地上の青年篇

第6話 森の先

 ベニはボロボロになった衣服を不帰の森で得た植物たちを利用して取り繕い、ある程度の物資を拾った後、勘で森の出口を目指し、歩き始めていた。最初の襲撃が所謂この森の洗礼だったのか、一度黒皮の獣を打倒してから、周囲の茂みなどで気配がするものの、その気配の主たちがベニに対して牙を剥くことはない。しかしカブトが追放されてからの約十年。戦いというもののみを突き詰めてきたベニにとって、誰かに見られ続けてられるくらいなら、いっそ襲ってきてくれたらいいのにと思うほどであった。

 しかしそんな悩みよりも先にベニを蝕むのは森の自然だ。今まで自分が歩いていた木城都市がどれだけ歩きやすく整備されていたかを痛感する。

 木の葉に隠れている石を踏めば、足を捻りそうになり、足元に注意しすぎると、自らの背より低い枝に頭をぶつけそうになる。そんなことを繰り返していると、自然と疲労は蓄積されて行き、衣服もじっとりとした汗で肌に張り付くようになってくる。水筒に入っている水はまだまだ残っているが、このペースで飲んでしまえばすぐに中身は枯れてしまうだろう。

 体の諸器官を動かすためにはもちろん光剛生を行うためにも水は大切だ。だからこの水筒の水が無くなる前に森を出られればと思ったが、上空から見た限りそれは不可能そうだ。ここにきてベニはなぜパラシュートで森のぎりぎりまで飛ばなかったのか、自分を呪う。と、言っても結局空を飛ぶ獣に襲われてパラシュートを破壊されているので、落下地点はどっちみちそこまで変わらなかっただろう。

 だからこそ諦めて、あっているかわからない方向に向けて足を進めた。


「今日はここまでにするか」

 ちょうどねぐらにできそうな場所を見つけることが出来たベニは、一旦の安堵の溜息をついた。

 唯一ノ木に比べれば大したことないが十分に大きな木の倒木にのしかかる様に横たわる岩の下が軽い洞窟のようになっていて、ベニはその真下に辺りからかき集めてきた落ち葉を敷き詰め、バッグパックを枕にする要領で簡易的なベッドを作る。辺りの気温は暑すぎるくらいだったが、虫や獣を除けるために焚き火を付けそのまま眠りにつくことにした。

 普通の人間であれば、人を食らう獣がいる森でこんな無防備な真似はしないが、ベニには獣の気配を感じる以上に研ぎ澄まされた感覚があり、その殺気とも言えるベニの気配に向かって立ち向かえる獣は一匹としていないだろう。それはある種結界のようで、第六感とも言える感覚を持つ者たちが多い自然界においては絶対不変の砦とも言えた。


 ふと、目が覚めたベニはその場所が寝慣れた自分のベッドの上ではなく、簡易的な落ち葉で作られた寝床であることに気付く。その次の瞬間、昨日できた傷や、堅い地面で眠ったことによる体の不調が至る所から悲鳴を上げ始める。

「いてて」

 と、そんな情けない声を出した樹人族の英雄はゆっくりと起き上がり、自らの荷物をまとめまた森の端を目指して、歩き始める。

 幸か不幸かベニを囲うは膨大な森であり、食べられそうな木の実をつけている樹木は至る所にあった。酸っぱい物、甘い物、渋い物、目に入る木の実を片っ端から一口ずつ齧り、一番自分の味覚に合うものを選び、いくらか鞄に詰めた。

 また水筒の水については、自らの知識にあった木を見つけ出し、ある程度太い枝の部分を剣によって傷をつけることで、本来木に巡る筈だった水分を頂戴した。

 食料や水をある程度確保したところで、本格的にこの不帰の森の脱出を試みる。と、言ってもこれだけ鬱蒼とした森であると走ると危ないため、ゆっくり、のんびり、初めて見る新世界に心躍らせながらその歩を進めることにする。

 それこそ昨日は二度の獣の襲撃によって命を脅かされたために、安全な場所を確保することに精一杯だった。その脅威が黒皮の獣を打倒してから全くと言っていいほどその影を潜めている。もちろんその姿が見えないからという理由で気を抜くベニではないが、昨日よりかは確実に余裕をもって景色を眺めることが出来た。

 木城都市で見てきていた植物は自らを育む大地とも言える唯一ノ木と、彼らの食料になるべく管理されていた農作物と観賞用植物のみだ。だから自然のあるがままにその枝葉を広げ、生存競争を繰り広げている乱雑な植物たちを見るのは初めてだった。しかしそんな混沌が眼前にあるというのに、どこか懐かしく温かみを感じるのは、彼らが母たる唯一ノ木の子供たちであるからか、植物として通ずるものがあるかはわからない。しかし未知という恐怖を抱えていたベニの足取りが軽く、その顔から笑顔が綻んでしまうくらいに、彼らの緑は悠然と聳えていた。


