プロローグ 地上に降り立った青年

 体に感じるのは、強い風。いや、自分が落ちているから風のように感じているだけで風はそこまで強くない。風が強ければこんなにうまく姿勢をキープすることは出来ないだろう。

 ベニは今、小さなリュック一つを持ち、ゴーグルをかけ、地表からはるか上空を絶賛落下中である。息が苦しくなれば、体の重心を移動させ上を向き息を整える。そして楽になればもう一度下を向き、地上を臨む。

 なぜ今こんな状況になっているのか。それは彼が、地上の観測者に選ばれたからであった――




 後方には自らの故郷を支える大樹、唯一ノ木が天を衝くが如く聳えている。ベニは、背中に背負っているバックパックの大部分を占めているパラシュートを展開し、そのパラシュートから伸びる蔓を手に持ち、巧みに操作しながら降りられるような場所を目指す。しかし眼下に広がるのは、平原ではなく密林であった。一つの国ができるほどに巨大な樹の元であれば、陽の光が差し込む余地がないはずなのに、これほどまでに栄えた森があるのはなぜなのか。

 唯一ノ木を神とも崇める種族である樹人族出身のベニはその森に、ある種の神秘的な力を感じ、改めて唯一ノ木の素晴らしさを痛感するが、今はその時ではない。開けた場所がなければ、ほぼ不時着に近いような着地になってしまう。それでは怪我は免れないだろうし、大切な荷物をいくつか落としてしまうかもしれない。そう考えたベニは何とか上空にいる間、場所を探すが、この森に安全な場所はない。なぜならここは、地獄に謳われた地上に住む人々すらも近寄らない、死の森。不帰の森だ。


 瞬間、後方から甲高い何かの鳴き声がした瞬間、がくんと自らの身体が一気に下がったような感覚を覚えた。何かとパラシュートを確認すると、大きく穴が開いている。そして他に見渡してみると、ベニより体が大きいのではと思われる程の獣が飛んでいるのが見えた。

「くっそ。あいつにやられたのか――」

 地上には獣と称される生命体がいると、事前に学んではいたが、これほどまでの大きさを持ち、こんな形で命を狙ってくるとは思わなかったベニは焦る。未だ地表まで、百メートル以上あると考えると、穴が開いたとしてもパラシュートを切り離すのは今ではない。と、考える間にもその大きな獣はその体を翻し、もう一度ベニの元へ迫ってきている。まずはこの獣からどうにか逃げなければならない。そしてベニは、自らの身体に力を込めた瞬間、辺りにはベニの姿を消し去るには十分すぎる黄土色の煙が立ち込め、ベニを包み込んだ。


 これが唯一ノ木の恩恵を得た種族、樹人族の力。樹力。

 ベニテングダケをベースに持つベニは、基本的にベニテングダケの特徴を身体に体現している。その燃えるような赤の髪色も然り。自らで生成した毒を何らかの形で相手に服用させることが出来たら、一時的な酔いや吐き気などの症状を齎すことも。そして今使ったのは、キノコをベースに持つ樹人族は皆扱うことの出来る、胞子拡散だ。

 突如、空に浮かび上がる巨大な雲に、驚いた獣は、そのまま宙に留まり、様子を伺うが、その胞子が晴れた先には既にベニはいない。


――もう一度っ! 次は一点に収縮してっ!――


 凄まじい勢いで右手から放たれた胞子は、反作用によって、ベニの自由落下の軌道をゆがめ、背の高い木へベニを激突させる。無数に生えた枝葉がクッション代わりに彼の身体を受け止め、その落下速度を落としていく。しかし同時に身体には無数の生傷が増えていき、最後、太い幹に腹部を打ち付け、ベニの着陸は完了した。しかし完了と言っても万全にではない。腰に差していた剣はどこかに落ちてしまっているし、バックパックの中に入っていたものもほとんどなくなっている。

「あれっ。くそ竜の剣が!」

 ベニが腰に差していた剣は師匠から譲り受けた大切なものであった。焦ったように辺りを見回すが、その剣の姿は見えない。もしやと思い、上を向き、目を凝らしてみるとあった。木の枝に引っ掛かってしまっている。落下に備えて、剣が鞘から飛び出さないようにしっかりと紐で括ってあったため、ちゃんと剣と鞘は揃ってあった。ベニはその剣に左手を掲げて、意識を集中させる。すると腕からどぱっと緑色の蛇のような触手が現れ、ゆっくりとその体を伸ばしていき、剣の柄に巻き付いた。

