第13話 大事な友人のためにできること

 夏休みは穏やかに過ぎていった。久しぶりに帰ってきた領地は特に変わった様子もなく平穏そのもので、のんびりとした日々を過ごすことができたように感じる。

 王都での毎日は楽しかったが、緊張や刺激により知らないうちに疲弊していたのだろう。最初の数日はカントリー・ハウスでゆっくりし、イザークとアマリアと一緒に街におでかけもした。しっかりと休めた後は勉強や鍛錬の時間も取れるようになった。

 そうやって過ごす内に、シエルは何かモヤモヤとしたものを感じるようになっていた。ほとんど衝動的にとある人物に手紙を書き、王都に戻った際に会う約束を取り付ける。そして彼に渡すための土産を用意して、領地を離れた。


◆  ◇  ◆


 学院生活が再開するまであと5日。シエルはリベル高等学院からほど近い自然公園を訪れていた。大きな噴水が特徴のここは待ち合わせスポットとして有名だ。リベル高等学院の生徒らしき若者たちがちらほら見受けられる。

 周囲を何気なく観察していると、少し離れたところから自分を呼ぶ声がした。振り向けば、申し訳なさそうな表情で駆け寄ってくる友人の姿。そんな彼にひらひらと手を振った。

「お待たせしてごめんー!」

「言うほど待ってねぇよ。こんにちは、ライアン」

「こんにちは、シエル。今日は誘ってくれてありがとう。手紙すごく嬉しかった」

「友達に手紙書くって初めてだったからちょっとドキドキした」

「僕もだよー。なんか良いよね、こういうの」

 ふにゃりと垂れ下がった眦に、シエルも自然と笑みを浮かべる。どうやら心配は杞憂だったのかと胸を撫で下ろした。

 いつも通りカフェを探して街へ繰り出す。今日は昼間からなので、普段よりものんびり散策ができるねと、ライアンが声を弾ませた。

 夏の日差しは強いが、大きな通りは風が通り抜けて心地良い。たくさんの店が並ぶ商業地区は露店も出ていて活気にあふれている。

「あ、フルーツバー売ってる! 買ってきても良い?」

「あ、僕も食べるー」

 目指すのはまだ訪れたことのないカフェだが、寄り道も楽しかった。特に今歩いているのは食べ物系の露店がひしめくエリアで、右からも左からも誘惑が迫ってくる。

 ひょろりと細身のライアンは、その外見にそぐわぬ大食漢で、肉汁滴る焼き串や海産物や野菜のフリット、大きなバケットサンドまでも食している。

「うわぁ、どれも瑞々しくて美味しそうだねー。シエルのおすすめは?」

「この時期ならメロンやスイカももちろん美味しいんだけど、今年のマンゴーは特に甘くておすすめだよ」

 ベンダバール侯爵領は王都の南側の緑豊かな土地で、農作物や果樹の栽培が盛んだ。シエルの果物好きの所以でもある。

 カントリーハウスがあるフローレの街の郊外には大きな果樹園が広がっており、旬の果物が毎日市場に並んでいる。だからシエルもよく市場に行っては、その年の作物の出来栄えを実際に目で見て時には売り手や作り手に聞いたりしている。