 気温はそこまで高くない。日差しもほとんどは木々が遮ってくれるために、酷い体調不良を催すなんてことはなかったが、その丁度良い温度が、歩くには丁度良い加減ではなく、昨日と同じように汗は不愉快なほどベニの身体を濡らしていた。

 ベニの心を躍らせた新世界も数時間同じ景色だともう見慣れてしまい、この不快な暑さをどうにかしてほしいという悶々とした考えしか、頭には存在していない。

「もうだめだぁ」

 疲れ果てて座り込んだのはそこまで大きくない木の幹の元だった。気力で歩き続けていた足にこれだけの疲労がたまっていたのかと実感したベニは、延ばした足の先の先まで血液が巡っていくのを感じる。そして腰につけていた水筒を口にしたところで違和感に気付いた。

――今まで歩いていた地面は乾いていただろうか?

 それこそほとんどが落ち葉や枝葉によって隠れていたために、地面そのものを目にすることはなかった。それこそ地上には木城とは違い、多くの動植物たちの死体で作り出される土というものがあるということをベニは座学で学んでいた。自分を覆う多くの植物たちに目を取られ、その存在を忘れていたベニは足元を覆う落ち葉を払い、地面を見た。細かい粒のようなもので構成された茶褐色の物体は、木城でも植物を育てていたものに似ているが、感触などが明らかに違った。じっとりと肌を通じて感じる水分や、手の皺に入り込むその粒が動植物たちの成れの果てと考えると少し気味が悪かったが、不快な感覚はしなかった。

 それこそ土そのもの自体は座学で学んでいたために、驚きなどはなかったが、いささか今自分が掴んでいるものは、当時学んだものより湿りすぎている感じがする。もう少し広範囲の落ち葉を除けてみると、自分から見て左手の方の地面の方がより湿っている気がしたベニはその方向に水があるのではないかと思い、地面に落とした鞄を拾い上げ、走った。


「よっしゃああ!」

 雄叫びともとれるそんな声を挙げたベニの目の前にあるのは小川だった。まるで大地では自らを縛ることが出来ないと言わんばかりに地表にまで剥き出しにされた根とそれに絡めとられたかのように木々と一体化している岩々の隙間から、まるで飲めるまで洗練されたような水がしみ出している。その岩から出た水は岩のふもとに池を作り、そこから森の先の先の見えなくなるところまで、その水は伸びていた。

 べたべたする衣服に嫌気の差していたベニはその全てを放り出して、清廉な水が作り出した池へ飛び込んだ。

 頭の芯まで温まっていた体が一気に冷えていくのと同時に、今まで心の底に圧縮されていた感情が噴き出るように、ベニの身体を爽快感が駆け巡る。

 木城で使われていた水は唯一ノ木の道管から借り受けたものであった。人々の大地たりうる大樹の吸い上げる水であるため、貴重というほど少量しか取れないというものではなかったが、神と崇める大樹の身を傷つけ採取するものであったために、人々は感謝をしてそれを口にした。

 そうすると水というものは必然的に乱雑に扱うようなものではなくなり、使う頻度も減って来る。もちろん身体を清めると言う意味で水を使うこともあるが、こういった形で全身を水に浸けるという行為は本当に限られた機会でしかありえなかった。

 だからこそ座学で「雨」が作り出す大量の水資源について学んだときは、絶対に飛び込むことをベニは心の底で決めていた。

 水の中で目を開くと、恐らく木城で教えられた水棲生物である魚というものが手に届かない場所でその身体を光らせる。生憎泳げないベニはそれを追いかけることが出来ないが、水中でその姿を見ることが出来るだけで十分だった。

 体が冷え切ったところでその池から出たベニは、適当な布で身体を拭き、改めて服を着る。汗が染みているせいで少し気持ち悪かったが、身体にまとわりつくようについていた汚れなどを含めて全て洗い流せたので、かなり清々しい気分だ。

 鈍っていた思考が、体が冷えたことでくっきりと形を取り戻し始めたからか、座学で学んでいた地形に関する知識を思い出した。

 山や森が作り出した川と呼ばれる水流はほとんどが海と言う巨大な塩水の水たまりに向けて流れると。

「ってことはこれを辿れば、森の先に出られるかもしれないか?」

 無我夢中に歩き回っていたベニはどこかこの森から抜けられないのではないかという漠然とした不安を抱えていた。しかしこうやって目に見えて目標に出来るものが現れると、やはり体の奥底から力というものは湧いてくるものだった。疲れていた体は小休憩で体力を取り戻したので、ベニは改めて歩き始める。