 この蛇のような触手は、植物の蔓だった。これが樹力の副産物、具現。樹人族は皆ベースに関わらず、蔓の発現や皮膚の硬化などいくつかの木や植物の特徴を身体に再現することが出来た。そして手元に剣を届ければ、その蔓を体内に戻し、剣に傷がないか確認する。木製の鞘にはいくらかの傷がついてしまっていたが、剣本体には傷一つなかった。流石、旧き時代から遺る伝承の英雄の剣、竜の剣だ、とベニは思った。

 その時だった。背後の叢ががさがさと音を立て始める。咄嗟にベニは鞘をベルトに巻き付けた後、剣を構えた。気のせいではなく、確実に何かがベニに狙いを定め、その叢に控えている。先ほどの空を飛んでいた獣か、はたまた別の何かか。

 何もかもが新しい体験であるこの地獄と謳われた新世界で、ベニは冷静にこの事態を対処しようと努める。隙を見せないように、気迫を込めた目で、叢を見つめた瞬間、勢いよく黒い影が飛び出した。てらてらと黒光りする毛皮を持ち、鋭い爪牙を備えた獣がそこにはいた。ぐるると重く響く喉は、獣を初めて間近で見るベニの心臓を強く鷲掴み、その鼓動を早めるが、ベニは深呼吸によって何とか平静を保つ。恐らく、見合っていても仕方ないと感じたベニは一歩前に踏み込み、竜の剣によって強打を繰り出した。

 流星の様に振り落とされた剣は、獣の脳天を狙い、一直線の軌道を描く。しかしその大振りを獣が簡単に受け入れるわけもなく、軽々と避けられ、ベニの脇腹に牙が迫った。振りの大きさによって、咄嗟に躱しきれないと察したベニは、具現によって脇腹へ硬化を行う。

 鋭い牙では樹の身体を簡単に砕くことは出来ないが、痛みはしっかりとする。「ぐぅ」と声を漏らしたベニは、自らの身体に喰らい付く獣の脳天に、剣の柄で打撃を食らわせる。その痛みに耐えかねた獣は、一瞬その顎の力を緩めた。ベニは咄嗟に逃げ出し、日向を探す。しかし密森の中で日が差し込んでいる場所を探すのは難しく、見た限り周りにはなかった。

「ないか!」

 ベニは樹力によって胞子を辺りにまき散らすことで、獣の目を眩まし、走り始める。

 獣はその後、数秒経ってからベニを追って走り始めた。


 密林を疾走するベニの目線の先には巨大な岩がある。そのてっぺんは見渡す限り、唯一の陽が射している場所だった。ベニは咄嗟にその岩をよじ登り、腰につけていた水筒の水を一口飲んだ後、日光が身体全身に当たる様に、手を広げた。みるみるうちに身体の奥底から力が湧きあがってくるのを感じる。それと同時に鮮やかな赤色をしていた髪の毛は、明るい緑に染まっていき、手にしている剣は甲高い金属音を鳴らし始める。

「確実に一撃で」

 岩の上に立つベニ目掛けて飛び上がった獣は未だその鋭利な牙を以て、ベニを自らの糧にせんと迫る。それを見たベニはあろうことか、剣を一度鞘の中に納め、柄を強く握りしめた。

「一閃!」

 竜の剣は、その鈍色の刀身を緑が勝った白色に輝かせながら、獣の口元へ弾き出される。剣と獣の牙がぶつかるが、鋭い金属音が鳴り響くことはなく、無残に口元から一刀両断された獣が、飛び上がった勢いのままベニの後方へと飛んでいく。樹人族に与えられた能力の内の一つ、光剛生。剣に自らの生命エネルギーを流し込むことで、その武器性能を急激に上昇させるそれを発現するには、少量の水と日光が必要であった。

「俺の力は通じるか。よしっ」

 剣についた獣の血液を拭ったベニは、竜の剣を鞘へと納め、歩き始める。


 彼の観測者としての目的は、死に瀕している故郷、大樹の代わりに住める場所を、この地獄と謳われる地上で探すこと。そしてかつて木城都市から、犯罪者として追放の罰を受け、大樹から地上へ堕とされた友を探すため。

 しかしまずはこの広大な森を抜けだすことを目的に、光が差す方向を目指す。

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