 そんな話をしながら、ライアンはマンゴーとスイカ、シエルはライチとメロンのフルーツバーを購入した。

「あー、お腹いっぱい! こんなにいっぱい食べたの久しぶりだよー」

「え?」

 結局カフェを探す余裕なんかなくて、2人は露店エリアの端に設けられた小さな広場のベンチに腰を落ち着けた。

 満足げに笑うライアンの言葉に、シエルは訝しげに眉を顰める。

「……また食べさせてもらってないのか?」

 確信めいたその言葉に、ライアンは一瞬しまったといった表情を浮かべた。それは本当に微かな変化だったが、シエルは見逃さなかった。

 それこそが何よりも雄弁な答えである。

 シエルは悔しそうに自身の拳を握りしめた。ライアンの家族と、そして何もできない自分に対して怒りが沸々と湧き上がる。

 その拳にライアンがそっと手を重ねた。包み込むように、落ち着かせるように優しい大きな手だ。

「怒ってくれてありがとう」

「……うちに来いよ」

「え?」

「父様たちは俺が説得する。侯爵家が相手だ。ミチエーリ伯爵も強くは出られないはずだ。虐待の証拠を提示して――」

 シエルの思いは最後まで言葉にできなかった。拳に置かれた手が遮るように握りしめられたのだ。咎めるように、でもどこか縋るように、きつくきつく力がこもる。

「ありがとう。でも、シエルにそこまで迷惑かけられないよ。……だから大丈夫」

「っ! 大丈夫じゃねぇだろ!」

「大丈夫だよ。だからもう少しだけ、意地張らせて?」

 春の暖かな日差しの下で咲き広がる菜の花畑のような柔らかな黄色の瞳が、まっすぐにシエルを見つめる。そこに込められた信念に、シエルは不機嫌そうに眉をしかめた。

 でも彼の決意を無下にすることはできない。そんな権利、ない。

「……いつでもいいから。逃げたくなったらいつでも来いよ」

「うん。ありがとう」


◆  ◇  ◆


 夏休みも終わり、新学期が始まった。

 一番の注目はやっぱりリリアーナだ。腰近くまであったふわふわの栗色の髪を肩下までバッサリと切り、高い位置で一つに結んだその姿は、今までのお淑やかなご令嬢とは百八十度変わった。

 最初こそクラスメイトからの反応に不安そうにしていたが、砕けた口調やコロコロ変わる表情は簡単に受け入れられた。特に平民出身のシスティとは、さらに距離が縮んだようだ。

「リリィ、嬉しそうだな」

「前から仲良しだったけど、更に深まった感じがするよねー。でもどうして急に変わったんだろうね」

 ライアンの笑顔の問いかけに、シエルは思わず苦笑をこぼした。多分彼は察しているのだろう。評価されていると思えば悪い気はしないが、変に期待されても困るのも事実である。

(つーか、期待するなら俺の提案を少しは受け入れろっつーの)

 声には出さずに悪態をついて、シエルは仲良く談笑しているリリアーナとシスティへと視線を向けた。年頃の子供のように大きな口を開けて笑うその表情を見ていると、こっちまで嬉しくなってくる。

 みんなに笑っていてほしい。少なくとも、自分の周りにいる人間には。

 それにライアンを実家から引き離したい理由は、彼の身の安全だけが目的ではない。ミチエーリ家が信用できない内は、カイザスとサフィロのことを伏せようというのが、全員の見解の一致だからだ。

 ちなみにライアンの境遇はシエルしか知らない。両親に相談すべきだと頭では理解しているのだが、彼が望まぬ内は手を出すことが憚られた。

 だからせめて放課後のカフェ巡りに誘った。誘いまくった。最初の頃は嬉しそうだったが、最近は苦笑のほうが多くなったと思う。

 それでもやめるつもりは一切ない。新しいカフェを探すために、使用人たちにリサーチしたり、休日に出かけることも増えたほどだ。

「なぁシエル様よぉ。もう王都中のカフェ巡ったんじゃね?」

 休日のカフェ巡りのお供はイザークだったり、アマリアだったりその日によって変わる。今日はイザークがついてきてくれたのだが、彼は別にカフェに興味はないから、どこかうんざりしていた。

「……お前今度は何企んでんだ?」

 それは今までにも何度も訊ねられたことだ。しかし今回はいつもと違う。単刀直入に、そしてはぐらかすことができないように雁字搦めの問いかけがシエルに襲いかかる。

 鋭さの増した視線に射抜かれ、一瞬だけシエルは身を固くした。これぞまさに蛇睨みかと、シエルは頭の片隅で少し笑う。その余裕を原動力に意を決して心を奮い立たせ、仄暗い灰色の瞳をしかと見つめ返した。

「まだ言えない」

 騙すでも誤魔化すでもなく正直に告げる。自身を主人とし忠誠を誓ってくれた彼に、嘘はつきたくなかった。

 しばしの静寂が2人の間を通り過ぎていく。そして先に根負けしたのは、やはりイザークの方だった。

「〜〜っ。強情すぎんだろ」

「何せ最高の師匠に鍛えられましたから」

 器用に片目を瞑って誇らしげに胸を張れば、シエルの完全勝利である。机に突っ伏して乱暴に髪をかきむしるイザークから吐き出される悔しそうな悪態を聞きながら、シエルは氷の溶けたアイスラテを口に運んだ。

(いい加減、覚悟を決めねぇとな)

 それは友人に対してか、はたまた自分自身にか。

 もっと早くそうすべきだったと後悔することを、この時のシエルは想像すらしていなかった――

 


 翌日。

 いつもなら始業時間よりも余裕たっぷり早めに来て、なんだったら通学路にあるパン屋で買ってきた焼きたてパンを美味しそうに食べているはずのライアンは、まだ登校していなかった。

