第14話 シエルとライアン

 初めて学校をサボったその日は、ちょっと特別な気分ではあったが、やることは休日とさほど変わりはなかった。それはシエルが普段から勉学を疎かにしていない証でもあった。

「ズル休みしたんならこっちも休んでいいんだぜ?」

「それとこれとは別じゃない?」

 夕刻。シエルはいつも通りに庭園で師匠であるイザークと対峙していた。

 シエルが学院を無断欠席したと言う珍事は瞬く間に使用人に広まったが、体調を案じる者ばかりで貶す者は1人もいなかった。

 それどころかもう少しやんちゃをするべきだと変な方向に助言する者さえいたほどだ。

 シエルが使用人たちとどう接してきたかが如実に表れていて、ライアンは驚くばかりだった。しかし逆に納得もしている。こんな暖かな場所で育ってきたからこそ、シエルはこんなにも魅力的なんだと。

 そして今、目の前で繰り広げられている光景に圧倒された。入念な基礎体力作りに剣と魔法の鍛錬。聞けば5歳の頃から毎日欠かしたことのない日課らしい。雨の日も風の日も、何だったら熱がある時ですら、制止を聞かずに剣を振り魔法を使ったと言うから驚きである。

「……凄いなぁ」

 騎士の家系に生まれたライアンも、幼い頃から鍛錬に明け暮れた。でもそれはライアンには合わなかったのだ。

 まず与えられた木剣が持てなかった。兄達が同じ歳の頃には軽々と振るっていたのに何と情けないことかと、その時初めて父を落胆させた。それからというもの、ライアンに課せられた鍛錬は、悉くライアンに重くのしかかった。兄達ができたことをなぜお前はできないのかと、罵倒される毎日から逃れるように、ライアンは母の元へ向かった。病床に臥す母だけが自分の味方だった。

 そんな母が亡くなったのは今から2年前だ。

 それからますます父からのあたりは強くなった。付随して兄達までもが自分を貶し始め、家の中にライアンの居場所は失くなってしまった。

 どうしてこんなに違うのだろう。そんなどうしようもない疑問が沸く。羨望というよりも嫉妬に近いドロリとした感情が沸々グラグラと煮えたぎる。無意識に握りしめたのは、母の遺品であり、自分の守護石であるアラゴナイトのペンダントだ。

 ガーデンスペースというには殺風景な裏庭に、剣戟の音が木霊する。その音に呼応するように記憶の淵から声が聞こえる。

 不出来であることを嘆き、罵り、嘲笑う声。

 治癒してもらったはずの傷がズキズキとまた痛み出す錯覚に、まるで抗うように無意識に体を強張らせた。

「――ッ⁉︎ シエル! 左、防御壁!」

 手合わせをしていたイザークが突如吠えた。そして喚起した方向へと体を滑り込ませる。一瞬のうちに全てを正しく理解したシエルは、自分と従者、そして少し離れた場所にいるアマリアとライアンに防御壁を張った上で、襲いくる真っ黒な霧を打ち払った。

 まるで突風のように幾つかの事象が通り抜けた後、裏庭は静寂に包まれた。

 シエルは一つ小さく息をつくと、いまだ握っていた剣を鞘に納めながら周囲を確認した。

 まずは自分を庇うように立つイザーク。彼もまた剣を握りしめ、仁王立ちで前方を睨みつけている。背中しか見えないが、被害はなさそうだ。

 視線を少し遠方に投げれば、険しい表情のアマリアの横顔が見えた。どうやら彼女も無事なようで安堵する。

 そして彼女の視線を辿れば、青い顔をした友人の姿があった。見た限り怪我はなさそうだが、体調が悪そうだ。震える手で握りしめるのは、彼がいつも身につけているペンダントだろうか。

 シエルはくすりと微かに笑う。それを静寂の中でかろうじて聞き取ったのだろうイザークが、まるであり得ないとばかりの表情で振り返ってきた。どこか咎めるような視線を静かに見つめ返し口を開く。

「今日の鍛錬はここまでにしよう。……アマリア」

 いまだ厳しい表情をライアンへと向けている侍女に声をかければ、彼女が渋々こちらを見やる。警戒心剥き出しのアマリアに、シエルは優しく微笑みかけた。

「喉が渇いたから、ミルクティーを用意してもらえるか? 淹れたての温かいやつがいい」

 その注文の意図を正しく理解した侍女が反論しようとするのを、シエルは先取りして阻む。命じればアマリアは従う他ない。シエルとしては不本意だが、これこそが主と臣下の本来の形である。

