのは、自分の中で感じている矛盾に森山自身が、考えるところがあったからだろう。
睦月は自分が今持っている記憶だけで十分だと思っている。森山も同じ気持ちのはずだった。
――しばらく余計なことを考えないようにしよう――
と思ったのは、今自分が持っている半分の記憶が、失った記憶の分があるだけしっかりとしているからだ、今また余計な記憶が増えて、せっかく残っている記憶が曖昧になることを避けたいと思っている。それは、今残っている記憶が、自分にとって大切なものであるということを自覚しているからであった……。
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