 胸騒ぎがする。

 居てもたってもいられなくなったシエルは教室の外で彼が来るのを待った。

 始業時間のギリギリにようやく現れた彼を見て、胸騒ぎは確信に至った。

 授業が始まるのもお構いなしに、シエルは彼を連れて空き教室に押し込んだ。探索封じの魔法と防音の魔法をかけ、物理的に鍵もかけてようやく彼へと向き直る。

「いい加減にしろよ! このままじゃお前殺されるぞ⁉︎」

「あははー、流石にそこまでじゃないと思うけどねー」

 いつものようにふにゃりと笑うライアンの顔には血の滲んだガーゼが貼り付いている。

 それだけじゃない。

 乱雑に巻かれた腕の包帯も所々赤い染みが広がっている。

 今もなお血を流し続けている友人に対し、シエルは眦を吊り上げた。へらへらと笑う友人にも、そしてそんな彼の家人にも激怒する。

「そんな大怪我させられてなんで笑ってんだよ‼︎」

 握った拳が怒りで震える。荒れ狂う激情は魔力を孕んで教室内を暴れ回った。魔力の奔流が机や椅子、窓ガラスや壁さえもガタガタと揺らすが、それでもシエルは平静を保つことができなかった。

 それどころかもっと、と願ってしまう。このまま形にならない魔力の渦がミチエーリ家を跡形もなく吹き飛ばしてくれたら――


「シエルっ!」


 大きな体が自分を正面から包み込む。高い身長と釣り合うような少し長めの腕は、簡単にシエルの背中へと回り、あやすように優しくリズムを刻む。

「怒ってくれてありがとう」

 まただ。

 この言葉を聞くのは2回目だ。

 だからシエルは落胆した。それと同時に魔力の奔流も勢いを失い、教室内に静寂が訪れる。

 その後に続くであろうやんわりとした拒絶を覚悟して、シエルはきゅっと唇を結んだ。そして少しだけ彼に縋りつくように眼前のシャツを握りしめた。

 まるで自分はここにいるよと、彼に気づかせるかのように。

「……本当はもうちょっと頑張るつもりだったんだけどなぁ」

 耳元で呟かれた小さな独白。滲む苦笑は諦観か、はたまた自嘲か。多分どちらも混じっているのだろう。

「……騎士になれない僕には、何の価値もないんだって」

「そんなわけないだろ」

 幼い頃から植え付けられていたのだろうその固定概念をきっぱりと否定すれば、彼の小さな吐息が耳に届いた。未だキツく抱きしめられているため、その表情は見えない。笑っているのか泣いているのか、怒っているのか全てを諦めているのか、何も判らないから、シエルはひたすらに続きを待った。

 彼が何を考えて、そしてこの後どうしたいのか。

「シエルのお父上に会わせてほしい。ミチエーリを、父さんの計画を止めないと……!」

 ライアンの言葉をうまく処理できずに一瞬だけ思考が停止する。しかし彼の菜の花色の瞳に覚悟が宿っているのを感じて、一つしっかりと首肯した。



 あの後、ライアンの怪我を魔法で癒したシエルは、そのまま教室には戻らずに彼を家に連れて帰った。

 予定よりも随分早い帰宅に、出迎えてくれた使用人たちが驚いている。

「シエル? 学校はどうしたの?」

 誰かが呼びに行ったのだろう、少し慌てた様子でエントランスに現れた母をシエルはまっすぐに見つめた。その真剣な、そして何か覚悟を決めたような表情に、シシリアは微かに目を見開き、そして優しく微笑む。全てを受け止めてくれる優しい眼差しが、シエルの緊張を幾分か解きほぐしてくれた。

「母様と父様にお願いがあります」

「もちろん聞くわ。でもここじゃ何だから談話室にいらっしゃいな。お友達も一緒に」

 客人をもてなす客間ではなく、家族の憩いの場である談話室を提案されて、シエルは驚いた。しかし母の思いやりを感じ取り、嬉しそうに顔を綻ばせる。

 その表情の変化にシシリアは胸の内でほっと安堵の息をついた。成長の証とは言え、シエルの纏う張り詰めた緊張感はどこか他人行儀のようで落ち着かなかったのだ。

 シエルたちを誘うよう差し伸ばされた手を見て、シエルは何かを思い出したかのようにはっと目を見開き、シシリアに駆け寄った。口元に手を翳し少し背伸びをすれば、内緒話がしたいと気づいてくれたのだろう、母が身をかがめてくれた。近づいた耳に優しく告げれば、シシリアが驚いた表情で目を丸くしている。視線だけがライアンへと向けられたのが判った。母の判断を固唾を飲んで待てば、シシリアはすぐに大きく頷いてくれた。