「今の試合で少し刃毀れしたみたいだ。悪いが至急研いでくれないか?」

「――っふざけんな! ここでお前を1人にするわけねぇだろ!」

「イザーク。……頼む」

 イザークは主と臣下の垣根を簡単に超えてしまう。それは彼がシエルの師であり、ブレーキ役だからだ。それをシエルは理解しているし、この関係を望んでさえいる。だから命じるのではなく、希う。彼の灰色の瞳をまっすぐに見つめて誠心誠意伝えれば、結局折れるのはいつだってイザークなのだ。

 唯一シエルが我儘を言える相手。悪態を吐きながら歩き出す背中にシエルは感謝と謝罪を呟いた。

「ライアン」

 シエルが人払いをしている間、ライアンは震える体を縮こまらせているだけだった。すらりと背の高い彼が、まるで小さな子供のように思えて、シエルは再び小さく笑う。

 そして何の警戒も不安もなく、さも当たり前のように彼の隣に腰掛けた。肩と肩が触れ合い、彼の怯えが伝わってくる。

「ごめんな」

 ぽつりと溢れた謝罪の言葉。それはほぼ無意識だったが、同時に一つの予想にたどり着く。

「嫌なこと思い出させたよな。気が利かなくてごめん」

「……っ。どうして……っ」

 顔を俯かせて、肩を、声を震わせるライアン。自分の予想が間違いじゃなかったことに、シエルは内心で悪態をついた。

 知らない家では落ち着かないだろうと誘ったことが間違いだった。自分にとっては大事な日課が、彼には地獄の日々を思い出させたのだ。

 そんな簡単なことに気づかなかった不甲斐ない自分に苛立ちを覚えながら、それを何とか飲み込んで、言葉を探す。彼が何を求めているのか、必死に思考を巡らせる。

「っ。どうして……そんなに…っ、優しいのさああっ‼︎」

 思いがけない言葉に驚いている間に、ライアンの慟哭はどんどん大きくなっていく。まるで子供のように声を上げて泣きじゃくる肩を片腕でそっと抱きしめる。

 いっぱい泣けばいい。

 あの真っ黒な霧を涙で洗い流してしまえ。

 その間、ずっと隣にいてあげるから――


◆  ◇  ◆


 帰宅したヴィクトルは、シエルが起こした初めてとも言える悪事というか珍事に驚きが隠せなかった。ぱちくりと目を瞬かせれば、シシリアがくすくすと笑い出す。

「あら。貴方だって、読書がやめられずに授業をサボることも多かったのでしょう? 血は争えませんわね?」

 そう言われて仕舞えば返す言葉を失う。ヴィクトルは肩をすくめて、シシリアの話の続きに耳を傾けた。

 そしてシエルの初めての『相談事』に何とも難しい表情を浮かべる。

 一番簡単な方法は、ライアンというその少年を我が家に迎えることである。聞けばライアンは生家から不当な扱いを受けているという。ならば引き取ることに妥当性は生まれる。

 ただしその選択は受け入れられなかった。いくらライアンという少年がシエルにとって大切な友人であっても、ヴィクトルにとって一番大切なのはシエルそのもので、彼女を守るために、そして家族を守るためにリスクは、最小限に抑えたい。

 そこでふと思い浮かんだのが、夏休みに入ってすぐの光景だ。友人の邸で見た子供たちの楽しそうな表情。

 そこに未来へと続く確かな絆を垣間見たことを思い出す。

 その瞬間に思いついた名案に、無意識の位置に口角が上がる。

 それをばっちり目撃した妻の問いかけに、ヴィクトルが全てを共有すれば、シシリアは「名案ですわ」とコロコロと笑ったのだった。



◆  ◇  ◆


 ライアンは柔らかな温もりの中で目を覚ました。ふかふかとした上質な寝具に身を包まれており、なかなか夢心地から抜け出せない。

(ここ、どこだろう?)