 それから小川のほとりを歩き始めて、数時間経ったころ。いくら訓練に訓練を重ねてきたベニですら疲労で、足が上がらなくなりつつあったそんな時、ふと見上げた森の上空に真っ赤な空を見ることが出来た。ベニがいた木城都市では空はほとんど漆黒で、昼と夜の違いはあれど、明るい空というものは存在しえなかった。だというのに、この大地では空がまるで火を付けたかのように赤く燃えている。

 しかし空が赤く染まるという現象に似たものはベニも見たことがあった。雲平線の先に太陽が沈んでいく際に、巨大で真っ白な雲海が、太陽の光によって赤く染まっていく夕暮れ。恐らく今は夕暮れに近い時刻なのだろうが、そんなことを気にすることもなくベニは、眼下ではなく上空が赤く燃える現象に胸躍らし、その疲れた足をもう一度回転させ始める。

 空すらも見えなかった密林から、真っ赤な空を臨むことが出来たということは、森の終わりも近いのだろう。その事実もベニの足をより一層早めた。


「終わった――」

 そんな声と同時にベニは肺に溜まった空気を一気に吐き出す。そして眼前に広がる絶景に息を呑んだ。

 地平線に沈みゆく太陽はその輝きを以て、見渡す限りの大空を燃やし尽くしている。明日にはまた新たに顔を覗かせるはずだが、その赤はまるで太陽の命の終わりを告げているかのような色合いで、感動と儚さを同時にベニの心に齎した。

「これが地獄と謳われた地上」

 そんな声を挙げたベニの頬には一筋の雫が伝う。子供の頃から悪いことをしたら地上に連れて行くぞと脅されていた樹人族にとって、地上は恐怖の対象であった。それこそ重力に引かれた罪人が集う地獄として、地上についてを学んだベニにとってこの美しさはあまりにも残酷すぎた。

 木城の人々はこの事実を知らずに、生き、そして死んでいくのか、と。

 自分の使命は木城の人々が地上に移住できるかどうかを調べること。それこそ自らを襲ってきた獣の存在がある以上、即答で移住できると断言することは出来ない。その脅威となる獣の存在を差し引いても有り余る美しさがベニの心を打っている。

 それは空だけではない。ベニの背後に広がる大森林が嘘のように、ベニの目の前には限りない大地が広がっている。ベニのひざ下にも満たない大量の草花と、ぽつぽつと立つ木はまるで自分たちが脇役であることをわかっているかのように、その身を縮こませ、沈みゆく太陽に視界を譲る。

 唯一ノ木は地上の木に比べてはるかに巨大な樹だった。それこそ枝葉の上に国を築けるほどの大きさを有している唯一ノ木を見知っていたベニからすると、森を構成している木々を樹と称するのに抵抗はあったが、これが普通なのであろうと呑み込む。しかしその木々が自分の知る物より小さい形を保ってくれているからこそ、この雄大な自然を臨むことが出来た。唯一ノ木の輝かな葉や枝から溢れる木漏れ日などは美しく、心打たれるものもあり、既にそれらを恋しく思うと同時に、この未知の世界に胸は躍りっぱなしだった。

 近くに転がっていた背もたれに丁度良い岩に、ベニはもたれかかり、地平線に沈みゆく夕陽を眺めながら今日の一日を噛み締めようとしていたその時だった。

 巨大な太陽の中心に黒い影が見えた。その影は時間を経るごとに大きくなってきており、それはベニの方向に向かって近づいてきているということに気付くまでそこまで多くの時間は要さない。

 あの黒皮の獣のようにベニを襲うものの可能性があるのではと思ったベニは、鞘から剣を引き抜き、その正体がわかるようになるまで警戒して待つ。

 その影がベニに近づいてくるごとに、その影の方向から異様な音がし始める。腹の底を震わせるような重低音に、影が巻き上げる土煙。ベニは気付いていた。彼に近づいてきているそれの全てがあの黒皮の獣とは違うことに。

 

 そしてベニの目の前に停まったそれは、凄まじい重低音をかき鳴らし、見たこともない仕組みを要したわっか状の何かと、それに引っ張られた荷台で構成された「何か」だった。その引かれている荷台には人間が乗っており、そこから降りてきた人間は剣を構えているベニに対して、その口を開く。

「大樹よりの使者様。あなたの御到着を心よりお待ちしておりました」

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