「そう言うことなら、準備をお願いできる?」

「……っ! ありがとうございます! ライアンは母様と一緒に先に談話室行っててー!」

 シエルは友人にそれだけ告げると邸の奥へと駆けていく。

 目指すは厨房だ。朝食と昼食の間のこの時間は、使用人たちが交代で休憩をとっていることを知っていた。

 つまり、何かしら食べ物を分けてもらえるはずだ。

 コンコンとノックをしてから扉を開ければ、ちょうど賄いを食べていたコックたちの視線が集まった。

「シエル様? 学校に行かれたんじゃ?」

「ちょっと用事があって帰ってきたんだ! それより何かご飯残ってない?」

「まさかお腹が空いて帰ってきたんじゃないでしょうな?」

「マロウのご飯は世界一だからね!」

 器用に片目を瞑って告げれば、料理長のマロウは嬉しそうに笑った。そして食事の手を止めて立ち上がる。

「オムライスでよろしいですかな?」

「オムライス大好き! 2人分お願い!」

 まるでVサインよろしく勢いよく手を突き出せば、それを見たマロウが驚いたように目を丸くした。

「2人分食べるんですかい?」

「ううん、友達の分。昨日から何も食べてないんだって!」

「そりゃ大変だ! 急いで拵えましょう!」

「ありがとう!」

 使用人たちの賄いはチキンと野菜がたっぷりのチキンライスとスープだったようだ。短い時間でも簡単に食べられて、なおかつ洗い物を少なくするワンプレート料理は使用人たちの基本だと、シエルはマロウから教えられた。その合理性に感銘を受けたシエルは、1人で食事を摂る際には彼らと同じ物を用意してもらっていたりする。

 まるで魔法かのような短時間で出来上がったオムライスに、シエルの瞳がキラキラと輝きだす。そして何度も何度もお礼を告げて、こぼさないように慎重に、でもできるだけ急いで談話室へと運んだ。

 部屋の前ではアマリアが待機していた。目が合うと無言で扉を開けてくれる。両手が塞がっていたのでありがたかった。

「お待たせしてごめんなさい!」

 母がいる手前言葉遣いに気をつけながら謝ると、ライアンが驚いたようにシエルを見上げてきた。そんな彼にシエルはしてやったりと笑みを浮かべながら、持っていた大きなトレイをテーブルに置いた。

「これ作ってもらってたんだ。一緒に食べよ」

「あら。美味しそうね」

「母様も一口如何ですか?」

 ライアンの隣に腰を下ろして、シエルは早速スプーンを手に取った。そして「いただきます」と手を合わせてから掬ったオムライスを母の方へと差し出す。

 シシリアは嬉しそうに目尻を下げて、長い髪を耳にかけて顔を近づけた。そしてそっとスプーンを口へと迎え入れる。

 そのやり取りをライアンは驚きの表情で見つめていた。いやこれは見入っていたと言うべきだろうか。自身の境遇と真逆のその光景が眩しくて、そして自分が惨めに思えて、静かに顔を俯ける。

「ライアン?」

 食事に手をつける様子がない友人に、シエルは不安げに声をかける。もしかしたら体調が良くないのかと、そっと彼の肩へと手を伸ばした。

「……どうして、こうも違うんだろうね」

「うん?」

「……僕もこの家に生まれたかったなぁ」

 それはきっと複雑な心の内を凝縮させた一言だったのだろう。か細い慟哭を聞き逃すには、ここはすごく静かで、だからシエルは答えを探した。でも何て言えばいいか判らなかった。

 いや一つだけシエルは言葉を持っている。すでに一度彼に向かって放った言葉。あれは今でも変わらぬ本心だが、今この場でもう一度口にすることを憚られたのは、ここがすでに自分の家で、そしてすぐ傍には母がいるからだ。両親に相談もせず勝手にもう一度告げることがどうしてもできなかった。

「シエル。確か貴方は私たちにお願いがあるのよね?」

 母の優しい問いかけに、シエルは恐る恐る彼女を仰ぎ見た。そしてぎゅっと拳を握りしめる。

 物心がついてすぐの頃、両親や兄に向かって無茶苦茶なお願いをしたことがある。あの時に見た両親の泣き出しそうな顔を思い出すとどうしても意気地を失ってしまう。

 大好きで大切な家族を困らせてしまうのは嫌だ。

 でも…と、シエルはそっと隣に座るライアンを盗み見る。

 家族ほどではないが、それでも彼もまた大事な友人だ。放課後の寄り道を一緒に企む、秘密を共有する気の置けない友達。

 だから勇気を出そう。

 大丈夫。あの時に放った我儘よりは随分と現実的なお願いだ。

「ライアンをミチエーリ家から解放してあげたいんです。そのための知恵と力を貸してください…!」


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