 自分の部屋じゃないことは明白だった。自分にあてがわれたのは全て兄のお古で、マットも掛け布も薄く固くなっている。

 確か昨日は…と振り返って、がばりと身を起こす。辺りを見渡せば、見知らぬ調度品ばかりだ。

 ようやく思考がクリアになれば、さぁっと背中が冷たくなる。そして慌てて寝台を降りて駆け出した。部屋を飛び出し、人影を探す。一晩ぐっすり眠った体は軽やかだった。

 見つけた女性使用人に声をかければ、どうやら彼女は自分のことを言いつかっていたのだろう。慌てるライアンを宥めて、とある部屋へと案内してくれた。

 そこには見覚えがあった。

 初めて訪れ案内された一室。確かシエルは「談話室」と呼称していたように思う。あいにくとライアンには馴染みのない場所ではあった。応接室と何が違うのだろうか。

「おはようライアン。よく眠れた?」

 昨日オムライスを食べたあのソファ席から、シエルが声をかけてくる。

 シエルとシエルの母親、そして初対面の男性が2人。壮年の人物がシエルの父親なのだろう。自身の父親と比べて随分優しそうな雰囲気に、焦っていた気持ちが少しだけ凪いでいく。

「お、お初にお目にかかります。ミチエーリ家三男のライアンと申します。この度は急な訪問、誠に申し訳ございません」

 何とか絞り出した口上に、ベンダバール侯爵はどこか困ったように笑った。その表情が自分の存在そのものに対してだと勘ぐり、ライアンはさらに深く深く頭を下げた。すると聞き馴染んだ笑い声が弾ける。

「そんな畏まらなくて大丈夫だよ! いつまでもそんなところにいないでこっちおいで」

 シエルの明るい声に幾分か気持ちが浮上するが、しかしその場から動くことが躊躇われた。するとシエルが駆け寄ってきて手を差し伸べてくれる。

 そこでようやく、ライアンは思い出した。その瞬間、顔から火が出んばかりに熱くなった。

「し、シエル……昨日は、その、ごめん……!」

 ぶんっと音がしそうな勢いで、ライアンは再び頭を下げた。その際に危うくシエルにぶつかりそうになったことに気づかなかったのは、情けなさと羞恥心でぎゅっと目を瞑っていたからだろう。

 痛いくらいの沈黙の中、微かな衣擦れの音が聞こえたと思ったら、さっきとは違う角度から声が聞こえてきた。

「ライアン、目ぇ開けてー」

 下げた頭よりさらに下から聞こえた声に、ライアンは恐る恐る瞼を開く。するとしゃがみ込んだシエルとバッチリ目が合った。

「思い切り泣いたらスッキリしただろ?」

「え……?」

 その問いかけにはたと気づく。昨日までのモヤモヤはあっさりとどこかに消えさえっていた。確かに泣きながら今までの苦しさや無念を喚き散らした気がする。

 伺うように覗き込んでくる色濃い青空色の瞳が、いつも以上にキラキラと輝いているように見えて、ライアンは無意識にこくりと頷いた。

 そうするとシエルの口角がにんまりと吊り上がる。その表情を今までにも何度か目撃しているライアンは、思わずひくりと口元を引き攣らせた。

 以前にシエルはこう言っていた。シエルにとって自分は、気兼ねなく揶揄える数少ない人物なのだと――

「んじゃ、狙い通りだな」

「もしかしてわざと……⁉︎」

「良かれと思ってやったってのに、人聞きが悪いこと言うなよなぁ」

「シエルってば本当ずるい。……ありがとう」

「どーいたしまして」

 すくっと立ち上がったシエルが手を差し出してくれる。初めてじゃない。例えばこっそり学院を抜け出す際やカフェから帰る時でさえ。

 まっすぐに見つめてくれる、力強くも優しい眼差し。

 そして同じようにまっすぐに差し出される、ちょっと小さいけど暖かい手のひら。

 シエルがいたから救われた。

 シエルがいたから頑張れた。

「……かっこいいなぁ」

 ぽつりと溢れた言葉に、澄んだ空色が驚いたように丸くなる。しかしそれは一瞬ですぐにスッと細くなる。片方の口端を吊り上げ不敵に笑うその表情は、不遜で生意気で、でもシエルにとてもよく似合っていた。

「最高の褒め言葉だな」

 ぞくりと肌が泡だった。でもそれは恐怖ではない。ただただ圧倒された。そしてシエルが一段と輝いていた。

 今のシエルの笑みと言葉を、ライアンは決して忘れないだろう。

 どくどくと早鐘を打つ鼓動は、ともすれば恋慕に近いことに、ライアンは気づかない。

 ただただ憧れた。そして改めて決意する。

 シエルみたいになりたい。

 いつまでもシエルと友人でいたい。

 だからそのために、もっと強くなろう。

 これはそのための第一歩だ。




 その奥でシエルの家族たちが複雑な表情を浮かべていたことに、子どもたちが気づくことはなかった――

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